自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・アメリカの軽井沢 “New Hope”を訪ねて・ペンシルバニア州
052.  ニューホープ  &  アイビーランド鉄道 ニューホープ

〈0001:〉 
ニューホープ保存鉄道の駅

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〈紀行文〉
 ペンシルバニア州とニュウジャージー州との境を流れるデラウエア河畔にある古い運河と街道が交わる昔の交通の要所であったニュー ホープの町に活躍するNew ope H& Ivyland Railroad(ニューホープ・アンド・アイビイランド鉄道)を訪ねることにした。それは日本で見たガイドブックによるとニューホープはアメリカの軽井沢だと紹介があったからでもある。フィラデルフィア空港でレンタカーを借りて、レラウエア河の南岸に沿って古い州道をひたすら遡上すれば自然にニューホープの町に入ることになるのだが、その前に述べておかねばならないことがある。この河のそれぞれの岸にはワシントン・クロッシング州立公園の存在が否応なしに目に飛び込んでくる。それで、どうしても独立戦争の歴史に引き込まれてしまうのである。その頃、イギリスの植民地政策に反発して、抵抗運動から始まったのが、1775年のボストンに近いコンコードの戦いであった。戦の中ばからジョージ・ワシントンが植民地連合軍の総指揮官に任命され、港町ボストンをイギリス軍から解放した。その後、イギリス本国から応援軍がニューヨーク港に到着してからは、独立軍は追われるように敗け続けて、ニューヨークを捨て、ニュージャージイを南下退却中のことであった。1776年のクリスマスの夜半、それはテレントンの戦の前日で、ワシントンの率いる中隊が、凍
りついたデラウエア河を渡ったのがこの場所であるという。この記念公園にはE.ロッカーの描く、当夜のワシントンの姿を再現した油絵の大作が飾ってあることで有名である。フィラデルフィアまで占領されてしまったワシントンの独立軍は、その冬を郊外で厳しい寒さと飢との戦で過ごしていた。そのうちに、植民地連合とフランス軍との同盟に成功し、トレントンの北方のプリンストンで、フランス海軍の支援の下にイギリス軍を葬って独立を勝ち取った所であるとのことだ。
さて、18世紀の初の頃、デラウェア河の支流のリーハイ河の流域で無煙炭が発見され、これをフィラデルフィアへの輸送ルートとしてデラウエア運河が造られたのが1832年であった。その中間点のニューホープは、ニューヨークーフィラデルフィアの裏街道との十字路に当るところで、今でも街の中に1870年代の古い建物が186軒も残っている。その中には船渡し宿兼酒場などの宿場町の風情を残し,往時の繁栄ぶりが伺えるのである。この付近は美しい田園地帯で、濃い緑の森林とが交錯して比較的温和な気候の風土が、この道筋を通る人々により知られていた。ペンシルベニア植民地を築いたウイリアム・ペンがイギリスに帰国して紹介したことなども手伝って、欧州を逃れてアメリカに移住する芸術家達に知られるところとなった。今では郡や州の劇場があり、そして多くの画廊や古美術店が並び、有名な建築デザイン研究所や、アトリエが散在して芸術村としても有名になっている。
加えて運河を復元した公園も完成し、街全体を史蹟にしようとする運動も盛んである。狭い旧街道筋に並ぶ有名レストランの出店や、芸術品を売る店 、古い印刷機で復刻版を刷る店などに土産物店が立ち並ぶ風情を愛する人達が、年中訪れて賑やかである。
この辺の感じが軽井沢の旧道沿いに似ているとかでガイドブックに紹介される訳である。
さて、この町に鉄道が敷けたのは1881年のことで、
P&R(フィラデルフィア・あんど・レーデング)鉄道が支線を伸した時のことで、この町のブリッヂ・ストリートに、当時建られた小駅が健在である。
小さな鋼板葺きの尖塔を持ったビクトリアン調の駅はメインストリートの通りから少し奥まった所に建てられ,赤練瓦で舗装された 2本のホームが通りから駅まで続いている.駅の中の売店で、最刷り上った19世紀末頃のタイムテーブル(時刻表)の非色味がかった厚手の紙の復刻版を奨められて購入した。しかし自動車の発達により、他と同じようにNew Hope支線も早ばやと旅客列車は廃止されてしまった。僅かに残っていた貨物も廃止したいと考えられていた。
その後にフラデルフィアの団体が支線を借り受けて、SLをカナダから買収して運営を始めたが、経営に行き詰まって破産してしまった。そこで、地元の鉄道好きの土木業を営む兄弟の熱意により、支線ルートがNew Hope & Ivy Land Railroadとして再建され、沿線の工場への貨物サービスを行うことになった。そして、週末だけ蒸気列車を走らせる計画が多くのボランテアの支持荷より実現した。そして、更に1982年から運転距離も縮少され、社名もNHSRと云う保存鉄道となって活動を続けているとのことだ。
先ほど買った時刻表の、あのわざと黄色味がかった厚手の紙に印刷された駅名を見ている
うちに、フィラデルフィアから往来する文人や芸術家の人々が、赤練瓦のホームについた列車から降りて来そうな錯覚にとらわれ
るのであった.
周辺の鉄道の雰囲気は,週末の午後になるとNHSR のノスタル
ヂックな蒸気列車の発着で“turn of century"(一世紀逆戻り)の
情景そのものが展開されるのである。
次の53.および54.にSLの名場面が登場しています。

撮影:1979年
発表:「レイル」誌・1985年冬の号

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。・アメリカの軽井沢“New Hope”を訪ねて・ペンシルバニア州
053. 深い谷がデラウエア河へ合流するニューホープの
054. New Hope & Ivyland鉄道のカーブした鉄橋