夜の人 3 +++









『珍しいことをすると雨が降る』とはよく言ったものだ。

大木の下で雨宿りをしながら、そう思う。


「ま・・せいぜい小半時だな」


シロウは腕を組み、指の間に挟んだ煙管を揺らしながら呟いた。

隣に立つ彼の声は、アンネリーの右上から聞こえる。

きっと、見上げれば、この天気でもシロウの顔がよく見える筈だ。

雨雲に隠れているとはいえ、その上に太陽が出ている時間に会うのは、久しぶりだった。

でも、この距離は近過ぎて躊躇われる。気づかれるとやはり恥ずかしい。

それに、シロウの煙管が視界に入るだけで嬉しいのも本当だ。

半分寝ているような気配の男とは対照的に、アンネリーはいつも彼といるとドキドキする。

だからこそ、こうしていて嬉しいのは自分だけじゃないだろうかという不安が、ちくりと胸を過ったりもするのだ。



今は紫陽花がきれいに咲く頃で、それを見に来たのだから、この雨はタイミング的にはヨシである。

紫陽花という花は、雨の中が一番きれいに見える。

こうして少し離れた場所から、雨に透けてぼんやりと見える紫陽花の彩りも美しい。

もっとも、シロウは花には全く興味がなく、その目はただ、土を抉る勢いで降る雨を見ているようだった。



雨は、シロウが読んだ通り、短時間で去って行った。

周囲に沢山の水溜りを残して。



「行くか」

シロウは軽く反動をつけ、もたれていた木から背中を離すと、早くも木漏れ日が射し始めた森の中を歩き出した。

しかし、アンネリーの足は地面に貼り付いたように動かない。

アンネリーが履いている靴は光沢のある赤い布製の靴。

トゥシューズのようなデザインで、足首の所に大きなリボンがついている。

彼女のワンピースによく似合うこの新しい靴は、高くて何日も迷い、夢にまで出て来た末、思い切って買ったものだ。

可愛いが耐久性は重視されていない。つまり、泥水が染み込んだら洗っても取れない。

一緒にいるのが英国紳士なら上着をサッと脱ぎ、水溜りに被せて『さぁ、どうぞ』と言う所だが、

今、彼女の目の前にいるのは英国紳士ではなくシロウである。

いずれにしても、道は英国紳士が二十人は要りそうなくらいに水溜りが続いている。

アンネリーは靴を脱いで裸足になろうかと考えた。

足についた泥なら洗えば落ちる。でも、そんな姿をシロウに見られるのは嫌だった。


「あの、わたし、もう少しここにいたいんで、先に帰ってください」

「あぁ?すぐに日が暮れるだろうが」


シロウは背中を向けたままだが、立ち止まった。

振り返るのもたるそうな後姿に、アンネリーは慌てて声をかける。


「す、すぐ帰りますから、シロウさんはどうぞ先に帰ってくださいっ。

 ・・・・・・・・あ!あの、一緒に帰りたくないとかそういうのではなくてですねっ」


アンネリーは手をわたわたとさせ、焦りながら一生懸命に言葉を選ぼうとするが、詰まってしまい、俯いた。

シロウは聞いているのかいないのか、ついて来ないアンネリーをようやく振り返ると、

彼女の視線の先にある足元を見て一瞬わずかに片眉を上げた。

そして、木の下まで戻るとアンネリーの前に立ち、体を屈めたかと思うと、アンネリーを右肩に担いだ。


「へ?」


アンネリーは後ろ歩きをしているように、雨宿りをしていた木がだんだんに離れて行くのを見て、

自分が今、どうなっているのかを理解した。


「・・・!あのっ!」

「何だ?腹、痛ぇのか?」


荷物を担ぐようにアンネリーの体を担いでいるため、彼女の腹部が丁度シロウの肩に乗っている状態だ。

それが痛いのかと聞かれたわけだが、勿論それは大丈夫で。


「いえっ、何処も痛くはないんですけどっ」

「靴、汚したくねぇんだろ?だったら大人しくしてろや」

「わわわわわたしっ、重くて・・っ」

「軽いぜ?四十一キロってトコだろ」

「・・・!何故そんな正確に判るんですかっ?」

「穀物袋を運んだりよ、そういうバイトはよくやったからな。

 小麦とかああいうのは一袋の重さが決まってるからよ、体が覚えちまってんだな。十キロ入りを四袋担いだ時より少し重いってな」

「・・・わたし、小麦みたいなものですか」

「小麦は喋んねぇからな。・・・ま、小麦を担ぐよりは楽しいねぇ」



「楽しい・・ですか」

「ああ、楽しいねぇ」






それは、何度でも聞きたい言葉だったけれど、我慢して、耳に残るそれを心の中で何度も繰り返し聞いた。

いつだって自分の方が好きという情けない自信だけはある。

だから、お守りのようにこの言葉を大事にしようとアンネリーは思った。






(2003.6.12)


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