同居人 〜瞳そらさないで〜
ルフィは怒っていた。
それはもう、猛烈に。
どうしてこんなに怒っているのかというのはとりあえず置いておくとして、この男がやるせない怒りを解消する方法と言えば、簡単だ。
『食べる』のだ。
手当たり次第。
なけなしの食材が入っていた冷蔵庫の中、戸棚の奥。それこそ怖くて賞味期限も確認できないようなシロモノだって、お構いなしに口の中に放り込んでゆく。
この家にあるもの、全部食い尽くしてやる、と言わんばかりに。
「ひんぐもっ!ホガむげもんまッ、フガまもんぐ!」
そして、食糧を汚らしく食い散らかしながら、ルフィの口からは怒りの罵倒がこぼれ出ている。
聞き取れなかった人のために、念のために訳してみると、すなわちこうである。
「ちっくしょ〜!バカにすんなよっ、いきなり何だよ!ゾロのアホッオタンコナス!!」
つまり、ルフィの怒りは全て、ただ一人の人間に向いているようだった。
ゾロという名の『恋人』に。
そう、『恋人』だと思っていた。
それなのに、あんなことを言い出すなんて・・・
生の人参を咀嚼していたルフィの動きが一旦止まり、つい数時間前のやりとりに思考を奪われた。
エースと三人で水族館とクルージングを楽しんだ後だ。
腹ごしらえも済んだ頃、そろそろホテルに戻らないと秘書がうるさいから、と言ってタクシーに乗り込んだエースと別れて、ルフィとゾロは二人きりで家路についた。
それからだ。何か、違和感を感じたのは。
電車の中で、ゾロはルフィと一言も口をきかなかった。
しかしそれはたいして気にならなかった。ルフィの頭は、さっき見たジンベイザメやマンボウのことで一杯だったから。
けれど、その後が悪かった。
マンションへの最寄駅に着いて、何気なく繋ごうと伸ばしたルフィの手を、ゾロがはじき落としたのだ。
「やめろ」
驚いてゾロを見上げたルフィへ寄越されたのは、酷く冷たい言葉だった。
此処は地元で、顔見知りも通るんだから、とか。そんな照れ臭さからきた仕打ちだとは、とても思えなかった。
それ程、冷ややかで容赦のない口調だったからだ。
それでもルフィはおもしろくなさそうに「ちぇっ」と口を尖らせただけに留まった。
何が気に障ったのかは知らないけれど、家に着く頃にはゾロの機嫌も直っているだろう、と。
決定的だったのは、帰ってからのこと。
ルフィは、部屋の鍵を開けて先に入っていったゾロの背中を追いかける。
「ゾロ、先に風呂入るか?」
いつも問答無用で一番風呂をさらっていくルフィにしては珍しく、そんなことを聞いてみた。
今日はとても気分が良かったから、もしゾロが何かを怒っているのなら、早くそんなことは忘れてほしいのだ。
けれど、ゾロから返って来たのは素っ気無い言葉。
「いい。お前が先に入れ」
これには、さすがのルフィも本格的におかしいと思った。
ルフィとしては、ゾロが驚いたようにこちらを振り向いて、「バカ、そんな気ィ遣わなくていい」と頭を撫でてくれるであろうことを期待していたのだ。
やはり、ゾロは怒っている。
それならば、ルフィだとて黙ってはいられない。
「なんだよゾロ、さっきから何怒ってんだ?言ってくれなきゃわかんねェだろ?」
「別に、怒ってなんかねェ」
「ウソだ!」
「本当だ」
留守中にしてあった飼い猫の糞を片しながら、目すら合わせようとしないゾロに、ルフィは今度は違う手に出ることにした。
「それじゃあサ!一緒に入ろうぜ、風呂♪」
こう言えば、ゾロだとて何かしらの反応を返してくるだろう。承知してくれないだろうことは解っているが、もし万が一にでも『OK』が出たとしたら、それはそれでラッキーというモノだ。
けれど、ゾロの返事はまたも、ルフィの期待はずれのものだった。
いや、それどころか現実はもっと残酷だった。
「気色わりィこと言うな」
あまりの言葉に、ルフィはハンマーで頭を殴りつけられたかのようなショックを覚える。
何の感慨もない声。
冷たい、無情なセリフ。
本当に、この男はゾロなのだろうか、と。ルフィはまず疑いを持った。
ゾロならば、自分にこんなことを言ったりはしない。
照れ屋でぶっきらぼうなところはあるけれど、こんな風に冷酷で思いやりの欠片すら感じられない言葉を、サラリと言ってしまえるような男ではない。
ルフィはそれをよく知っている。おそらく、誰よりも。
だから、今度は本当に真剣に、ゾロへと詰め寄った。
少し乱暴気味に顎を掴んで、顔をこちらに向けさせる。
「ゾロ・・・キス、しよう」
そう、囁くように言ったら、きっと戻ってくれると思ったから。
ルフィの知っている、ゾロに。
けれどゾロは。
一瞬呆れた風に眉を寄せて、短く「やめろ」と一言。あとはうざったそうにルフィを跳ねのけてしまった。
そして、驚いた風に目を丸くするルフィに、尚も追い討ちをかける。
「ルフィ、お前がこういうことをしてェってんなら、俺達はこれまでだ」
「何言ってんだ、おれはお前が好きだって言っただろ!好きだったらこういうこと、してェだろうが!」
「あいにく、俺にはそういう趣味はない」
二回までは我慢できたがな・・・と。
そんな風に突き放してくるゾロが、ルフィにはとても信じられなかった。
信じたくない、んじゃない。
信じない。
「それはウソだ。ゾロはおれのことが好きなんだ」
だって、ゾロの目はずっと逸らされたままだ。
一度だって、目を合わせてはこない。
いや、合わせることができないのだ。なぜなら、心を偽っているから。
その確信が、ルフィにはあった。
しかし。
次の瞬間、ゾロの翡翠色の瞳が、真っ直ぐにルフィを見つめてきた。
ドクンと、ルフィの心臓が跳ね上がる。
「俺がいつ、お前のことを好きだと言ったんだ?そんなこと、俺は今まで一度も口にしたことはねェ」
ルフィは、天地が引っ繰り返ったような錯覚を覚えた。
いつもは暖かな光を宿している翡翠の瞳が、今はこんなにも冷たい。
その事実に愕然とした。
確かに、今までゾロから「好きだ」と告げられたことは一度もない。
だが、当然ゾロだって自分を好いていてくれているものだとばかり思っていた。
言葉はなくても、態度と視線から想いは伝わってきていた。
それすらも、錯覚だったというのか。
「それじゃあ・・・ゾロはおれのこと、好きじゃないっていうのか?」
今度は、ルフィが目を合わせられなかった。
今のゾロの答えなんて、さすがのルフィでもなんとなく解る。
聞きたくない。
「ああ、好きじゃな・・・ッ!」
ゾロの言葉は、途中で悶絶の声に取って換わった。ルフィが、グーで殴り飛ばしたからだ。
拳をまともに食らったゾロは、そのまま後方のテレビ台をも巻き込んで倒れ込んでしまった。積み重なっていた雑誌が、雪崩を起こしたように散乱する。
「ゾロのバカ野郎ッ!!おれだってお前なんか大ッ嫌いだッ!!もう顔も見たくねェよ!」
ルフィはそのまま、ゾロが身体を起こすのを見届けることもせずに、部屋へと駆け込んでしまった。
これが、つい二時間ほど前の出来事だ。
そのやりとりの一部始終を思い出してみて、ルフィはだんだんと怒りが悲しみへと変換されていくのを感じていた。
最初は、ただ怒っていただけだ。ゾロのあまりの言い草に腹を立てていた。
けれど、ありったけの食糧が腹の中に消えて、何も無くなってしまった今頃になって、急に心細くなってしまった。
ゾロはルフィが部屋に閉じ篭ってしまった後、何処かへ出かけてしまったようだ。
今、この家にはルフィと、タンスの奥に逃げ込んでしまった飼い猫のウニだけだ。
もしかしたらゾロはこのまま帰って来ないつもりなのかもしれない。
「畜生!なんでだよ!!わっかんねェよッ!」
考えれば考える程思考は煮詰まって、ルフィは手付かずだった酒の瓶にまで手を伸ばした。
こうなったら、ゾロが大事にしてる焼酎だって、全部呑み切ってやる!
吠え面かかせてやるんだ!
そうして、ルフィのやけ食い大会はヤケ酒大会へと移行していったのだった。
夜中。
ルフィはじわじわと内臓を犯すような気持ち悪さに、目を覚ました。
胃がやけに重い。
頭もフラフラして、妙に気分が悪かった。
結局酒はいくら呑んでも不味くて酔うことすらできずに、途中でやめてしまったのだ。それなのに、これはまるで二日酔いの症状のようだ。
焼酎は翌朝残らないって、ゾロが言っていたのに・・・しっかり残ってるじゃないか。
悪態を吐きながら、枕元のデジタルウォッチに視線を流すと、まだ夜中の3時半過ぎだった。
とにかくこの吐き気を何とかしたくて、ルフィはほとんど這いずるようにしてトイレに向かった。廊下もキッチンも、ルフィがベッドに入る前と同じように荒れた状態で、ゾロが未だに帰ってきていないことを物語っている。
こんな時間まで、一体何処で何をしているのだろうか。
少し心配になったが、今のルフィはそれよりもまずこの気持ち悪さを何とかしたかった。
トイレに篭り、便器を抱えるように座り込むと、すぐに嘔吐感が訪れた。
「うっ、・・・ッ!ーーーッ!」
実際こうなると、声すら出せない。
ただ、胃から食道を伝って流動物が込み上げて来るのを、逆らわずに吐き出すだけだ。
ルフィは呑み過ぎで何度かこんな風に嘔吐したことはあるが、こんなに意識のハッキリした状態で、というのは初めてだったかもしれない。
そう・・・二日酔いのはずなのに、妙に思考力だけはあるのが不気味だった。
胃の中のものをあらかた吐いてしまうと、一旦水を流す。嘔吐後特有の虚脱感に襲われながら、ルフィはさっき食べた残骸が水に流されていく様を、ただ眺めていた。
しばらくそうして床に座り込んでいたが、気持ち悪さは解消されず、簡単に口をゆすぐとベッドに戻った。
こういうときは眠ってしまうに限る。
しかし、横になると今度は腹が痛くなってきた。吐き気も、再発してくる。
結局ルフィは眠ることすらできずに、トイレとベッドを行ったりきたりする羽目になった。
そこに至り、これはただの二日酔いではないと、薄々感じ始める。
何故ならば、もう胃の中は空っぽで、何も吐く物は残っていないというのに、それでも胃液が込み上げて来るのだ。腹の痛みも、段々と酷くなってくる。
意識までもが、朦朧としてきた。
こんなことは初めてで、ルフィの目尻に生理的なものだけではない涙が浮かんだ。
怖い。
まるで身体が自分のものではないようだ。
何か、病気になってしまったのだろうか。
それとも、罰が当たったのだろうか。
「・・・うっ、く・・・っ」
ゾロの焼酎、全部排水溝に流したのが、悪かったのかなぁ。
大嫌いだって、言っちまったのも、悪かったな・・・
でも、元はといえばゾロがあんな酷ェこと言うから。
ゾロ、おれのこと・・・好きじゃないって・・・
おれが、わがままで言うこと聞かないからかなぁ。
でも、ヒデェよ・・・ゾロ。
おれ、こんなにも・・・ゾロのこと、好きなのに・・・
「ゾロ・・・ぞろォ・・・」
涙に滲んだ呼びかけに、応える声はない。
※
夜が明けて、空が白み始めた頃、マンションの鍵をガチャリと解く者がいた。
ゾロだ。
昨夜はとてもルフィと同じ家には居られなくて、とりあえず夜の町に飛び出したのだが、それから今まで迷子になっていたというのは秘密だ。
実を言うと、ゾロは筋金入りの方向音痴である。
最近はようやくこの辺りの地理にも慣れてきて、同じ所をグルグル回ってみたり、見知らぬ町に辿り着いたりということはめっきり減ったというのに。
けれど、今回は正直なところ、朝まで家には帰りたくなかったのが本心だ。
ルフィの顔を、あれ以上真正面から見つめる自信がなかったから。
心を偽ったまま、あの真っ直ぐな瞳を見つめ返すことができる人間など、おそらくいない。
自分の行動にはもはや後悔などしていないけれど、脳裏にはルフィの最後のセリフが反響したままだった。
『お前なんか大ッ嫌いだッ!!』
あれは自分が言わせた言葉なのに。
それで良かったのだと思う反面、胸が引き裂かれるように痛むのも事実だった。
とにかく、ルフィが寝ているうちに荷物をまとめてしまって、何処かへ姿を消してしまおう、と。
そんなことを考えながら、そっとドアを開く。
そして次の瞬間。
視界に飛び込んできた光景に、ゾロは一気に血の気が引くのを感じた。
「ルッ・・・」
ルフィが。
トイレの前の廊下で、うつ伏せになって倒れている。
昨日、言い争って別れた時のままの格好で。
「ルフィ!」
靴を脱ぐのもそこそこにルフィの元へと駆け寄ると、とにかく抱き起こしてあお向けにしてみる。
「ん・・・」と苦しそうなうめき声を漏らしたので、とりあえず生きてはいることが判った。それだけでも、ゾロは自分の命までもが繋がったような気がした。
しかし、顔は真っ青で、唇がかさかさに乾いている。
周りの状況を見渡してみて、ルフィがさっきまでトイレで吐いていたことが伺い知れた。
それならば、このぐったりとした状態は、脱水症状かもしれない。
ゾロはルフィを抱き上げて、リビングのソファに寝かせると、キッチンへと駆けて行く。こういう時はスポーツドリンクが良い。確かこの間の飲み残しが冷蔵庫に残っていたはず。
そう思いついて冷蔵庫の扉を開け・・・
「な、なんだこりゃあ・・・」
ゾロは本気で驚いた。『ハトが豆鉄砲を食らう』というのは、おそらくこういう時の事を言うのだろう。
なぜなら、二人用にしては少し大きい3段式の冷蔵庫の中身が、スッカラカンだったからだ。野菜や卵はもちろんのこと、冷凍食品やマヨネーズなどの調味料すらなくなっている。
冷蔵庫の周りをよく見てみると、ゴミ箱には空になったプラスチックチューブや袋などが無理矢理に詰め込まれていた。
カップ麺の欠片も、床に散乱している。
「ルフィのヤツ・・・全部そのままで食いやがったな・・・」
おそらく、冷凍食品だって凍ったまま食べたに違いない。
不精者の二人のことだから、冷蔵庫に突っ込んだまま長い間ほったらかしになっていたものだってある。それもこれも何もかも、腹の中に収めてしまったというのか。
察するに、『食あたり』のセンが最も有力だった。
もちろん、飲みかけのスポーツドリンクなど残っているはずがない。
一瞬眩暈を起こしかけたゾロであるが、ここは気を強く持つことが重要だ。そう言い聞かせて、食器棚からコップをとりだすと、蛇口を捻って水を一杯に満たした。
とにかく、水分を取らせないと、大変なことになる。
「起きろルフィ、飲めるか?」
腕に抱いて背中を支え、ペチペチと頬を叩いてみる。
が、ルフィからの返事はない。もう、意識がないのだ。
迷っているヒマはなかった。
ゾロはコップの水を口に含むと、そのままルフィに口付ける。そして、乾いた唇を潤してやると、少しずつ水をルフィの口内へと流し込んだ。
無意識にでも、ルフィは喉を鳴らし、水を飲み込んでゆく。
ルフィの口内は少し酸っぱい味がした。これは、胃液の臭いだ。
こんなに疲弊するまで吐きまくったのだ。随分苦しかっただろう。
ゾロの胸が、ズキズキと痛んだ。
何とか水をコップ一杯飲ませきったところで、ゾロは再びルフィを抱えて部屋まで運び、パジャマに着替えさせた上でベッドに寝かし付けた。
そして、財布だけを持つと近所のコンビニまで走っていく。とりあえずスポーツドリンクと、ルフィが起きたら食べられそうな胃にやさしいものを買い込んで、またマンションに引き返す。
とにかく、今のルフィに必要なのは水分だ。
「ルフィ、大丈夫か?起きられそうか?」
布団に入ってもまだ苦しそうにしているルフィに、ゾロは小声で問い掛ける。
今度は、ルフィもかすかに目を開けて反応した。
「あれ・・・?ぞろ・・・なんで?」
「いいから、とにかく飲め。お前今脱水症状起こしかけてんだ」
「ん・・・」
飲みやすいようにストローを差したペットボトルを口元に持っていってやると、ルフィは少し身体を起こしてちゅーちゅーと飲み始めた。
けれど、もはや吸う気力すらないほど衰弱しきっているらしく、2,3口含んだところで再びベッドへ倒れ込んでしまう。眉は未だ苦しそうに寄せられたままで、気分の悪さは相変わらず収まっていないようだ。
「・・・ダメだ・・・キモチ悪ィ・・・」
再び、ルフィを襲う嘔吐感。
「吐くか?待てよ」
ゾロは三度ルフィを抱え上げると、再度トイレに逆戻りさせる。
便器の前に到着するなりオエェっとやり始めたルフィに、ゾロが出来る事といえば背中をさすってやることくらいだった。
ルフィの症状はまるで治まる気配がない。
この時点で、ゾロはルフィを病院へ連れて行くことを、考え始めた。
しかし、まだ時計は6時を回ったところだ。病院なんて今まで縁がなかったから、一体何時からやっているのか、ゾロは詳しくは知らないけれど、常識から考えたって少なくとも7時か8時にならなければ開かないだろう。
その時、吐くだけ吐いたルフィが、今度は身体を丸めてガタガタと震え出した。
「どうした?」
「寒ィ・・・」
ああ、とゾロは思った。熱が出るのだ。
「寒いよ、ゾロ・・・」
「ああ」
そう訴えるルフィを、ゾロは両腕で抱きしめた。
小刻みに震えているのは、発熱する前兆特有の寒気によるものだ。
すっぽりと胸に収まってしまうほどの細い身体に、ゾロは胸が締め付けられる想いがした。
込み上げる感情に、涙が出そうになる。
ゾロはそのままルフィを持ち上げると、再び部屋へと向かった。
ルフィは。
抱き締められる腕の強さに、先程までの不安がすっかり霧散したのを感じていた。
もう大丈夫、だと思った。
そして、意識は再び闇に呑まれていく。
次に気が付いた時、ルフィはゾロの背に背負われていた。
車や人の喧騒が耳に入ってくる。
外を、歩いているようだった。
何処かへ連れて行かれる途中なのだろうか。
「ぞろ・・・」
「ああ、起きたか。もうすぐ着くからな。そしたら楽になる」
「うん」
熱に当てられた脳みそでは、これから何処に向かうのかということも、よく理解は出来なかった。
けれど、この背中は安心できるから、きっとゾロの言うことに間違いはない。
その時、再び吐き気がルフィを襲い、彼はそれに逆らえずにそのまま吐いてしまった。もうほとんど液体だけだったけれど、堪えきれなかった嘔吐物はゾロの肩や胸にモロにかかる。
胃液と、さっき飲んだスポーツドリンクの甘い臭いがした。
「ごめっ・・・ぞ、ろ・・・ゲホッ!」
咳き込みながらも、ルフィは慌てて謝る。
けれど、ゾロは全く動じなかった。
「いい、ルフィ・・・かまわねェから。大丈夫か?」
「うん・・・ちょっとスッキリした・・・ゴメン」
「そうか」
立ち止まりかけたゾロの足が、再び前に進み始める。
「ゾロ・・・ゴメンついでにもういっこ・・・」
「何だ?」
「お前が大事にしてた酒、全部捨てちまった。ゴメン」
「・・・分かった」
ルフィの懺悔に、ゾロは短くそう答えただけだった。
けれど、その口調には昨日のような冷たさはなかった。
全てを納得して、許してくれた声だ。
それが嬉しくて、ルフィはゾロの肩に頬を摺り寄せた。
「ゾロ・・・」
「何だ?」
「・・・好きだ」
その告白に対する、ゾロの答えはなかった。
ルフィは何かを期待していたわけではなかったから、その沈黙をありのまま受け入れる。
ただ、ゾロがその後大きく深呼吸したのだけはなんとなく判った。
診察手続きはゾロが先に済ませてあったから、病院へ着くなりルフィは診察室に入り、結果的に少し入院することになった。
酷い脱水症状を起こしているから、点滴を打って様子を見ましょうということだった。
点滴の中には精神安定剤でも含まれていたのだろうか。
さっきまで「注射なんて小学校の予防注射以来だ」とはしゃいでいたルフィだが、今は熱のせいもあってすっかり夢の中のようだ。
さっき電話でエースにもこのことは伝えたから、もうしばらくすれば病院に駆けつけるだろう。
ゾロのすべきことは、もう何もなかった。
けれど、何も言わずに握り締められた手が、なかなか離してくれないから、ゾロはまだ帰ることができずにいる。
「此処に居てくれ」と訴えてきた視線のせいなんだと、自分に言い訳しながら。
「ゾロ・・・」
熱にうなされるルフィの口から、その名前が零れ落ちた。
夢でまで、自分を求めてくれるのか。
そう思うと、ゾロはたまらない気持ちになった。
この、偽ることを知らない真っ直ぐな想いが自分に注がれていることが、嬉しいのも事実だ。
けれど、それを受け留める資格はないから、余計に胸は痛くなる。
ゾロは知った。
人を愛するということは、『幸せ』をもたらしてくれるのだと。
だが時にはそれだけでなく、『切なさ』と『痛み』をも、一緒に連れてくるのだということも。
「・・・もう、会わねェ」
ゾロの瞳から、ポタリと透明の雫が零れて落ちた。
これも、ルフィに教えられたものだ。
―――涙。
それは、人が『悲しい』と感じた時に流すものだ。
お前から学んだものは、全部置いて行く。ルフィと過ごした、あの部屋に。
「好きだ」
それは、声にはならなかった。
いや、言ってしまったら、おしまいだ。
でも、この想いだけは置いていくことが出来ないから、胸に仕舞ってひとりで持って行く。
熱い手をそっとほどくと、ゾロはかけていたベッド脇の椅子から立ち上がった。
「さよならだ、ルフィ」
最後に、どうか額にキスすることだけ、許してくれ。
病室を出ると、向こうからエースが息を切らせて走ってくるのが目に映った。
「ゾロ・・・」
こちらに気付いたエースが、ゆっくりとした足取りに切り替える。
ゾロは軽く会釈だけして、歩幅は変えずにそのまま彼の横を通り過ぎた。
物言わぬ背中に向けて、エースが問う。
「何処へ行くんだ?これから」
ゾロの答えはなかった。
エースは遠ざかっていく背中を見つめながら、ああ、と思った。
この先アイツは、たった独りで迷子になるのだ、と。
エースは大きく一つ息を吸って、病室のドアを開けた。
中にはベッドが一つだけあって、真っ白な布団の中でルフィが眠っていた。
顔が赤い。触れてみると、とても熱かった。
額から枕に転げ落ちてしまっていた氷嚢を、再びそっとのせてやる。
汗ばんでじっとりと湿った髪を梳いて撫でてやると、ルフィの目蓋がピクリと震えた。
「ゾロ・・・」
口から出たのは、愛しい人の名だ。
ルフィは夢うつつで、ゾロが自分の元を去ってしまったのを感じていた。
それが、悲しくて寂しくて、涙が止まらない。
熱で涙腺が弱くなってしまったのも相俟って、ルフィの目尻からは泉のように涙が溢れ出して、枕に染みを作るほどだった。
ゾロが口移しで水を飲ませてくれたのを、覚えている。
背中をさすってくれた手は、とても温かだった。
抱きついた背中は広くて、全てを許してくれた。
額に、キスをくれたのも気付いていた。
今なら確信できる。
やはりゾロは、自分を好いてくれているのだと。
どうしようもなく、愛してくれているのだ。
でなきゃ、あんなこと出来るはずがない。
あんなにも、ゾロは優しかった。
それなのになぜ・・・
なぜこの手を離して、何処かへ行ってしまったのだろうか。
「ゾロ・・・ゾロ・・・ゾロ・・・」
まるで呪文か何かのように、ルフィはたった一つの名を呼び続けた。
「ルフィ・・・お前、本当にゾロが好きなんだな」
エースはルフィのそんな様子を見つめながらも、ただ頭を撫で続けてやるだけだった。
本当は、今ルフィに必要なのは『兄』の手じゃない。
知らぬ間に、この弟は自分の手から遠く離れてしまっていたようだ。
「ゴメンな。酷ェ兄貴で・・・」
エースの懺悔は、ルフィには届かなかった。
三人の想いは交錯し、一つの別れへと繋がる。
彼らはただ、何も出来ない己を悔いるばかりだった。
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