豊穣なるラータイアと勇猛なるウィルローン。
その南の辺境のさらに辺境に大いなる大樹があった。
千年樹と呼ばれるその大いなる樹は草木を呼び、動物達を育み、
そのたもとにはいずこからともなく人が集った。
かつて不毛の土地であったその地はやがて恵み豊かな地となり、
雲まで届く梢のある地−−ユフルルム（梢雲郷）と呼ばれるようになった。



男の視線の先には巨木がそびえていた。
おそらく、樹齢1000年は下らぬであろう。
その幹は大人数人でもかかえきれないくらいに太く、枝は天高く周囲を覆いつくさんばかりに広がっている。
しかし、よく見ればその巨木の表面はところどころが腐り落ち、
葉もまばらにしか付いていない。
樹のことにはあまり詳しくない彼から見ても
巨木の寿命が尽きかけているのは明らかだった。

「ここまで衰えられたとは……」
男　――ユール・ウフルムは暗澹たる気持ちでつぶやく。
巨木はこの地、ユフルルム（梢雲郷）の守り木であった。
世界の木々の始祖であるとされる世界樹の子　――千年樹であるこの巨木は
本来不毛の地であるはずのこの土地に大いなる恵みを与え、
草花を呼び、動物達を育んだ。
そして、そこに寄り添うようにして暮らしてきたのが
ユール達ユフルルムの民であった。

この巨木が失われれば、この地は再び人が暮らすことが困難な土地と化し、
ユフルルムの民は故郷を失うことになる。
もちろんそれはそれで、ユールにとってあってはならぬことであった。
しかし、それ以上に、この巨木が失われるということ事態そのものが
彼にとっては重大なことであった。

この巨木には樹の精が宿っている。
　――巷の賢者達に言わせれば、精霊というのはすべての木々に宿っていて、
人がそれに気づくか気づかないかの違いであるらしいのだが。
いまでこそ、その力を失い姿を見せることもなくなったが、
年に何度か行われる祭りが行われるたびにユフルルムの民の前に姿を現していた
巨木の精　――グネリューナは彼にとって、そして、ユフルルムの民すべてにとっても、
実の母と並ぶもう一人の母とでも呼ぶべき存在であった。
ユフルルムに生まれた者たちは、
寝物語としてこの巨木によって、この地が育まれ、守られてきたことを聞かされて育ち、
巨大でありながら、なんともいえぬ安らぎを与えてくれるその姿を日々見上げながら日々をすごす。
それに、"あの事件"が起きて以来、その姿を目にされることはなくなったが、
グネリューナはことあるごとに姿を現し、里の者たちに恵みを授けてきた。


ユールも幼き日の祭りの夜、
自分に祝福を授けてくれた彼女の美しく包容力のある微笑みを
その手のぬくもりとともに今もはっきりと思い出すことができる。
この巨木が失われるということは、彼女を失うことになる。
それはある意味、故郷を失うことと同じくらい重大なことであった。

そのようにとりとめもなく思いを巡らしていると、
彼の後ろのほうから近づいてくる気配がある。
ユールが振り返ると一匹の大きな狼が彼のほうに近寄ってくるところであった。
「やぁ。久しぶりですね。シグ」
ユールが親しげに語りかけると、その狼―シグは重々しい声で答える。
「そうじゃの。帰ってきたと聞いて探してみたが、やはりここであったか。」
狼が人の言葉を操るというのは尋常ではないのだが、ユールはそれがさも当然であるかのように話を続ける。
「ええ。戻ってきたからにはお目にかかっておかないわけにはいかないでしょう。
ところで、私がいない間にグネリューナ様がお姿を現されたことはあったのでしょうか？」
ユールの問いかけにシグはかぶりを振る。どういうわけであろうか、狼であるにもかかわらず妙に人間臭い。
「いや。5年前の夏越えの祭りでお姿を拝見して以来、一度もお目にかかっておらんよ。」
「やはりそうですか。もう時間はないのですね。」
「ああ。汝が見ても明白であろうが、
　眷属である我は、その衰えられようが
　なおはっきりと感じられるでな。何とおいたわしいことか……。
　しかし、そなたがこうして戻ってきたということは、何かグネリューナ様をお救いする良い策を見つけたのであろう？」
シグはユールを見上げて問う。
「ええ、まぁ。ずいぶんと心細い手がかりですが。」
「左様か。しかし、今やその手がかりことが我々の大きな希望よ。」
シグにそう言われるとユールは自分に課せられた期待の重さをひしひしと感じる。
「そういわれるとなかなか話しにくいのですが……。
　とりあえず、そのことについてゆっくりと話したいので、うちに行きませんか？
　収穫祭も過ぎると夕刻の冷え込みがきついですし。」
「ふむ。相変わらずそのあたりは軟弱というか、各地を旅して多少は骨のある奴になって帰ってくるかと思ったのだがな。」
ユールはシグの小言に軽く苦笑しながら答える。
「いえ、もちろんそのあたりはだいぶ辛抱できるようにはなったと思いますが、
我慢しなくて良いのであれば、しないに越したことはないでしょう。」
「ふん。そのような心構えが軟弱だというのだ。まぁよい、先に行くぞ」
シグがそう言うとするりと身を翻して駆け出し、一瞬のうちにユールの視界から消える。
「はぁ、せっかちですね。それではグネリューナ様、失礼いたします。」
ユールは目の前の巨木にそう告げると先に行ったシグの後を追い、家路へと足を向けた。