ベルリンの壁というものは、こんなだったろうか。そう思ってしまうくらいに、東端は高い塀で他と分断されていた。

修理屋はそのかなり手前でバイクを置いて歩き出したけれど、すぐに立ち止まって、手を伸ばして来た。

何か要るものがあるのかと思い、背負っていたリュックを渡す。


「 違う。手を繋いでおいて。足元が悪いから 」


修理屋は手を繋ぐのを嫌がるから、理由があるにせよ、自分から言い出すのは初めてだ。隣に走って行って、急いで手を繋ぐ。

でも、修理屋はわたしに自分の手を持たせているだけで、ちっとも握り返さない。


「 あのね、修理屋はわたしに手を繋いでって言ったの。でも、こういうのって、わたしが一方的に掴んでいるというのよ 」

「 じゃあ、掴んでて 」

「 うわ、言い直す方を選ぶ!?」


わざと転んでやろうかなんて、悪い考えが浮かぶ。でも、修理屋は的確に、わたしが躓きそうな場所を避けている。

わたしを支えきれない修理屋は、その為に手を繋いだのだ。

何だか色々と諦めた気持ちになって、壁に沿って歩いていると、いくつか、頑丈に施錠された扉を見た。

人が通る大きさだったり、大型車両も通れる大きさだったり、いずれも、開きそうにない。


「 一ヶ所、崩れている場所があって、そこから中が見える筈だ 」

「 調べておいてくれたの?」

「 いや。昔に聞いた話だ。今も塞がれてはいないだろう 」


少し歩いた所に、穴はあった。壁は思ったより分厚くて、そこも自然に崩れたのではなく、ドリルか何かで破壊されたようだ。

修理屋に腰を掴んでもらって、頭から突っ込み、何とか肩も抜いて、向こう側に顔を出す。


目に映ったのは、白。




何もない。

東端には何もない。道具屋はそう言った。それは、見るべきものは何もないという意味であって、本当に、何もないとは思わなかった。

人造物も、植物も、何もない。色が抜けたような白い土が、海岸線にも建つ壁まで広がるばかりだ。

ここには、何があったのか。ここで、何があったのか。どうして、今、こんなにも何もないのか。

修理屋に声をかけようと首を捻ると、内側の壁にアルファベットと漢字と記号が入り交ざった文字が見えた。

一番最後の一行は、この国が昔に呼ばれていた名前だ。修理屋にそれを話すと、彼は奇妙な事を言った。

「 配管屋の国も、そのずっと向こうまでも、一つの国だったのは知っているか 」

「 うん 」

「 ここは、その頃にあって、そして無くなった場所だ 」










海底遊歩 6






わたしは修理屋に連れられて、中央区の大きな病院へ来ていた。東端を見た日から、一ヶ月も過ぎた頃の事だ。

『 あんた、手を繋いでいてやってくれないか 』

言われるままに、立派な病室のベッドに眠る解体屋の手を軽く握ったが、反応はない。

『 ずっと眠っているよ 』

「 いつから?診療所にいないのは、女の子の所にいるからだと思ってた 」

『 地下から戻った日の午後に、一度起きて、また眠った。それからずっとだ 』

こんな事になっているなんて、思いもしなかった。修理屋は彼が戻って来た直後から、頭を打ってやしないかと気にしていたのに。

わたしはどうして、すぐに忘れてしまったのだろう。


『 あんたにやると言っていたよ 』

「 何を?」

まだ呆然としたまま、考える。前に断ったお金の事だろうか。あの黒鞄は、結局、診療所の病室のベッドの下に転がされたままだ。

『 あんたにはやらないって言ったけど、やっぱり、全部やるって、そう言った 』







「 いつ、起きるの?」

『 分からない 』


それから、わたしは毎日来て、手を繋いだ。握り返して来ないかと、そんな事も思わなくなった五年目の春。

解体屋は、この世界から逸れたまま、とても静かに逝った。




虫屋は奥さんの七回忌の年に、胸を患った。

どうしても夏までは生きたいから、病院は嫌いだけど仕方が無いと言い、入院先ではわたしがお世話をした。

『 おう、今日は十三日か 』

「 そうよ 」

『 そうか。やっと、あいつより年上になれた 』

「年上になりたかったの?」

『 まあ、一度くらいはな 』

「 ふーん 」

『 今日はいい日だ 』

虫屋はわたしが知る中で、最も高齢まで生きた。それでも、やっぱり今の人は百年と生きないのだ。




修理屋の兄は、小さな飛行機で大陸へ向かったのを最後に、消息を絶った。

高い所が好きで、乗り物が好きで、猫はそうでもなくて、人がいる所が嫌い。

背の高さも、少し垂れ気味の目も、髪の色も、話し方も、修理屋とは何もかもが似ていない人だった。




道具屋の彼女は、四十歳を過ぎた頃から姿を見せなくなった。

彼女がいつも腰掛けていた事務椅子を片付ける道具屋は、全部分かっていたような顔をしていた。

『 いなくなったら泣くかなと思ったのにネ。自分の変わり無さにうんざりするヨ 』




晩年、配管屋は仕事をやめて暇だからと言って、いつも道具屋の店先にいた。

時々、わたしも加わり、三人でポロ机を囲む。店の前の黄色い道にはトラックが通り、たまに客が来る。

その日もそんなで、道具屋に来客があって、彼が鉄扉の中にいる時、配管屋が肘の辺りを掻きながら、ふと聞いて来た。

『 いつか、この街から人がいなくなっても、お前はここに残るのか? 』

「 うん 」

『 道具屋に他所へ連れて行ってもらわねぇか? 』

「 ううん。わたしはここから何処にも行かないのよ 」

『 そうか。まあ、そうなんだろうなあとは、何となく思っていたがね 』

「 配管屋は道具屋の事、よく知っているの?」

『 見てりゃ分かる事しか知らねぇよ。どうしてか、ゆっくり年を取るって事くらいだ。あとは、たまにしょうもない事で拗ねる 』

後の言葉は、内緒だ、というふうに笑った。




修理屋は、子供の頃から丈夫な人ではなかった。でも、長生きはするつもりだと言って、実際、長く生きた。

毎年、修理屋の誕生日にはお祝いをした。ウサギの着ぐるみは、年を経て色が抜けて、最後は薄汚れた白になった。

修理屋の髪も、同じように白くなった頃、彼は掠れた声で、独り言のように、こう言った。



 あんた、よく来たね。       よく来てくれたね。 



 うん。ニホンから船に乗って来たのよ。       修理屋。  わたしを待っていてくれて、ありがとう。














+ + +


配管屋の部屋の窓枠に座って、足をぶらつかせていると、爪先がばしゃりと水面に触れた。

街が浸水を始めた頃の水は茶色くて、自分の足元も見えなかったけれど、今の透明度は中々のもの。

もう、すっかり海の色だ。


隣には黒い録音機。再生ボタンを押しても動かない。

簡単な故障なら、わたしにも直せるようにと、修理屋が教えてくれた。けれど、手動充電器の方が先に壊れてしまった。

でも、淋しくない。この中に、ちゃんとあるから、淋しくない。


さて、空に手を振って、そろそろ行こう。

録音機を背負って飛び込むと、沢山の小さな泡が出来て、わたしの体に触れては消えた。

ゆっくり、ゆっくり、地上に降りる。

道具屋へ通った道。工場区へ続く橋。水銀灯の道。猫の駅。駅ビル。高架下。しばしの海底遊歩。

他にも行っておきたい場所は山ほどある。それほど、わたしはこの街で、多くの時間を過ごした。

だけど、動けなくなると困るから、まだ何処も不調じゃない内に、修理屋のアパートへ向かった。

門柱はそのまま。建物は窓ガラスが全てなくなっていて、小さな沢山の魚が出入りしている。

玄関前の階段は、石や砂は勿論、プラスチックのバケツの欠片やら、電化製品の残骸やら、とにかく様々なもので覆われていた。

手で全部取り除くと、まだコンクリートの白い部分が残っていた。

その上を、斑に濃く葉の影を落としていた日を懐かしむように、水面を映した薄い光が揺らいでいる。

ここに座り、十二歳の修理屋が、わたしを待っていた。


















ピー・・ガーーーッ・・・・


『『『 発見した。かなり腐蝕が進んでいる・・・。写真、本当に撮らなくていいのか?』』』

「 いいヨ。カノジョが最後に選んだ場所を知りたかっただけだかラ 』

『『『 ここは・・・アパートの玄関前だな。階段に座っている 』』』

「 そう。ありがとう。ご苦労様。もういいヨ 」


ダイバーが小型船に戻ると、最近、知り合ったばかりの彼の友人が、海に花束を投げた。

「 あんたがその花束を用意した時さ、それは何だと聞いたら、この街で最後に死んだ女の子の為に、と言ったろ。

まさか、ロボットだとは思わなかったぜ 」

「 ロボットだけど、女の子だったヨ 」

「 ハハッ。知っていたコみたいに言うんだな 」

ダイバーはさして気にも留めず、沈んで随分と経つ水底の街を眺めた。




























楽しく書き続ける事が出来たのは、続きを楽しみにしていますと、貴重なお時間を割いてご感想をくださった方々のおかげです。

そして、読んでくださった方全てに感謝します。

修理屋と客シリーズ、最後まで読んでくださり本当にありがとうございました!

追記。最後に道具屋が登場した事についての補足。

道具屋は登場人物の中で、一人だけ特殊な役割がありまして、物語を見届ける人でした。

海底遊歩まで続くとは全く思っていなかったシリーズ最初から、彼の年齢と外見に関しての描写を所々に入れておきましたが、

この海底遊歩では、それがはっきり分からないと話にならないので、あちこちに入れまくりました。

でも、姉が道具屋の元を離れた頃も、せいぜい三十前後くらいの外見だとか、

ダイバーは四十前くらいと思っている事とか、あえて書きませんでした。

道具屋だけが何故、他の人間と同じペースで年を取らないのかの答えは、全て東端での出来事にありますが、

それはレンレンが最後まで知らなかったように、明らかにせずに終わります。





2010.9.27 菊永まき

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