X



 そのまま寝てしまっていたのだろうか。
 ゾロが再び目を覚ました時、外はもう真っ暗で、風の音ばかりがヒューヒューとうるさい夜だった。その音はまるで、人間の断末魔のようだ。
 ゾロはそろりとベッドから降りると、部屋を出る。
 別に、鍵をかけて監禁されていたわけではないのだ。出歩いても問題はないだろう。
 そこはかつて病院か何かの施設だったのだろうか。ゾロの居た所と同じような間取りで、いくつもの部屋が並んでいる。
 この中のどれかで、ルフィも眠っているのだろう。
 ゾロはルフィを探して古びた廊下をさまよい歩いた。
 『悪魔の能力』以外に、ゾロには野生の獣並の鋭い五感を持っている。一里先の物でも見分けられる視覚、微かな物音や遠くの人間の息遣いさえも聞き分ける聴覚・・・
 これは、『悪魔狩り』として生きていく上で鍛え、研ぎ澄まされた能力だ。
 ゾロにとって、人ひとりを探し当てることなど造作もないことだった。
 案の定、ゾロの耳に確かな『ヒトの気配』が届く。ルフィだ。
 ゾロが居た部屋の五つほど先だった。引き戸は閉まっている。けれど、ここに居ることは間違いない。
 眠っているらしいことを確認すると、ゾロは引き戸をそっとスライドさせてみた。カギは、かかっていない。
 あるいは、自分を誘い出すため・・・か?

 戸の隙間から覗き見ると、ベッドに横たわっているルフィが見えた。どうやら完全に眠っているようだ。
 ゾロはそっと部屋の中に身体を滑り込ませると、ベッドへと近づいた。
 寒いのだろうか。ルフィは膝を抱えて、猫のように背中を丸めている。冷たいレザーの、あの服装のままだ。
 足元でくしゃくしゃになっていた毛布を、ゾロはそろりと掛けてやった。
 ルフィは「ん・・・」と僅かに身じろいだだけで、それでも目は覚まさない。
 完全に、熟睡している。
 こんなに無防備で・・・よく今まで無事でいられたものだ、と。ゾロは呆れ半分で苦笑を漏らした。
 世間を震撼させた『ブラック・ローグ』を、狙う暗殺者は多いというのに。
 かく言う自分も、実は闇で政府からの依頼を請けたのだ。多額の報奨金を約束された。
 殺すなら、チャンスは今しかない。

 それを思い出して、ゾロは思わず肩を揺らして笑った。声もなく。
 契約は、『破棄』ということになる。
 なぜなら、もはやゾロにはルフィを手にかける気など全くないからだ。
 おそらく、今の自分には殺気というものが完全に抜け落ちている。だから、ルフィはこうして眠っていられるのだろう。

「参ったな・・・契約金持ち逃げで、俺もお尋ね者だ」
 しかし、それでもやはり、ゾロにはルフィを殺すことなど出来なかった。
 大切な人、なのだ。
 自分の全てを賭けてでも、救いたい。

 幼い子供のような安らかな寝顔に、ゾロはそっと手を伸ばした。まずは、服に覆われた肩を撫でる。
 しかし、いつまで経っても構えていた痛みは訪れなかった。
 今度は滑らかな頬に、直接触れる。ゆっくりと指を滑らせるように。
 少しの間を置いて、強烈な痺れが襲ってきた。全てを吸い取られるかのような違和感。
 パッと手を離すと、けれどすぐにそれは治まった。
 ゾロはボトムのポケットに入れていた薄いレザーの手袋をはめ、もう一度、頬に触れる。すると今度は、いつまで経っても痛みは訪れなかった。


 何か、暖かいものに包まれているような心地良い感覚に、ルフィの脳は優しい覚醒を促される。
 もう忘れかけていた人肌のぬくもりだ。それが、とても気持ち良い。
 まだぼんやりとした脳に、目蓋を開けと指令を送る。
 映ったのは、綺麗な金緑の瞳だった。
「ルフィ」
 それは自分を見て、嬉しそうに細められる。優しい、色だとルフィは思った。

「一つ勉強になったぞ」
 低いテノールの声が、得意げに言う。
「直接肌に触れなけりゃ、お前の能力は効果がない。だから、こうしていても大丈夫なんだ」
 こうして・・・って、どうして、だ?
 ルフィはそう思った次の瞬間、ハッと身を強張らせた。
「ゾロッ!や、めろ・・離せ!」
「離さねェ」
 慌てて逃れようとしたルフィを、ゾロは抱き込んだ腕に力を込めることで封じる。
 今、ルフィはゾロの胸に正面から抱かれた状態になっていた。
 こんなにまで接近されて、それでも今まで気付かなかった自分が信じられない。
「怖がるなルフィ。俺は大丈夫だから・・・」
「・・・ゾロッ」
 ルフィの声が、涙に滲む。
 こんな風に・・・優しくされて。
 本当は、孤独感に押し潰されそうだった傷付いた心を、日の下に曝け出された気がした。激しく心を揺さ振られる。
「キスも、出来るぞ」
 ゾロはルフィの額に掛かった髪をかき上げてやって、そこにキスをした。すぐに離れる、フレンチキスだ。
 一瞬だけなら、直接触れても大丈夫なのだということを、ゾロは学んだのだ。
 そうして、頬にも同じように口付けてやる。涙の浮いた目尻にも。
「ゾロ・・・」
 ルフィは促されるように顔を上げて、今度は唇に触れてきたゾロを受け入れた。
 甘くて、柔らかい。
 眩暈がするほどの快感。
 しかし、それはすぐに離れていってしまう。
 行かないで、欲しい。
 いつまでも味わっていたくて、ルフィは自分から唇を寄せた。押しつけるようにして、口付ける。
「!」
 しかし次の瞬間、ゾロの身体がビクリと戦慄いた。
 それを感じたルフィは、バッとゾロを突き放す。
「ル、フィ・・・ッ」
 それほど長い間触れていたわけではなかったので、離れるとすぐにゾロを襲った痛みは引く。
 しかし、今度は違う『痛み』がゾロの胸を突き刺した。
 ルフィが、顔を歪めてこちらを見ている。
「こんなの・・・余計に辛いだけだッ」
「ルフィ!」
 ベッドから抜け出して走り去ってしまうルフィの背中を、ゾロはただ見送るしかなかった。

 近づいても歩み寄っても、どうしても壊せない壁が、目の前に立ち塞がっている。
 まるでガラス越しに口付けているかのような、もどかしい感覚・・・
 残酷な透明のガラスに邪魔されて、最後の一歩を踏み込めない。
 けれど、こんなことで諦めてしまうゾロではなかった。『ルフィを救うのだ』と・・・決意した想いは、中途半端なものではない。
 ルフィの後を追って、ゾロも部屋を出た。




続く >>