Grasshoppers Movie
―映画についてちょっと語ってみた―



尻切れトンボな映画達


エル・スール 、 アルジャーノンに花束を 、 華氏451度 、 黒衣の花嫁

ネタばれ注意 : 上記の作品について、原作共々結末にまで言及しています。

ヴィクトル・エリセ監督は寡作で知られるが(10年に1本しか撮らない)、「ミツバチのささやき」の十年後に製作された第2作「エル・スール−南へ−」(1983 スペイン) もまた奇跡的な名作となった。 内容を要約すると、かつての恋人(映画女優)を忘れることが出来ない中年男が、自殺するに至るまでを、その男の娘の視点から描いている。

淡々と物語が進んで行くなかで、男が徐々に過去の恋人に想いを募らせていく様を、実に細緻に描いている。 「ミツバチのささやき」とも共通する不思議に静謐な空気が漂っており、派手さは無いながらも、強く印象に残る美しい作品だった。

ところが「スペイン映画史」(乾 英一郎著 芳賀書店)を読んで驚いた。 この映画には原作があるのだけれど(ちなみに原作者は監督の奥さん)、制作費不足のため、最後まで撮影することが出来ず、それ故に監督は作品の出来には不満を持っているというのだ。

「スペイン映画史」によると、原作では、父親の死後、娘が父のかつての恋人だった女を尋ね、彼らの間に子供があったことを知る。 言うまでも無くこの子供とは自分の異母兄弟である。 どうして父が死ななければいけないほど深く思い悩んだかの答えがハッキリと示されるわけだ。

ショッキングな結末だ。 映画で物語の結末まで描く事が出来なかったことは、監督にとって確かに大きな心残りだったに違いない。 しかし、映画の方は淡い情感を残すことに成功しており、これはこれで一つの完結した作品だとみなすことが出来るように思う。

もしも父と女の間に子供がいたのならば、父親の自殺は不思議なことではなくなる。 彼はリアルな現実問題に苛まれていたということだ。 しかし映画では、子供の存在が示されていないが故に、ミステリアスな雰囲気が漂っている。 そして、娘という立場からは窺い知れない、父親の女性に対する憧れとか、過去への憧憬とか、父の青春時代とか、そういった淡く儚いものに、自ずと焦点が当てられていたように感じるのだ。

つまり「エル・スール」は、(監督にとっては不本意だったのかもしれないが)原作にある結末を描かなかった故に、独特の清冽で忘れがたい余韻を残すことに成功したと言える。

そこで考えた。 ぼくは、映画に原作がある場合は、出来る限り先に原作を読んでから映画を観るようにしているのだけど、たまに原作にある結末を描かずに終わってしまう映画がある。

敢えてハッキリとした結論を示さないまま物語を終わらせ、続きは読者なり観客なりの想像に委ねるという手法は昔からある。 しかし原作でキチンとした結末が示されているのに、それを敢えて割愛するのは、監督や脚本家、演出家にとって、かなり思い切った演出である筈だ。

「エル・スール」では、予算の関係で、それを余儀なくされた訳だけど、他にも意図してそのような方法をとり、原作とは違った味わいをだすことに成功している作品が幾つかある。 それらは「尻切れトンボな映画」とでも言えるだろうか。

まず思い浮かんだのは、ダニエル・キイス著の「アルジャーノンに花束を」。 原作を要約すると、ある知的障害者の青年が、投薬によって短期間で劇的に知能が高くなり、障害者クラス担当の女性教師と恋に落ちる。 しかし、薬が不完全だった為、再び知的障害者に戻るという物語だ。

原作のクライマックスは、最終的に知性を失ってしまった主人公が、自分でそれと分からずに、かつての恋人である女性教師の授業に出席してしまうシーンだ。 一度青年と恋に落ちた女性教師は、再び知的障害者に戻ってしまった青年の姿を見て、激しく取り乱す。 なんとも言えず切なく、尚且つ考えさせられてしまうシーンで、本を読みながら思わず涙ぐんでしまったのを憶えている。

ところが映画では、大胆にも、主人公が薬の力で手に入れた知能が失われ始める、という所で物語に幕を引いてしまった。 悲劇の結末までは描かない。 「このままぼくは元の知的障害者に戻ってしまうかもしれない…」、と将来に大きな不安を残したまま、唐突に映画は終わってしまうのだ。

好きな小説の映画化ということで、かなりの期待を込めて観始めたのだが、この終わり方には良い意味で予想を裏切られ、思わず唸らされてしまった。 原作にあったような激しい感情の高ぶりと諦観の代りに、恋人同士の間に芽生える、未来に対する深い絶望や不安、そして一度は高い知能を手に入れた青年がそれを失う恐怖を提示するところで終わる。 もちろん敢えて悲劇の末路を示すまでもなく、観客は、この恋人達がどうなってしまうかを容易に想像できる。 というより、行先に垂れ込めるどんよりとした暗雲を見つめざるを得ない…。

非常に後味が悪いものの、見事な切り方だと思った。 この作品は原作が非常に良く出来ていて(アメリカのSFで、最も優れた作品の一つだろう)、主人公の日記という体裁をとっているのだけれど、文体の変化によって主人公の知能の進歩を表現するというところに独特の面白さがあった。 (最初は、ひらがなだけで、句読点などない読みにくい文章だったのが、だんだん使う漢字の量が増えてきて、適切な場所に句読点を打てるようになり、内容も知的で高度なものに変わっていく。 ちなみに原書をパラッと見たら、最初は大文字小文字の使い方、スペル、文法が目茶苦茶だったのが、だんだんキッチリした文章になっていく…という感じだった。 小尾芙佐氏による翻訳がとても優れている)

やはり文章を読んでこそ面白さが最大限に発揮される物語なので、映画化は難しかった筈だけど、敢えて結末を提示せず、原作とは違った部分にスポットを当てたために、原作とは全く違なる印象を遺すことに成功している。

そのようなことで成功しているもう一つの例は、「華氏451℃」だ。 ぼくは原作者のブラッドベリの大ファンなので、一体どのように映画化されているか、とても気になっていた。 監督はフランソワ・トリュフォー。

物語の舞台は、オーウェルの「1984」を思わせる近未来の管理社会。 国家が民衆に対してテレビやラジオによる洗脳を行うと同時に、あらゆる文学作品を焚書にして、人々の自主性や考える力を奪ってしまう。 主人公は、本が発見されると直ちに駆けつけ火炎放射器で焼却するという役人だ(消防士の逆!)。 一方、政府に抵抗する人々は、レジスタンス運動として「丸暗記してしまう」という方法で、文学を保存しようとする。

焚書とは何とも大時代的な設定だが、何故かブラッドベリの作品には良く出てくるモチーフだ。 彼の作品は、舞台が図書館だったり、登場人物が本を読むシーンなどが多いので、本に対して独特の強い思い入れを持っているのだろう。

そしてこの物語では、本そのものに、人類の歴史や宗教、主体性、感情など、人が人らしくある為の象徴としての役割が与えられている。 主人公は、本を読む事によって、人間らしさを取り戻していくのだ。 そして主人公が暗記するのは「聖書」である。 ちなみに英語で "The Book" といえば聖書を指す。

(余談だが、この作品では「本」は人間性の象徴とされている筈だ。 ところが、作品中で生身の人間よりも、本に込められた思想や歴史、文学の方が重要であるかのように書かれている箇所が散見される。 実はブラッドベリは決してヒューマニスティックな作家ではないのだけど、いかにも彼らしい特質が垣間見えるようで面白い。)

やがて戦争によって街という街が破壊し尽くされた時、自分の中に本を容れた人々が、再び文学や歴史、思想を語り継いで行くために立ち上がる、というところで物語が完結する。

しかし映画では、主人公がレジスタンス運動に参加するところで終わってしまう。 戦争は起こらないし、従って本人間たちの出番もない。 原作のストーリーからすると、いかにも中途半端なようだ。 ところが、これが思わず息を呑むような鮮やかな切り方なのだ。

(ラストの場面) レジスタンスに参加する主人公。 政府の洗脳から逃れた人々は森に集い、ある者は手近な岩に腰掛け、ある者は本を片手に歩き回りながら、そこに記されている文章を声を出して一心不乱に読んでいる。 本を朗読する何十人もの人々。 森の中で、本を読む人々の声が幾重にも重なって行く。 声、声、声…。

なんて幻想的なシーンなんだ! 原作の、戦争で一瞬にして街が消滅する場面や、本人間達が立ち上がる場面を遥かに上回るインパクトがあるといって良いだろう。

ハヤカワ文庫版の福島正美氏の解説が優れているので要約するが、新たな世代に文明を受け継いでいく為に、廃墟と化した街に向かう本人間達には、諦めに近いような悲壮感が漂っている。 本を、その内容を、語り継ぐ事が出来る時代が訪れたというのに、不思議に将来に向けての明るい展望のようなものは感じられないのだ。 戦争にまで到ってしまったという人間の愚かさが、未来に暗い影を投げかけているのだ。

それに引き替え、映画の方は、人々の強い意志、未来への希望というものを強く感じさせられるのだ。 まだ最終的な戦争は始まってない。 本を読む人々が、本の力によって、未来を良い方向へ導くかも知れないという期待感がある。 ここには原作にあった、澱んだような諦観は希薄だ。

この映画もまた、結末まで描かなかったが故に(その切り方が見事な故に)、却って強い印象を与えたばかりでなく、原作とは異なる印象を残す事に成功していると言えるだろう。

結末を割愛してしまうということでは、フランソワ・トリュフォー監督は他にも一本スゴイのを撮っている。 W . アイリッシュ原作の「黒衣の花嫁」だ。 何がスゴイって、原作は推理小説なのに、最後の大どんでん返し(謎解き)を丸ごと割愛してしまったのだ!

謎の女が次々に殺人を重ねていく、というサスペンスなのだが、原作ではラストであっと驚くどんでん返しが用意されているにも拘わらず、映画の方は最後の一人を殺したところで終わってしまっている。

しかし、この映画版の終わらせ方は、ぼくにとっては極めて納得の行くものだった。 というのは原作を読んだ時に、ラストのどんでん返しで「そりゃないだろ!」と思わず突っ込んでしまいそうになったから(笑)。

原作のアイリッシュは、これまた好きな作家なんだけど(ぼくとトリュフォーの読書傾向は近いような気がする)、推理作家にしては作品に論理的な矛盾が多いというか、御都合主義的というか、最後の謎解きで思わず首を傾げたくなるようなことが多々あるという欠点を持っている。

正直に言うと「黒衣の花嫁」も、推理小説としては不完全と思わざるを得ない作品の一つだ。 傑作だし非常に面白いのは間違い無いものの、最後のどんでん返しが、いかにも取って付けたような感じが強いのだ。 まあこういう風に、無理矢理にでも意外な結末を持って来るというのは、いわゆる「黄金期」の推理小説にはありがちなことなのだけれど。

そもそもアイリッシュの素晴らしさは、独特の寂寥感漂う文体とか、緊迫感溢れる設定、登場人物の心理描写、大都会の片隅に暮らす者の孤独感など、卓越した表現力、文章力にある。 少々ご都合主義的な展開があっても、ほとんど気にならないくらい圧倒的な筆力を持った作家なのだ。 謎解きが中途半端にも拘わらず、「面白かった!」と満足できる推理作家なんて、他にはちょっと思い当たらない。

きっと、ぼくと同じくトリュフォーも原作を読んだ時、結末が余計だと感じたのだろう。 それにしても、あれだけ原作に忠実な映画でありながら、最後のどんでん返しをバッサリとカットしてしまったのは、やっぱり英断だと思う。 だって一応推理小説の名作として、かなり有名な作品なんだから。 もしこれを映画化したのがヒッチコックだったとしたら、ラストのどんでん返しまでご丁寧に再現したに違いない。

トリュフォーは、謎解きの部分を割愛する代りに、サスペンスの要素を強くする事で、原作が本来持っていた面白さを最大限に活かすことが出来た。 「不完全な推理小説」を、「華麗なる復讐劇」に仕立て上げたというわけだ。 この映画も、原作の結末まで描かなかった故に、却って鮮やかな印象を残せたのだと言える。

(これを書くと蛇足になっちゃうかもしれないけれど、主演のジャンヌ・モローがオバサン過ぎるという点で、映画の評価がかなり落ちてしまうのは否めないなぁ…。 その点だけがちょっと残念だった。)

先に書いた通り、ぼくは映画に原作がある場合は、出来る限り原作を先に読んでから映画を観るようにしている。 何故かというと、経験的に原作の方が面白かったというケースが圧倒的に多いからだ(逆は稀)。 映画化されるような本は、きっと面白いんだろうし、映画で陳腐化されてしまう事が多いならば、とにかく先に原作を読んでから・・・というスタンスがいつの間にか確立してしまった。

ということで、ぼくは原作付きの映画に関しては、たいてい見る前にストーリーや結末を知ってしまっている訳だ。 しかし、これらの「尻切れトンボ」な映画は、新鮮な気持ちで観る事が出来たし、非常に感心させられた。 もちろん原作にあった結末が無くなっているのに驚かされたということもあるが、それ以上に、やはりそのような演出を選んだ監督の力量を強く感じさせられるからだ。

上に挙げた作品に共通する事は、結末こそプツリと切れているものの、その他の部分は極めて原作に忠実であることがひとつ(「エル・スール」だけ原作が読めないから分からないけど)。 そして更に重要な事は、どの映画も少なからず作品の持つ意味合い、メッセージが、原作とは違ってしまっているということだ。

作品の持つメッセージが変わってしまうというのは、非常に大きな変化の筈だけれど、結末以外が原作に忠実である事を鑑みれば、全ては物語を切るタイミングにかかっていたわけで、これらの監督達は、流石に鋭いセンスを持っているとしか言い様が無い。

もう一つ特筆すべきは、映画を観た後で原作を読んでも、驚いたり楽しめたりするだろうということ。 なにしろ映画では描かれなかった結末を知る事ができるんだから(「黒衣の花嫁」に限っては却ってガックリ来ちゃうかもしれないけどね)。 ぼくのような活字派にとっては、これは大きい。

結末を割愛してしまうなんて方法は、そうそう使える訳ではないが、それを見事なやり方で見せてくれ、原作共々新鮮な気持ちで楽しませてくれる「尻切れトンボな映画達」に、ぼくは特別な愛着を感じるのだ。

(20020114)





by ようすけ