同居人 〜惜別の時〜
静かな異変は三日目に訪れた。
「ゾロォ〜・・・ちび、なんか元気なくねェか?」
朝・・・と言っても、ほとんど昼と言ってもいいくらいの時間だ。ようやく自室から出てきたルフィは、顔を洗うのもそこそこに子猫の様子を見に来て、そう言った。
『ちび』というのは、二日前に新たな同居人になった子猫のことだ。ゾロが頭を悩ませていつまでも名前をつけないでいるものだから、ルフィはとりあえずそんな風に呼んでいるのだ。
ダンボールの寝床で眠る子猫を指でツンツンしてみるが、少し身を捩るだけで、あまり反応を返さない。昨日までは、そうしてやると、途端にニャーニャー泣き出して、寝床を行ったり来たりしていたというのに・・・
「やっぱりそう思うか・・・昨日の晩も、全然夜泣きしなかったんだ」
おかげで、昨日はゾロもぐっすり眠れたのだが・・・それを喜んでいられる状況でもない。
今の環境に慣れて、落ちついてくれたのだとしたら、それでいいのだけれど。
「ミルク、やったか?」
「ああ、朝一で飲ませた。けど、少ししか飲んでくれなかったな」
「そっか・・・眠いんかな?とりあえずちょっと様子見とこうぜ」
「そう・・・だな」
自分よりも、ゾロの方がきっとずっと心配している。ゾロの青褪めた顔を見てそう感じたルフィは、背中をポンと叩いてやって、そのまま洗面所へ向かった。
ゾロも、ダンボールを静かなリビングの隅に置くと、キッチンに立つ。
「ルフィ、何か食うか?トーストでも焼いてやろうか?」
「おう!目玉焼きのっけてくれよ♪」
洗面所から水を流す音と共に、ルフィの元気なオネダリが聞こえてくる。
ゾロにとっては、そんなルフィのいつもと変わらない様子がありがたかった。本当は、朝からかなり滅入っていたから。
もしかしたらこのまま・・・と。
また、そんな最悪の事態を頭に浮かべてしまって、ゾロは慌ててそれを振り払った。
それよりもトーストだ。食パンをトースターに入れて・・・あとは、フライパンだ。
「ゾロ、今日はバイトだったよな?」
ルフィが口一杯にパンを頬張りながら、問うた。
ゾロは、食うか喋るかどっちかにしろと言いたくなるが、言っても無駄だと知っているので、敢えて見ないフリをする。
「ああ、引越しのバイトが入ってる。もうすぐ行かなきゃならねェんだが・・・」
時計にチラリと目をやって、ゾロは困ったように言う。子猫のことは気になるけれど、土壇場で休ませてもらうわけにもいかない。
「いいよ、おれ今日はフリーだから、ちびのこと見ててやるよ」
軽く引き請けてくれたルフィの言葉に、今回ばかりは甘えさせてもらうことにする。
「そうか・・・悪いな」
「んん、気にすんな♪パン美味いぞ♪」
本当に美味そうにパンに齧り付きながら、ルフィは明るくニカっと笑った。
正午過ぎにゾロがバイト先に向かってしまって、一人になったルフィは子猫の様子を見ようと、ダンボールを覗いてみる。
「おい・・・あんまりゾロを心配させちゃダメだぞ?なぁ・・・」
そろりと持ち上げてみると、子猫は掠れた声でニャ〜と一度だけ鳴いて、抵抗する素振りも見せない。
小さなその身体を両手で包み込んでみて、ルフィはドキリと心臓が跳ねるのを感じた。
冷た、かったからだ。
昨日までは、ルフィの手よりもずっと温かったのに、今では体温が失われ、酷く冷えた感じがする。呼吸も、心なしが浅い気がした。
「ウソだろ・・・しっかりしろよ、なぁ・・・」
ルフィは両手でしっかりと包み、温め直すように身体を撫でてやる。
「ゾロをいきなり未亡人にする気か?これくらいで参ってちゃ、あいつの嫁はつとまらねェぞ・・・」
言い聞かせるように囁いても、子猫の口からは掠れた鳴き声しか返ってこなかった。
ようやく仕事が一段落ついて、ゾロは汗を拭った手で携帯電話を取り出す。
引越しの荷物運びに追われていた間もずっと、子猫とルフィのことで頭が一杯だった。
元気に、やってくれているだろうか。
ほんの数時間しか離れていなかったというのに、こんなにも気掛かりになるなんて。ゾロは今までそんなことなど感じたこともなかった。
『心ここに在らず』というのは、こういうのを言うんだろうな、と。どうでも良い事を考えながら、少しでも気を紛らわせようとした。
今は、夕方の5時45分だ。
とにかく、一度電話を入れて様子を聞いてみようと、ゾロはルフィの携帯番号のメモリーを呼び出す。
トゥルルル、トゥルルル・・・
着信音を三度鳴らしたところで、ルフィが出た。
「ゾロ?」
「ああ、ルフィ・・・今終わったんだ。あいつ、どうしてるかと思って気になってな・・・」
そこまで言ったゾロの耳に、ルフィの息を飲む声が届いた。
背中に、嫌な汗が流れ落ちるのを感じる。
「ゾロ・・・ちび、苦しんでるんだ・・・早く、帰ってきてくれ・・・」
今度はゾロが息を飲む番だった。
ルフィの声が、震えている。涙に滲んで。
ルフィのこんな声を、ゾロは今だかつて聞いたことがなかった。
あとはもう、何も覚えていない。
ただ、ひたすら家への道を急いだ。
気ばかりが急いて、たった三駅分の乗車時間が酷く長く感じた。
耳に残るのは、ルフィの苦しげな声。
頭に浮かぶのは、今朝のぐったりとした子猫の姿だけ。
五階までの階段を駆け上がって、鍵を穴に差し込むのももどかしく、ドアを勢い良く開ける。
「ルフィ!!」
視界に飛び込んできたのは、白いハンカチに包まれた子猫の姿だった。
ゴクリと、唾を飲み込むのが、大きく響いたような気がした。
「ゾロ・・・」
ソファに乗せたその亡骸の前で、ルフィがペタリと座り込んでいる。
そのルフィが、ゆっくりとこちらを振り返った。
「ついさっき、死んだよ・・・ちょうど6時、だったかな・・・」
時計は今、6時15分を指している。
あと一歩、間に合わなかった・・・のか?
「ゾロ、もうすぐ帰ってくるから、あとちょっと頑張れって、言ったんだけどな・・・」
ちびのこと呼んでたら、代わりにウニがニャーニャー返事してサ・・・
なんかたまんなかったぜ・・・
と。
ルフィが静かな声で言う。
その声はまるで、頭に直接響いてくるかのようで、ゾロは何も言えずにただ立ち尽くした。
「まだあったかいんだぜ・・・ゾロ、撫でてやってよ」
ルフィに呼ばれるままに、ゾロは子猫に近づき、今はもう動かないその身体に触れた。
確かに、命の温もりが僅かに残っていて、まるでまだ生きているかのような錯覚を覚える。
けれど、小さな顎は少し開かれたまま、動かない。
呼吸に合わせて上下していた腹は、へっこんだままだ。
耳の下のふわふわした場所を撫でてやると、気持ち良さそうに指を吸ってきたのだが、もう今は何の反応も返してはくれない。
小さくて柔らかい感触だけを残して、子猫は天に召されてしまった。
「結局、目が開くところも見れなかったな・・・でもきっと、美人だったぜ・・・」
ルフィが色々喋っているのだが、ゾロはずっともう何も言葉にできずにいた。
胸が苦しくて腹が焼けるように熱いのさえも、まるで他人事のようだ。
「可哀相な事・・・したな」
ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
それを聞いたルフィが、ゾロの肩を掴み真っ直ぐに視線を合わせる。
「それは違うぞ、ゾロ!」
何事かと思うほどの剣幕に、ゾロは驚いて目を丸くする。
けれど、ルフィの眼が赤く充血しているのを見て、ゾロは息が止まりそうになった。
「『可哀相』なんかじゃねェ!あいつはずっとおれに看取られて、このおれの手の中で死んだんだ。幸せな最期だった!」
苦しげに顎を痙攣させて息を吐く子猫を、ルフィはずっと手の中に包んで励ましていたのだ。
動かなくなってからも、ずっと優しく撫で続けた。よく頑張ったな、と。
ルフィの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出してくる。
「三日前、ゾロがうちに連れて来なかったから、あいつはそのまんま雨に打たれて一人で死んでた。けど、ゾロが連れてきてやったから・・・いっぱい優しくしてもらって、ミルクも飲ませてもらって・・・あいつは幸せだったんだ、ゾロ・・・」
自分が死んだのを、泣いて悲しんでもらえるんだから・・・
おれ達二人に泣いて惜しんでもらえるなんて、幸せだろ?
そんなルフィの言葉に、ゾロは初めて自分も泣いているのだということに気付いた。
「ゾロ、悲しいよな・・・ふぇ・・・っくう」
惜しみなくダラダラと涙を流すルフィと同じように、ゾロの目からも堰を切ったかのように涙が溢れてくる。
「ッ・・・う・・・くっ・・・」
止め様のない嗚咽が漏れ、それにつられるかのようにルフィも声を上げて泣き出した。
そうだ。
悲しい・・・心に穴が開いたみたいに。
初めて、自分の手に託された命だったのだ。
手に抱いてやると、安心したように泣き止むのが嬉しかった。
ミルクを美味そうに飲む様子を見ていると、心までもが温かくなった。
やがて大きくなれば、元気に部屋を駆け回っただろう。名前を呼ぶと可愛らしく鳴いて、こちらに擦り寄ってきてくれたかもしれない。
そんな姿を、楽しみにしていた。
だがこんなにもあっけなく、小さな命は失われてしまった。
名前をつけてやる間もなく。
悲しくないはずが、ない。
けれど、ゾロはこんな風に泣いたことなんて、産まれて以来なかったかもしれない。
悲しければ、人間は泣く。
そんな当たり前のことも、ゾロは知らなかった。
ルフィが、それを教えてくれたのだ。
「ゾロォッ・・・」
ぎゅうっと抱き付いてくるルフィを、ゾロも同じ強さで抱き返した。
二人は同じ悲しみを共有し、涙と嗚咽で最期の別れを惜しんだ。
そして、感謝を。
一時の安らぎを与えてくれた存在に、心からの感謝を捧げた。
『ありがとう』
ルフィの目に、天に昇っていく子猫の後姿が映った。
そして、一度だけ振り返って、ニャ〜と。
その泣き声はまるで、二人への感謝のように聞こえた。
雨の中傘をさして、ルフィとゾロはマンションの前の公園へ向かった。
亡骸を、土に還してやるためだ。
ちょっとした池のあるその公園には大きな木が何本も生えていて、その一本の根元に二人は穴を掘った。犬に掘り返されたりしないように、深く。
出来上がったその穴の中に、ゾロは何かの葉っぱを敷く。
「なんだそれ。なんかイイ匂いすんな」
「ああ、ハーブだよ。こないだナミが置いてっただろ?」
ナミというのは二人の昔馴染みだ。何の飾り気もない二人の住処に、ナミが差し入れてくれた、観葉植物代わりだった。
ゾロはその葉っぱを千切って持ってきたのだ。
「ガーゼなんかで包んだままだと、土に還りにくいだろ?」
「そっか・・・きっとちびも喜ぶよ」
「ああ・・・」
ハーブの絨毯の上に、子猫をそっと乗せ、その上にまたハーブを乗せてやった。そして、土をかけて穴を埋める。
二人だけの埋葬は、五分程度で終わった。
しかし二人はしばらくその場に立ったまま、傘を放り出して優しい天然のシャワーに身を委ねた。
何となく、そうしていたかったのだ。
「ちびな・・・最期にありがとうって言ってたよ」
空に向かって両手を開きながら、ルフィが言った。
ゾロは、ルフィがそんなことを言うのには、ちゃんと根拠があるのだということを知っているから。
「そうか・・・良かった」
とだけ言って、目を閉じる。
きっと、ルフィには聞こえたのだろう。
本当のことしか言わない奴だから。ゾロを気遣って言ったわけではない。
だからこそ、救われる。
「ゾロ・・・」
不意に、ルフィがゾロの手を取った。
「なんだ?」と言おうとして、ゾロはそれが叶わなかった。
なぜなら、ルフィの唇がゾロのそれに重なったからだ。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ、二人の唇は触れ合った。
ルフィが、キスをしたのだ。
ゾロは何故か冷静にそれを受け止めた。
「好きだぞ・・・」
そう言って抱き締めてくるのさえ、その時はまるで、ごく自然な行為のように感じていた。
だから、ゾロもルフィの背中に同じように腕を回す。
雨の中で、二人はしばらく抱き合っていた。
まるで恋人同士のように・・・
この日。
ただの『同居人』だった二人の関係は、ほんの少しだけ前に進んだ。
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