ようこそ吉羽ろくろやのWebサイトへ

この度は、吉羽ろくろやのホームページにお越し頂きましてありがとうございます。 弊社は、長野県北部志賀高原の麓、山ノ内町湯田中駅より徒歩3分の所にございます。 当ホームページでは、轆轤細工の歴史と製法また製品などを紹介しておりますので、お時間の許す限り御覧頂ければ幸いです。

貞観年間(平安時代)人皇五十五代文徳天皇の第一皇子惟喬親王(八四四年〜八九七年)は、皇位継承の機会を失い都を追われ近江の小椋谷(滋賀県神崎郡永源寺町蛭谷あるいは君ヶ畑)に入山し、民人達の貧しい生活に御心をお痛めになり大木の朽ちるのをご覧になられ資材の豊富な処から轆轤を使って盆や椀などを作る事を杣人達にお教えになりますと杣人達はその技に精励し次第に挽物細工の隆盛を致す元となりました。轆轤挽による器類が出来ると何を盛るにも便利で優美そして堅牢でしたので、何事によらず優美を好む平安朝人士の好尚にかなって忽ちのうちに流行を来したとの事です。時が経つにつれ小椋谷の木地師(轆轤を使って木の器など挽物を作る人)は、集団の発展に伴い人口が増加し、またこの地に良質の木が無くなった事から小集団に分かれ全国各地に移住したようです。
平穏村(現在の山ノ内町)では、江戸時代末期か明治時代初期頃から渋温泉で湯治客のおみやげ品として木の湯呑み茶碗やお椀、お盆、菓子入れなどの需要があり、それに伴い木地師も多数暮らしていたようです。昭和の初期頃までは、繁盛していたようです。

弊社は明治時代に初代新吉(渋温泉のわかばや商店で修行、その後独立)により創業され,二代目一郎、三代目薫、四代目英一と轆轤細工を継承し今日に至っております。

惟喬親王が轆轤の技術を伝承されてから江戸時代までは、軸の巻きつけた綱を引張る人と木を削る人、二人で轆轤を挽いていました。
明治時代になり、足で轆轤を回す足踏み轆轤が普及し一人で轆轤を挽くようになりました。

足踏轆轤は、踏む力を緩急自在に調整できるというメリットがあり製品のできばえも良くなり、各地に普及したようです。
やがて、水車轆轤や電動轆轤、木工旋盤が出現してきました。 弊社では、2代目一郎が使っていた足踏み轆轤を今も使っています。

この地方では、昔から生地の木目を生かし木賊と稲で磨きをかけ製品を仕上げています。年数が経つにつれ、色が変化していくのが特徴です。

弊社では、黒柿・桑・梅・槐・桜などの木材を3年から5年かけて自然乾燥し、轆轤でそれぞれの形に荒削りをし、それを1年間乾燥させ再度轆轤で挽いて最後に木賊(とくさ)と稲で磨きをかけて仕上げています。
製品の一部ですが、下記の作品リストにて紹介していますのでご覧くださいませ。

お店は、年中無休で午前7時より午後8時30分まで営業しております。こちらにお越しの際には、お気軽にお立ち寄り下さいませ。

作品リスト

                         
柿茶筒 柿なつめ 香合お茶入れなつめ 桑湯呑み 茶筒菓子皿 楊枝立て 七味入れ 茶托
小物入れ 天目台アクセサリー ボールペン 一輪挿し

〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町大字平穏3270-2
吉羽ろくろや(TEL0269-33-1371)
メールアドレスyosiroku@cocoa.plala.or.jp