Tarumi's Family


2002年7月1日 日央里(ひおり)誕生!
2002年7月1日午後3時7分、金沢杜の里のうちだマタニティクリニックにて誕生!
6月30日、W杯決勝戦を見ている頃から母なんとなくおなかを痛がる(父はテレビに夢中)。午前5時頃にどうやら陣痛のようだということになり、6時半病院へ。ところが9時過ぎ、診察の途中で陣痛がぱたりとストップ。一旦様子見で帰宅することになりました。
午後12時半、「やっぱりおなかが痛い」ということで再び病院へ。今度こそまちがいなく陣痛!
そして、3時7分ようやく待ちに待った誕生となりました!

体重3562グラム。日菜が2850グラムだったので、なんちゅうごつい女の子や!という印象でした。ごらんのように眉毛も濃いし。ま、うちの場合3人とも濃かったんだけど。

名前ですが、上から「日菜(ひな)」「日路(ひろ)」ときたので、今度も「日」をつけようということになっていました。年賀状で募集したところ、知人からいっぱい名前案が寄せられました(この場を借りて感謝!)。そして、話し合いの結果「日央里(ひおり)」に決定!!菜、路、そして里ということで我が家の名前は完結です(4人目の予定はありません)。

ちなみに募集した中に日央里はありませんでしたが、金大あての先輩ZUGANさんとその奥さんが考えてくれた「日央(ひお)」というのがきっかけとなりましたので、勝手に名付け親大賞とさせていただきます。どうもありがとうございました^^)。

あー、それにしても3人目だから安産だろうと思っていたわりにはひどかったです(父も)。今回も立会いしましたが、日菜のときには二日がかりで本当に大変なお産で、その分生まれたときには感激もひとしお。日路のときには母もそれほど苦しんでなく、父も分娩室に呼ばれて5分で生まれてしまったので、本当に楽なお産でした。その印象があったので今回も楽だろうと思っていたのですが、生まれる前2時間は本当に大変。時間こそ短いけど、日菜のときの苦しみがぎゅっと凝縮された2時間という感じでした。一緒になってヒーフーしてたから、もう父はダウン。頭がもうろうとしてしまいました。

母子ともに元気で本当にうれしいです。これから大変だけど、今のところ喜びいっぱいという感じです。

2002.7.2


2001年長沢家10大ニュース

我が家では年末にその年のニュースをまとめることにしています。そういうわけで2001年のニュースは以下のとおりだよ!

1.3人目懐妊!
一応予定どおり^^;といえるのかな。そんなすぐできんだろうと思っていたのだが、あっさりできてしまった。予定日は7月5日です。

2.日菜右足骨折!
これにはびっくりした。春のお花見で公園のオールラウンドジムで転び、右足ひざ下を骨折。でも子どもというのは怪我の治りが早いですねえ。GW前にギプスもとれちゃいました。

3.日菜七五三の写真を撮る
これは一大イベントでした。詳しくは下の記事にあるよ。

4.父パソコン新調
はっきり言ってこれ以下ニュースというほどのものではない。でも新しいパソコンはいいっす。

5.岐阜の友ちゃん、たっくん遊びにくる
9月に岐阜から兄夫婦たちが遊びにきました。岐阜の友瑠ちゃんは日菜の1つ上、 匡玖くんは日路と同じ年です。内川スポーツ公園に遊びに行き、よく遊びました。
6.日路 脳の発達すすむ(?)
日路の記事が少なかったので...^^ でもこれは実は大きなニュースかも。本当わからんちんだった日路がそれなりに意思の疎通が成り立つようになったのだから。
7.岐阜大ばあちゃん入院
子どもの頃から大好きなおばあちゃんです。岐阜の実家は介護で大変そうです。遠く金沢で申し訳ないです。
8.父デジカメ新調
年末に購入しました。エプソンのCP-920Z。このデジカメは決して悪いデジカメではないのに、マイナーだし、売れてなさそうで安かったです。はっきり言って買いでした、気に入ってます。カメラのキタムラにて。
9.父仕事多忙化
昨年はよく言えば仕事が充実していた。いろいろと悩んだ年でしたが、打ち込むことで吹っ切れた部分もあったかと思います。
10.母メガネ壊れて新調
日路にぶったたかれて曲がったメガネを父がまっすぐになおしてやってるうちに、ポキリ!中央から折れてしまいました。

日菜の七五三

11月12日、日菜3才の七五三をしました。
本人が「黄色がいい」と強く主張し、希望どおりの貸衣装をGET。当日はスタジオで家族写真を撮ったのですが、日菜大緊張でニコリともせずに硬直してしまいました^^;。
その後、尾山神社へお参りに行ってきました。

その3ヵ月後、木下スタジオにてアルバムの写真撮影を行いました。
そのときの写真も見てね。

→(日菜七五三アルバム)


りんご狩りしたよ

土清水町会では、毎年町内行事でりんご狩りがあります。今年は3回目。家族4人で行ってきました。
二人とも喜んでとっていました。今年のりんごは例年より甘く、とてもおいしくいただきました。


コスモスを見に行って来たよ

10月8日、大倉岳までコスモスを見に行って来ました。
日菜も日路も写真のようにはしゃいでおりました。思いつきでいったので、お弁当はコンビニのであった。


第二子 男、日路誕生!

いやあ、すっかり久々の書きこみになってしまった。ごめんちゃい。
そうそう、子どもが生まれたんですよ。9月18日午前8時5分。3310グラム。
夜中から何やら陣痛らしきものが始まっていたようで、5時に病院へ。で、三時間で生まれたので割と安産だったようです。
生まれたときはくちゃくちゃの顔していて、目も全然開けないし、ゴリラのようだった。すぐにパッチリ目を開けていた日菜とはだいぶ違っていた。10日ぐらい過ぎたらやっと人間らしくなってきました。
最近では、動くものを目で追ったり、たまには笑ったりと、反応が増えてきて面白いです。どちらかといえば父ちゃん似だと思う。

そうそう、姉になった日菜の反応がまた面白い。やっぱり何かといらだつのでしょうか、たまに叩いたりはしますが、それでもなんとかお姉ちゃんらしくがんばっています。

1999.11.7


TARUMI32才になる

今日8月6日はTARUMIの誕生日だ。ちなみにGAOが8月15日でこの近辺に我が家は固まっています。
もう30才こえたらはっきりいって歳なんてどうでもいいよね。29から30の大台に乗るときにはさすがにとてつもなく淋しい感がありました。なんかひとつの時代を終えたような。でも30こえたら一緒。もうどうでもいいって感じっす。
そういう話をうちの母親としていたら、母親いわく、それは30才前半だから言えること。30才後半になると、ひたひたと迫ってくる40の境界に、どうでもいいなんて言ってられなくなるそうで。確かにそうだなあ。

1998年8月6日


日菜1才になる

先日(7月29日)、うちの娘日菜が1才になりました。最近はそろそろ歩きはじめるところ。何もつかまらずに床からすくっと立ち上がれるようになりました。一歩足を前に出そうというしぐさが見られて、なんとも可愛らしいものです。
誕生日には生まれて2ヶ月頃からのビデオを見直したんだけど、おぉこんなに小さかったのか、こんなに大きくなったのかぁと驚きの連続でした。
初めは何もできずに、寝転がってばかりいた我が子が次々にいろいろなことを獲得していく。今では階段も上り下りするし、「おかあちゃん」と言っているに違いないような軟語を発する。すごいよね。子どもってこんな小さい手足なのに、いろんな可能性を秘めているんだもんね。
この子はこれからどんなものをつかんでいくのかな。何を自分の知恵と力にしていくのかな。そんなことを考えると将来がとっても楽しみになったTARUMIでした。でも、こうやってどんどん大きくなっていつかは親の手を離れて行くのかと思うとちょっと淋しい。本当にあっという間に変わっていくもんね。一日一日、一緒にいる時間を大切にしたいなあって思います。

1998年8月3日


TARUMI's子ども 日菜&日路

お姉ちゃんの日菜は1997年7月29日午後10時15分誕生.2才3ヶ月。
この子は本当におしゃべり好きで、もうすっかり普通に会話しています。最近はNHKの「お母さんと一緒」に夢中です。それなりに上手に歌うのには感心します。

弟の日路(ひろ)は1999年9月18日午前8時5分誕生。1ヶ月半。
二人目のせいなのか、はたまたこの子の性格なのか、単純でわかりやすいやつなのですよ。お産も大変楽だったみたいで、GAOは早くも「三人目行ける!」と言っています。おいおい。泣いたりしても、なんで泣いているのかわかりやすくって、オムツを替えたら直後にスピーっとかいって寝ちゃったりして。割と手のかからない子みたいです。

1才11ヶ月の頃のカエルのうた

もうすぐ1才の声

3ヶ月頃の泣き声

 

 

 


TARUMI's GAO

えっと、うちのカミさんです(^^)。あまり登場したくなかったそうですが。
保母なもんで,日菜を連れて毎日職場に通っています.


TARUMIのあゆみ

2000/
とりあえずは大したことしていない。Love For Lifeのライブはいっぱいしたいと思う。

1999/
9/18
日路誕生!2児の父となる。
8/
「この子たちの夏」、3年ぶりの金沢公演。実行委員として参加、でもあまりチケットは売らなかった^^。当日は大盛況、大成功。

1998/
1/15
念願のマイホームが完成し、入居。

1997/
7/29
日菜誕生!いよいよ父親。
5/23
伊那の太鼓集団「田楽座」のステージ開催。「祭りでサイサイ、春サイサイ」。もう、むちゃくちゃいいステージ。感激。事務局として取り組みに参加。
3/30
フィリピン孤児院パグサコップを救うという主旨の企画、A−LIVE開催。Love For Life初ステージ!取り組みは述べ1000人以上の人が市民芸術村に集まり、すばらしい一日となった。金沢の文化人が集うよいきっかけにもなった。

1996/

1995/
5/21
結婚!人前(じんぜん)結婚式を行いました。式を作ってくれた人たちには本当に感謝。そして両親にも。
新婚旅行で行ったイタリアは楽しかったなあ。シャンソンをききながら、みんなで騒いでまるで修学旅行のような新婚旅行でした。

1994/

1993/

1992/
3/
卒業!長かったー。でも実は大学に1年臨時の助手として残ることになる。

1991/

1990/
11〜1991/3
アマンドラ終了から、TARUMIの大スランプ期間が始まりました。たぶん兆候は夏、いやもっと前からあったのでしょう、そしていよいよ壁にぶちあたったという感じ。そう、いかに生きるか、何をして生きるかということに答えを見つけたかったのです。
スランプ期間、いろいろと本を読みました。この頃、もっとも感銘を受けた本は、「山科三郎/人間発達の哲学」。これは実に難しい本ですが、当時涙を流しながら、赤線を引いてノートを取りながら読みました。例えば、「本当の意味の人間らしさというのは、真の自己の価値を互いに対等でかつ尊いものとして確認しあい、ともに自己の内的な要求を実現する楽しさを体験する関係をつくること。自分が生きるために、あえて自分の責任で他者の力をかりることのできる関係=共同関係をつくること。」などという、難しいけど素敵な言葉がたくさんつまっています。
10/
アマンドラ金沢公演事務局長を務める。「アマンドラ」とは南アフリカの民族歌舞集団によるミュージカル。アパルトヘイト廃止をテーマに据えた舞台は躍動的で、パワフルですばらしかった。
この年はアパルトヘイト廃止の運動が大きく盛り上がった年でもあった。ネルソンマンデラ来日もあり、公演後、大阪まで見に行ったのでした。
8/
GAOとつきあいはじめました。
4/
市民劇場で1年間バイトする。なんといっても文化運動がしたい、というのが自分の希望だったので、もう一度原点に立ち返ってみようと思い、引き受けたのでした。演劇のことははっきりいって素人でしたが、よい機会となりました。そして、この年度が自分のターニングポイントになったと思います。

1989/

1988/
9〜11/
金大祭本部実行委員長を務める。はっきりいって、つらかった日々。自分を鍛える日々にはなったけど。森高千里のステージが実現したことが、まあ救い^^?
6/
わらび座「絆」公演。実行委員として取り組みました。進路、生き方等悩んでいた時期でしたので、ほろ苦い思い出。ステージはよかった。
1/
定期演奏会では総合司会を担当。団長時代を過ぎ、自分の中でのあて総仕上げ的な定演となりました。

1987/
6/
市民劇場に入会。はじめてみたのは地人会の「釈迦内柩唄」。
4/
この年、新入生歓迎会であてに入団してきた中にいたのが、現在Love For Lifeを一緒にやっているちゃんたとNAVI。考えてみればこれも大きな出会いだなあ。

1986/
10/
障害者と健常者がともに旅行を楽しむ「ひまわり号」に参加。当時高校生でボランティアできていた今のカミさんGAOと出会う。何も意識していない。こいつがカミさんになるなんて、思いもしなかった。
9/
あての団長になる。
金大教養部、留年が決定する。
8/
「この子たちの夏」金沢公演をはじめて観る。85年から12年連続金沢公演を果たすわけだが、これが公演2回目。これもでかい出会いだ。

1985/
9/
あての常任運営委員になる。
6/
わらび座のステージをはじめて見る。あらぐさ班。
4/
金沢大学工学部電気情報工学科に入学。長い大学生活、一人暮らし、そして金沢での生活の始まり。
「金沢大学民族音楽合唱団あて」に入団。はっきりいって、これが人生最大の出会いであろう。今後の人生観、人間関係、価値観を揺るがす、ターニングポイントを通過。しかし、当時はそれほどそれに気づいていない。

1966/
8/6
岐阜県岐阜市に生まれる。午前1時30分。
生まれた日の明け方、病院が停電。当時赤ん坊すり替え事件が流行っていたため、新生児室まで暗闇の中を祖母があわてて取りに行く。一説には、このとき間違えて人の子を持ってきたと言われている^^。