Grasshoppers Movie
―映画についてちょっと語ってみた―


ミツバチのささやき (1973 Spain) 監督ヴィクトル・エリセ


ネタばれ注意 : 映画の結末にまで言及しています。

「ミツバチのささやき」という映画がたまらなく好きだ。 スペインの自然を背景とした映像は、ため息が出るほど美しい。 また無駄な音楽が一切無く、静寂が神秘的な情感を生み出しているところも素晴らしい。 主人公のアナが丘に立った時の、地平線や風の音が惹起する、自然への畏怖。 しかし何よりこの映画が凄いのは、自分が子供だった頃の感覚を、強烈に想起させてくれるところだろう。

子供の頃のことを想起させてくれる映画は、それほど珍しくはないかもしれない。 たとえば「Stand by me」とか「となりのトトロ」とか「E.T.」なんてのも良かった(「E.T.」は子供の頃見た時はつまらないと思ったが、大人になってから見直すと実に素晴らしかった)。 また単にノルタルジーに浸りたいなら子供の頃に観て印象深かった作品を見直すのも良いかもしれない。

しかし同じように子供の世界を描いた「ミツバチのささやき」が、他の映画と違って特別なのは、自分が子供だった頃の感覚、ものの感じ方を鮮明に思い出させてくれるところだ。 単に懐かしい気分を感じさせるだけでなく、もっと内面的な、記憶の底にある深い個所を抉られるのだ。

一口で言ってしまうなら、この映画の重要なテーマは「幼年期の混沌とした世界の表現」ではないかと思う(もう一つのテーマについては後述)。 主人公の少女アナは、頑なに大人になることを拒み、それは双子の姉イザベルとの対比で強調されている。

一番分かり易いのが、猫に噛まれて出血したイザベルが、血をルージュに見立て唇に塗るシーン。 言うまでもなく口紅は大人の女の象徴だ。

それから、イザベルが焚き火の炎を飛び越えて遊ぶシーン。アナは決してこの遊びに加わらない。 大昔にテレビの「素晴らしき世界旅行(だったっけ?)」かなんかで、アジアだかアフリカだかの少数民族が、大人になるための通過儀礼として炎や焼けた石を飛び越える儀式を行う、というのを見たことがあるけれど、アナが焚き火を飛び越えるのを拒否しているのは、子供の世界に留まることの象徴だと解釈できるかもしれない。

そしてエリセ監督は、「子供(アナ)の目から見た世界」というものに徹底的に拘っている。 例えば、アナとイザベルの姉妹が父親に連れられて森にキノコ狩りに行くところ。 父親は見付けた毒キノコを、これは悪いキノコだ、と言ってブーツで踏み潰す。 その時、画面は毒キノコと父親のブーツのクローズアップとなる。

これはアナの目に映る光景だ。 毒キノコという何だか得体の知れない恐ろしいながらも魅惑的な物体と、それを無情にも踏みにじる父親の足。 一見普通のキノコと変わらない毒キノコに対する恐怖と戸惑い、そして同情のような不思議な感情が、画面から滲み出る。

それから学校の「ドン・ホセ」という人体模型を使った授業。 生徒達は、ドン・ホセにパズルのような要領で、心臓や肺などをかたどったプレートを嵌めていく。 アナがドン・ホセに取付けるのは眼である。 やがて完全な肉体となったドン・ホセの眼のアップ。 これもアナの目に映る光景だ。 子供にとって、もっとも印象的な部分がクローズアップされている。

こうして知らず知らずの内に、アナの視線と、映画を観ているぼくらの視線が重なっていく。 それが、ぼくらの記憶の深層で眠っている、もう何年も前に忘れ去ってしまった筈の、子供の頃持っていたピリピリした感覚を甦らせるのだ。

アナが丘の上に立ち、廃屋を眺めるシーンがある。 廃屋の向こうには圧倒的な地平線が広がっており、風が吹いている。 一見なんでもないような場面だが、これを見た時、自分の少年時代の記憶が鮮明に呼び起こされた。

ぼくが小学生の頃、「校区」なるものがあって(今でもあるだろうけど)、保護者の同伴がなければ校区を出てはイケナイ、という決まりになっていた。 生真面目な子供だったぼくにとって、この決まりはそれなりの精神的な拘束力を持っていて、車道を隔てた向かい側の「校区外」の世界は、目に見えないバリアが張られているようだった。

小さな頃から自転車や徒歩で遠くまで行くのが好きで、よく目的もなく近所を徘徊したものだが、一人で校区外に出る時は、やっぱり何か罪悪感を感じずにはおれなかった。 でも一方で、一人で校区外へ飛び出して、初めて見る町並みや公園を自転車で駆け抜ける時は、なんだか嬉しくて胸の中がザワザワするほどだった。 そういう時、ぼくの全身の神経はピーンと研ぎ澄まされて、目に映る周囲の景色や、風の匂いや周囲の音、風がほっぺたをかすめる感覚などを、とても敏感に感じ取ることが出来た。

そう、アナが丘に立つシーンや、廃屋の周りを精霊を探して歩きまわるシーンなどを見ると、自分が子供の頃に持っていた、5感をフルに使って全身で物を感じるような極めて研ぎ澄まされた感覚が甦るのだ。 それと同時に、あらゆることに鈍感になってしまった(大人になってしまった)現在の自分を省みて、今まで捨ててきたものにも気付かされる。

切ないのは、アナが「フランケンシュタイン」の映画を観て、現実と虚構の区別がつかなくなってしまい、フランケンシュタインのモンスターを「精霊」として、現実の存在だと思い込んでしまうところだ。

ぼくだって幼い頃は、現実と虚構が未分化な、もっと混沌とした世界に暮らしていた。 サンタクロースは実在したし、お化けは怖かったし、悪い怪獣を退治してくれるウルトラマンは頼もしい存在だった。 その現実と空想が入り交じった感じは、今でも微かながら記憶に残っている。

イザベルは、フランケンシュタインのモンスターは実は精霊で、呪文を唱えれば会える、と言ってアナを騙す。 また、死んだ振りをしてアナを騙したりもする。 イザベルを信じて、井戸に向かって精霊に呼びかける場面や、イザベルの死体を前に、どうして良いか分からなくなってしまうアナの姿の哀しさ。 子供にとっては、空想も嘘も現実も入り交じって混沌としているのだ。

やがてアナは、自分が精霊だと思い込んでいた逃亡兵を、父親が殺害した(アナはそう解釈する)と知って、家出をしてしまう。 冷酷な大人の世界からの逃亡だ。

アナは暗い森の中で精霊と出会う。 とても幻想的なシーンだ。 本来なら恐ろしい筈の場面だが、アナは全く恐怖を感じていない。 当然である。 彼女が出会ったのはモンスターではなく、精霊なのだから。 そして、ここでアナが精霊と出会ったということは、彼女がまだ子供の世界の住民であることを意味している。

この映画中、アナは最後まで子供の世界から抜け出すことは出来ない。 大人を信じられなくなり、最後のシーンでは、暗闇の中ひとり精霊に向かって語り掛ける。 しかしここでのアナからは、子供のか弱さのようなものは感じられない。 むしろ子供の世界のイノセントな力強さを体現しているような気がするのだ。 そしてそれは、映画を見ている殆ど全ての人が失ってしまったものなのだ…。

観客の記憶の深層にある感覚を呼び覚まし、更には現在の自分についても思わず深く考えさせてしまうようなところもある。 一体こんな映画が他にいくつあるだろうか?

ここでは主人公のアナを中心に話を進めたけれど、この映画は、アナの両親の微妙な関係の仄めかし方など、細かい表現が実に繊細で素晴らしいのだ。 まったく何度見てもなんとも言えない切ない気分にさせられてしまう。 全く無駄の無い完璧な映画だと言う他ない。

監督のヴィクトル・エリセは寡作で、10年に1本という超スローペースで映画製作をしているのだけど、これほど瑞々しい感性を持ち、尚且つそれを見事に映像化する卓越した手腕を持っているのだから、もっと多くの作品を撮ってもらいたいものだと切に願う。

尚、この映画には、スペイン内戦の記憶が暗い影を落としており、主人公のアナはスペインを象徴しているという解釈もある。 ぼくはもっと素直な見方をしたので、なるほどそんな解釈もあるのか、という感じではあるけれど、スペインは興味深い歴史を持っており、内戦に関する知識もあった方が映画の感じ方も深くなる筈だ。 スペイン内戦と「ミツバチのささやき」の関係については、乾 英一郎「スペイン映画史」(芳賀書店)に詳しく載っています。 スペイン映画黎明期のエピソードや、内戦、検閲の話など、なかなか面白いので、スペイン映画について知らない人でも面白く読めます。

(20020103)





by ようすけ