コラム
小松菜は根があれば再生する
うさぎは小松菜の葉の部分が大好きだ。食べ残される根の部分を畑に植えると、再び葉が生えてくる。
植えてから2ヶ月ほど経つと葉がほぼ100%再生するから、植物の生命力には驚かされる。
2008年3月21日
老婦人、中国の架空物件を売りつけられる
ある1人暮らしの老婦人宅に、不動産会社のセールスレディがやってきた。セールスレディは足しげく通い婦人の信用を得たあと、投資先として中国・北京に建設予定のマンションの一室を販売した。販売価格は日本円で700万円前後で、婦人は690万円前後を手付金として支払った。マンション購入にあたって、老婦人は現地の下見をしていない。
ほどなく、業者が詐欺をしていたことが判明した。私が北京にいる友人に現地調査を依頼したところ、なんと老婦人が購入したマンションの敷地には全く関係ない建物が建っていたのだ。マンションの引渡し時期がきても、不動産業者はまともな説明をしないまま何度も引渡しを延期していた。
不動産業者が売りつけたマンションが架空物件だったことを示す中国の公的文書を入手し、日本の裁判所に証拠品として提出して、老婦人は勝訴した。今後婦人は悪徳事業者から払い戻しを受けることになる。
(2008年3月21日)
牛の涙 =ベジタリアン=
「牛は、屠殺される直前に涙を流す」と、中国人の友人から聞いた事がある。
以前飼っていたモルモットは、ある朝大粒の涙を流していた。通常動物は涙を流さないため、おかしいと思い獣医に相談に行った。その日のうちに、モルモットは病気で亡くなってしまった。医師は、「病気のため涙腺がゆるんでいたのだ。モルモットが自分の意思で涙を流すはずはない」と言っていた。だが、私には、モルモットが死を予感し、涙を流してこの世に別れを告げていたように思えてならない。
うずらは、小さい鳥であるが好奇心が強い。巣から出して外の空気を吸わせてあげると、首を伸ばしてあたりをきょろきょろと見回す。日向ぼっこをさせるために鳥かごにいれた状態で野外においておくと、外に出たいあまりに必死でかごの中で暴れる。かごは小さいので、中でジャンプし続けると頭が壁にぶつかって頭皮がはがれるのだが、血が流れようとジャンプするのをやめない。自由にはそれだけの価値があるのだろう。(このことがあってからは、今後うずらが怪我をしないように注意を払うようにしている。)
私は、もともと肉がすきだったのだが、最近はほとんど食べなくなった。食卓に肉として並ぶ動物が、生前どのように扱われ、何を思っていたのかを考えると、とてもじゃないが食べ物だとは思えない。
なんで牛は食べてよいのに、鯨を食べてはだめなんだろう
どうして牛を食べることは正しいのに、鯨を食べてはだめなんだろう。
犬を食べるのは残酷な行為だと言う人が、何故レストランでステーキを注文するのだろう。
豚や牛、鶏は、神が人に与えた大事な食物だ。食べることそのものが罪だとは思わない。しかし、種類によって動物の命の重さを比較することができるのだろうか。
豚は賢い。その気になって教育をすれば、犬のようにしつけが出来るし、人と愛情を育むことができる。牛は、屠殺される直前に涙を流すことがある。母牛は、自分が屠殺場に連れて行かれると直感すると、子牛に最後の乳をあげようとする。鳥だって割と賢い。インコなどは喋らずとも、人間とコミニケーションをとることが出来る。必至に自分の気持ちを伝えようとする。
豚、牛、鶏は頭がよくないと思う時、これらの生物を食べる際の罪悪感を少しでも減らしたいと言う気持ちが頭のどこかにあるのかな。「頭がよくて愛情深い生き物を食べる」と思うよりも、馬鹿で価値のない生物を殺すと考えた方が気は楽だ。
仮に犬や鯨が豚、牛、鶏よりも賢いとしても、頭の賢さだけで「食べる」「食べない」の線を引いていいのかな。殺される時の恐怖や悲しみは、同じだ。
不公平だ。牛はたくさんいるし、養殖されている。だから殺されてもいいんだ。でも、たとえ数は多くても、1匹1匹に生きていた時間があり、心がある。例えばある人間の母親にとって、彼女の子どもは世界にただ1人の大切な存在だ。この世にたくさん子どもがいるからと言って、自分の子どもが辛い人生を送っていたらそれだけで悲しくなるよね。
放し飼いになっている牛はまだ幸せ。多くの牛は、体の向けをかえることも体を横にすることもかなわない、牛1匹が立って入れるような檻に入れられる。つらいよ。苦しいよ。何も自由が無く、無為な時を過ごし、いつか殺される日を待つ日々・・・想像を絶する。
競走馬だって、早く走れなければ殺されてしまう。馬はそんなに馬鹿ではないよね?
犬もたくさんいる。人間が無責任に飼うから、捨てられたペットが・・・毎日たくさんの犬が保険所に収容されてガス室で殺されている。犬は頭がいいし食べるのは気の毒なほど大切なら、どうしてあんなに犬が殺傷処分されているのだろう。どうせ殺すのなら、母犬もしくは父犬を去勢すればよかったのに。それに、こんなに毎日殺されているのなら、豚の代わりに犬を食べてもいいって事にはならないの?だって、人間の都合で役所が合法的に殺してもいいようなとるに足らない生物なら、食べたって人の道には外れないでしょう?
鯨や犬を食べない人が、食べる文化の人を責めてはならない。だって、文化が違うんだから。人を責めるなら、自分も同じような指標で他人に裁かれる覚悟をしなければならない。自分の事を棚に上げて批判しても、説得力がないもの。
結局、「頭がいい」「馬鹿だ」と言う基準は、人間が都合がいいように作り出した幻。鯨だろうが、犬だろうが、牛だろうが、「殺して食べる」以上、人の糧になるために命を捧げた動物に感謝の気持ちをちょっぴりでも感じないといけない。「牛だから当然食う」「豚だからどんな扱いをしてもいいんだ」って言いながら牛や豚を差別している人が、犬や鯨を食べる人を責めてはならない。だって、牛も、犬も、豚も、鯨も、皆「命」を平等に有している。
約1年半ベジタリアンを継続成功
上記のように私は、ベジタリアンになりたいし、実際に2006年冬ごろから2008年夏ごろまでの約1年半動物の肉は食べていませんでした。しかし、ベジタリアンになるための勉強をしっかりして肉を絶ったわけではなかったため、栄養不足になって風邪を引きやすくなりました。そのため、夏からは体力をつけるためにまた肉を再び摂り始めています。
2004年にもベジタリアンになろうと試み、半年間肉を絶つ事に成功しました。今後は、ベジタリアンとしてきちんと栄養を摂れるよう勉強してから再び挑戦しようと考えています。
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