研究ノオト79 生物から見た世界(1)

第1稿 2006/08/06

 

【テクスト】

 

ユクスキュル、クリサート、日高敏隆、羽田節子訳『生物から見た世界』岩波文庫、2005年、まえがき、序章、1章、2章

 

【目次】

 

まえがき

序章 環境と環世界

1章 環世界の諸空間

2章 最遠平面

 

【内容】

 

まえがき

 

 本書は「未知の世界への散策を記したもの」と言えよう。その世界とは、生物の環世界(Umwelt)であり、その世界が存在することを理解するには、既存の確信を解きほぐす必要がある。こうした既存の考え方の代表的なものが、いわゆる生物機械説である。生物機械説、ひいては行動主義心理学者の議論に従うと、動物は純粋に客体化され、主体としての面が不当に無視され、人間の場合であれば感情や意志を考慮に入れることができない。しかし動物にせよ人間にせよ、「機械操作係」の存在を見出すことができる。動物もまた人間と同様に、「知覚と作用とをその本質的な作用とする主体」なのである。

 環世界とは、主体が知覚する知覚世界(Merkwelt)と、主体が作用する作用世界(Wirkwelt)によって構成される。そのあり方は実に多様である。主体はいわば自己の環世界というシャボン玉の中で1つの世界を構成しているのである。

 

序章 環境と環世界

 

 マダニの例は、環世界がどのように構成されるのかを理解する上で好例である。マダニが木に登って哺乳類の皮膚の上に落ちて血を吸うという一連の過程において、マダニのさまざまな細胞はそれぞれの知覚記号・作用記号に従う機械操作係であり、マダニといいう生物主体の知覚と作用はそれらの細胞の共同作業によって成り立っている。動物主体は知覚記号にしたがって客体の知覚標識を認識し、作用記号にしたがって客体の作用標識を認識する。いわば、動物主体は知覚と作用という2本の足で客体をつかんでいる。作用標識は知覚標識に影響を与え、変化させるように作用する。「作用標識は知覚標識を消去する」のである。

 ある客体がある主体の客体となれるのは、それがある主体にとって、一方では作用標識、他方では知覚標識になっている限りにおいて、である。こうした機能環を考えてみると、環世界説の第1の基本法則が見えてくる。すなわち、「動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて、それぞれの環世界に同じように完全にはめこまれている」。環世界は単純な動物においては単純であり、複雑な動物にはそれに応じて複雑である。

 ダニを例に取ると、哺乳類の皮膚腺が最初の知覚標識であり、ダニの作用器官に働きかけて落下を引き起こす。落下した衝撃という作用標識がダニの触覚という知覚標識を解発し、それによって嗅覚という知覚標識が消去され、歩き回るという行動を解発する。そして毛のない皮膚の暖かさという知覚標識が歩き回る行動を止め、食い込む行動が始まる、というわけである。ダニを取り囲んでいるのはこうした3つの知覚標識と3つの作用標識であり、それがダニの環世界を形成している。

 標識となる相手が近づかない限り、ダニは長い場合には十八年間もの間、飲み食いしない状態でいることが観察されている。この期間、ダニの環世界は何年にも亘って停止していることになる。このことは、環世界内部の時間は主体が支配をしているということ、すなわち時間というものが客観的で固定しているとは考えることができないということ、「時間なしに生きている主体はありえない」のではなく、「生きた主体なしに時間はありえない」ということを意味する。実は空間にも同じことが言える。ここにおいて環世界論はカントの学説とかかわってくる。つまり「主体の決定的な役割を強調することによって、カントの学説を自然科学的に活用しようとする」のが環世界説なのである。

 

1章 環世界の諸空間

 

(0)環境と環世界

 

 人間が通常環境と呼んでいるのは、人間にとっての環世界である。環世界は生物によって異なるのであって、すべての生物が人間と同じ環世界に生きていると考えるのは幻想である。

 人間に限定しても、個体によって環世界のあり方は異なる。下記の3つの空間は、人間そして生物における環世界のありようを理解する助けとなる。

 

(a)作用空間

 

 生物の運動の活動空間を「作用空間」、その尺度となるものさしを「方向歩尺」、一歩一歩の方向を「方向記号」と呼ぶことにする。これによって左右・上下・前後を区別することになる。三半規管はこうした三次元の空間認識を司る器官である。魚、ミツバチ、ツタノハガイの例が、作用空間の認識の仕方の多様性を物語る。

 

(b)触空間

 

 触空間の知覚記号は方向ではなく場所に関する「局所記号」である。ものに触れて調べる際には、場所と方向歩尺によって、形を理解することになる。

 

(c)視空間

 

 目のある生物においては、視空間と触空間が分離する。視空間と触空間は競合することがある。視覚のエレメントによって視空間のあり方は異なる。場所と場所の結びつけは視空間の場合も方向記号に依拠している。

 

2章 最遠平面

 

 最遠平面(地平線)は、視空間が貫通できない壁のことである。一般に人間の場合、周囲10メートル以内では遠近を判断することができるが、それ以上から無限大の距離においては、(近い・遠いではなく、大きい・小さいという基準になるため)距離を判断することが難しくなり、大人の場合6キロから8キロで視空間は終わって最遠平面が現れる。長い間狭い部屋の中に居て外に出た時、あるいは子どもにとってがそうであるように、最遠平面は変化しうる。

 すべての生物は、それぞれの環世界を構成する最遠平面を持っている。すべての生物は、自己の回りに閉じたシャボン玉をもっており、そこに閉じこめられているが、その内部では確固たる環世界が形成されており、そこからは抜け出すことはできない。主観から独立した空間などは存在しないのである。

 

【コメント】

 

 昨年この本が平積みになったときに、何の気なしに手にとって以来、すっかりその虜になってしまいました。もともと、社会生物学や進化心理学といった分野と国際関係研究を、IR的なやり方ではなしに、関連づけた議論ができないものか、と思っていました。この本を読んで、そうした分野と、大森荘蔵や見田宗介(真木悠介)の議論と、私が勝手にそう思っている内容という意味での国際文化論とを絡み合わせられるかもしれない、とさらに考え始めています。

 

 「あとがき」の通り、今の生物学の水準とは異なる話もいくつかあるようです。エーテル波はすぐわかりましたが、昆虫の複眼の構造に関しても、確かに生物学事典や生物学の教科書を並べてみると、違うようです。1933年の本ということで、この辺、非専門家である私がどこまで厳密に割り引けるのか心もとないところです。

 

 環世界という考え方、主観から独立した空間など存在しない、という主張は、大森荘蔵的な「真実の百面相」「写しの比喩の誤り」といった議論としっかりかみ合うと思います。大森はユクスキュルを知っていたのかどうか、全集にはなかったような気もするのですが、確認してみます。

 

 何が現実で何が現実でないか、現実と夢まぼろしの区別、という議論にしても、生物ごとの環世界の形成のされ方によって、これに対する答えは変わってきそうですね。

 

(以下つづく)

 

(芝崎 厚士)