孤高の跳ね馬

 コスワースDFVの全盛時代にあっても、シャーシー及びエンジンを自前で供給するチームと言えばホンダ

とフェラーリだけだった。尤もホンダは市販車開発に手を取られて1968年に撤退したから、初心貫徹を遂げた

のは、発足以来フル・コンプリートを続けてきた孤高の跳ね馬、ただ一頭ということになる。

 

 コスワースDFVV8だったのに対し、フェラーリが水平対抗12気筒という特異なエンジンだったため

フェラーリ=水平対抗12気筒という印象が強いが、実はポルシェのほうが水平対抗型を取り入れたのは

早かった。それにフェラーリにおけるエンジン史にあって水平対抗型は日が浅く、V型レイアウトが占める

比率が大きい。つまるところV型レイアウトこそレシプロ・エンジンの結論とも言えるだろう。

V型エンジン Dino 156 (1961年)

正面模式図 

 

 空力については詳細を後述するが、目的はタイヤと地面の接地性を向上させるために利用する。だから

翼は車輪に直接繋がるほうが都合が良い。また、翼は乱れていない気流を受けたほうが高い効果を発揮する。

そのような理由で、F1界にあって最初に現れた翼は、後輪の付け根から「物干し竿」の如く、細い支柱により

高い位置に取り付けられた。しかし後輪の片側バンプの際、支柱にかかる負担は劣悪で、大事故が続発した。

そこでFIAはレギュレーションを改正し、翼について細々と規制した。その結果、翼は後輪の付け根ではなく

シャーシーに取り付けるよう義務付けた。翼はシャーシーに取り付けると、せっかく稼いだダウン・フォースを

サスペンションに取られてしまう。又、ボディの構造物に遮られて乱れた気流を受ける事になる。

 このような場合、背丈と重心位置が低いエンジンが用意できれば理想だろう。水平対抗エンジンは、ここに

来て、やっと日の目を見る運びとなった。

 

 マウロ・フォルギエーリは、1946年に製図工としてフェラーリのレース部門に入社した、当時30前の若い

スタッフだった。純粋な設計者というよりもテクニカル・デザイナーで、一人でエンジン開発を仕切ることは

なかったらしい。フォルギエーリは、大学の卒業論文のテーマに「水平対抗エンジン」を選択したくらい

熱狂的な水平対抗信者だった。

 しかしフェラーリとしては1964年に、フォルギエーリの指揮で1.5リッターの水平対抗エンジンを試した時、

結果として勝利とは無縁だったため、水平対抗の評価は低かった。

 フェラーリ312 の 312 とは3リッターで12気筒の意味だが、1969年の312に搭載されたV12は信頼性の

不足と馬力不足を抱え、ホンダと同様、重量過多により苦戦を強いられる。この不振を打開するため根本的に

方針を転換せざるを得なかった。「白羽の矢が立った」と言えば聞こえが良いが、実のところ、この期に乗じて

フォルギエーリが一世一代の大博打に出たわけだ。それが図に当たり、1970〜1980年にかけて水平対抗12気筒

の時代を迎えるのである。                                                     (Fulcrum 著)