研究ノオト71 真木悠介 自我の起原 第5章、第6章

2005/08/28第1稿

 

【テキスト】

 

真木悠介「5 <創造主に反逆する者>−主体性の起原」「6 <かけがえのない個>という感覚−自己意識の起原」(以下「第6章」)『自我の起原』岩波書店、1993年。

 

【目次】

 

5 <創造主に反逆する者>−主体性の起原

 

01 自己と一卵性双生児の差分

02 <利己の起原>という問い

03 エージェント的な主体性とテレオノミー的な主体性

04 孔雀の尾と自我

05 自己目的化/脱自己目的化

 

6 <かけがえのない個>という感覚−自己意識の起原

 

01 「自我と脳」

02 左脳と他者:自己意識の場所

03 遺伝子=文化共進化理論

04 自己という認識の「下限」

05 自乗化されたシミュレーション

06 <かけがえのない個>という感覚

 

【内容】

 

5 <創造主に反逆する者>−主体性の起原

 

01 自己と一卵性双生児の差分

 

 第4章で考察したように、個体は生成子の再生産のメディアとして派生した現象である。しかし、「生まない性(生ませない性)を享受するドン・ファンやドン・ファナたち」、あるいは「岡本太郎やシモーヌ・ヴェイユのような、芸術や思想や理想に生きる人たち」さらにはDINKSやシングル・ライフといった社会現象を想起すればわかるように、その派生物としての<個体>が自己目的化する主体として自立する現象が存在する。

 

02 <利己の起原>という問い

 

 では、そうした現象は何に由来するのか。つまり<利己の起原>としての動物の個の利己性(とりわけ個体水準の利己性としての<利個性>egoism)は存在するのかどうか、もし存在するとすればどのようにそれは生じるのかを検討することが必要となる。もちろん、こうしたエゴイズムは<遺伝子の利己>から完全に剥離することはできないが、そのことはエゴイズムが不可能であることを意味しない。第一に個体の利己としての真理の探究を行いながらも、副次的に生殖という<遺伝子の利己>を満たす活動をする、ということは可能であるからである。

 

 そうした主体性の起原を問う場合に想定することができるのが、「盲目の戦略主体」とでもいうべき作用である。例えばローレンツが主張したのは<種の意識>が発生する以前に種の論理や種の力が盲目の戦略主体として働いている、ということであり、またドーキンスらの現代の社会生物学においては、<血縁の意識>や、子孫を残そうとする欲望や意識が発生する以前に、遺伝子の論理や遺伝子の力が盲目の戦略主体として作用している、ということが主張されていた。であるならば、「<個の意識>、個体としての<自己意識>というもの、未だ非意識の戦略主体として作用する個体の力、個体の論理というものがすでに成立していたと考えておいていいはず」である。つまり、「意識」の発生以前に、「個体としての<自我>の自己中心化という現象」が起きていたのではないかという仮説が可能となる。

 

03 エージェント的な主体性とテレオノミー的な主体性

 

 その仮説を検証する際にポイントとなるのが、エージェント的な主体性からテレオノミー的な主体性へ、という主体性の性格の転換である。個体はそもそもなんらかの主体性を持つが、それはあくまでエージェント的なものに過ぎない、いわば「弱い」主体性である。テレオノミー的な主体性とは、「何のために」という目的を自分で決定することが可能な主体性(「強い」主体性)のことをさす。すなわち、個体の主体化とは、こうしたテレオノミー的な主体性の獲得を意味すると考えてよいと思われるのである。

 

04 孔雀の尾と自我

 

 フィッシャー、ローレンツ、バレラらが指摘するように、「派生するものの自立化」という機制は、実は生物界においては広く観察される現象である。真核細胞レベルで見ても、DNAの「しだれ柳現象」、ボトルネック化、免疫といった作用に、そうした機制が働いていることを看取することができる。しかし、これらは「先住生成子の自己増殖の確保」を目的としてなされるものであり、真の意味でのテレオノミー的な主体性の獲得ということはできない。

 

 とすると、真のテレオノミー的な主体化は、@脳神経系の高度化の結果として、A個体が生殖以外の生のよろこびを強度に感受し、Bそれらを自己目的化する能力を獲得する、という局面を待たなければならないことになる。

 

05 自己目的化/脱自己目的化

 

 ところで、真のテレオノミー的な主体化とは、「テレオノミーを自ら設定し得ること」を意味するのであって、それは個体自体を自己目的化するのであってもよいし、個体以外のものを目的としたり価値とすることが可能である。前者を「自己目的化」、後者を「脱自己目的化」と呼ぶことにする。

 

 こうした「自己目的化」「脱自己目的化」の同時的な機制、いわば「<自我>の<脱自我性>」という「スリリングな逆説」が看取できるのは哺乳類においてである。一般に「個体」の寿命と生殖可能年齢との間の差分が主体化の度合いの指標となりうるが、哺乳類の場合@哺乳の必要性、A保育期間の延長がより複雑な適応方式の学習を可能にし、それが個体の長命、保育期間の延長へと作用しうる。さらに、B学習能力とシミュレーション能力を支える脳の発達、C群居性、社会性の高さが、生殖以外の、他の個体の生存と繁殖を助けるために必要なさまざまな能力が個体を評価する基準の中に含まれることによって、個体評価の基準が多次元化し、それが「かけがえのない」個として識別される根拠となっていくと考えることができるのである。 

 

6 <かけがえのない個>という感覚−自己意識の起原

 

01 「自我と脳」

 

 自己意識の起原をめぐる哲学者ポパーと大脳生理学者エクルスの『自我と脳』(1977)は、自己意識を「大脳の創発的な所産」であるとし、それ以上のことは何も言えないという当たり前のような結論に至ったのみであった。自己意識の起原を物質世界に求めるポパーに対し、物質世界とは別個の起原を考えるエクルスはその後も研究を進め、『脳の進化』(1989)を著すが、その結論は「自我あるいは魂」を「神の創造」によるものとみなすという無残なものに終わった。

 

02 左脳と他者:自己意識の場所

 

 しかしエクルスの研究からは、自己意識の座が左脳にあるという結論を得ることができる。左脳には「言語野」の95%が集中しており、人はそこで見たもの(聞いたもの)を意味に転換しているのである。

 

03 遺伝子=文化共進化理論

 

 いっぽう、ラムズデンとウイルソンが『精神の起原について』(1983)で自己意識の起原として論じたのは、「遺伝子=文化共進化理論」と呼ばれるものである。これは、

 

  @遺伝子は個々人の精神を組み立てる発達の規則(後成規則)を定める。

  A精神は既存の文化の諸部分を吸収して成長する。

  B文化は、当該社会の全成員が行う意思決定と革新の総和によって、世代ごとに更新される。

  C個人の中には、現在の文化において、他の者よりうまく生存と繁殖を行わせるような後成規則をそなえた者がいる。

  D成功度の高い後成規則は、それをコード化した遺伝子とともに集団全体に拡散する。いいかえれば集団が遺伝的に進化する。

  Eこのようにして、文化は、生物学的プロセスによって創造・形成され、一方、生物学的プロセスも、文化変化に対応して同時に変化する。

    

という理論、すなわち「文化が集団の中のある型の形質をもたらす遺伝子の生存率/繁殖率の低さや高さを規定し、その結果集団内の遺伝子頻度が変化し、幾世代か後には−少なくとも純粋な「自然選択」よりははるかに速い速度で、たとえばわずか1千年という単位で−人間集団の遺伝子的な特質を変化させる」ということを意味する。

 

 こうしたフィードバック・ループに引き込まれるのは人間だけであるが、ラムズデンとウイルソンはその理由として、人間が(1)一定程度大きく複雑になっていた脳、(2)親族の密接な連係と、攻撃行動と協働行動が混淆して含まれた社会組織、(3)サバンナに「降りた」ことから来る直立二足歩行と手の自由化という三つの組み合わせを手に入れたためであるという、「一見凡庸ではあるが妥当な総合仮説」を示している。

 

04 自己という認識の「下限」

 

 鏡を使ったマークテストによる、「自己」という認識の存在を推論する実験の成果によれば、大型類人猿とマカク属のニホンザルとブタオザルという二種にのみ、自己認知能力が見出される。このことから、「これらの種が(中略)霊長目のなかでも際立って高度に社会的な動物であること−大型/中型の複雑な集団構造、個体の社会内役割分化、等−とかかわりがある」という仮説を立てることも可能となる。つまりそうした条件が、自己意識を成り立たせる最低限の条件である可能性があるということになる。

 

05 自乗化されたシミュレーション

 

 また、養老孟司やドーキンスによれば、「意識がある」とは「自乗化されたシミュレーション能力を持つということ」、すなわち「脳が自分の機能をモニターしている」「脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自体のモデルを含めねばならなくなる」ような状態になることを意味する。こうした能力の発達は、社会関係に敏感であればあるほど進む。

 

 エクルスの研究によって明らかになったのは、大脳生理学的に見て自己意識の座が左脳にあるということ、すなわち自己意識が言語能力を媒介とする対他関係にその起原をもつ、という議論であった。いっぽう自乗化されたシミュレーションという観点からわかることは、自己意識がより直接的に対他関係を根拠としている、ということである。「<自己意識>という現象にとって一見逆説的に、<他者>ことがその起原と存立の機制の根拠をなすことは確実であるように思われる。他者だけが自己を形成することができる」。

 

 こうした「自己意識が他者関係から反照的に構成されること」については、クーリー、ミード、ピアジェ、ワロン、メルロ・ポンティ、ラカン、サルトル、ボーヴォワール、エリクソン、レイン、木村敏、フーコーらの議論が引照可能である。しかしこれらの議論は、「人間という現象が確立してのちの、<自我>とその諸形態とのより微視的な形成と存立の機制」の問題である。

 

06 <かけがえのない個>という感覚

 

 こうした他者による自己の形成という機制が、<かけがえのない個>という感覚を生むこと、第5章で扱った個体評価の基準の多次元化をも引き起こしていくような「個体識別」能力の発生の契機となっているのは、ローレンツによれば「攻撃性の抑制」である。すなわち「もともと攻撃性の強い動物が、子を育てること等々の上で他の個体と協力する必要が生じた時に、その特定の個体のみを識別して攻撃性を抑制することの必要性から、個体を個体として識別することの能力は発生する」ということになる。これに対して真木氏は、「協力の必要」があれば「攻撃性」という要因の介在なしにも個体識別→かけがえのない個の感覚が生じるという理論は説得力をもつのではないかと述べている。

 

 こうして、「このような勝義の個体識別(攻撃性要因の介在を必ずしも絶対条件としない:芝崎注)が脊椎動物の、それもいくつかの散在する種社会にのみ見られる関係であることは確実」であり、「そしてこのような個体の固有性への相互関心と識別能力が、折り返して自己自身のアイデンティティの固有性という感覚の前提となると考えていい」はずである。そして「<自己意識>は一般に、他の個体との社会的な関係において反照的に形成されるが、その文脈となる社会関係が、このように『個体識別的』である時にはじめて、それはわれわれにみるような、かけがえのないものとしての<自我>の感覚を形成するものとなる」と結論付けている。

 

【コメント】

 

 第4章で「個体性」、第5章で「主体性」、第6章で「自己意識」、という風に、起原を徐々にたどっていくことになります。第3章で個体の自明性をつきくずし、第4章で個体が派生的な共生体として本源的には生まれてきた、という立場に立ったわけですが、以下では、そうした、そもそも派生的、二次的な共生体であるものがどのように自立化していくのか、を問うていくわけです。それが「派生的なものの自立化」という局面です。

 

 ただしこの局面は、遺伝子の利己を完全に克服することによって、全く遺伝レベルのテレオノミーに左右されない形で、登場するわけではない、というところが一つのポイントになるでしょう。

 

 第5章ではその後、<盲目の戦略主体>としての主体性の形成をローレンツから仮設し、エージェント的主体性からテレオノミー的な主体性へ、という変化によってそのプロセスをおさえようと試み、さらにいったんこれが確立すると、自己目的化だけでなく脱自己目的化が生じうる、ということになっています。

 

 第5章はけっこう、綱渡り的なロジックになっている気はします。たとえば<盲目の戦略主体>論は、種の論理・種の力が種の意識以前に存在したこと、遺伝子の論理・遺伝子の力が血縁の意識や子孫を残そうという意識以前に存在したこと同様に、個体の論理・個体の力が個の意識以前に存在したこと、を想定してみる、という話ですが、この三者の関係はどこまで「同様に」考えられるのかな、とも思ったりします。話としては何等かの現象は何等かの名付け以前に存在している、というか、そういうこととしては理解できるのですが。。。

 

 エージェント的主体性からテレオノミー的主体へ、というのは、たとえば動かない主体と動く主体、というタイポロジー、さらに動く主体内部における主体性のタイポロジー、においても適用できそうな考え方です。

 

 第5章の後半や第6章の議論は、結構常識的な線に落ち着いているような印象です。ここの部分が、大森荘蔵の<繰り返し語られ、修正を受けながら固められている実在性>という議論ともかみ合ってくるんでしょうけれど、よりはっきりするのは第6章のほうかもしれません。

 

 第6章はさらにストレートに、学説の組み合わせによって、議論を進める、というスタイルになっているように思います。他者による自己形成、といった下りです。その点、たくさんの関連研究が読まれるようになった現在からすると、ちょっと食い足りない部分かもしれません。自乗化されたシミュレーション、に自己意識の生成メカニズムを見る、というのは、大森荘蔵的な自我形成とかなり重なっています。

 

 ちなみに、モニタリングすることによって、つまりフィードバックのループによって進化が生じる、というのは吉川弘之・内藤耕『産業科学技術の哲学』東京大学出版会、2005年、でも紹介されていました。そこでは進化論、情報科学、そして学術全般も同じようなメカニズムをつくっていくとよいのでは、といったヒントのようなコラムです。

 

 <かけがえのない個>というのは、ちょこっとだけ人間社会における自我の比較社会学に踏み込んでいるところのように思います。また、ここでローレンツをまたもや出してきて、攻撃性なしにも協力の必要があれば個体識別の感覚は発達しうる、という議論を行っているあたり、真木氏の価値判断がかいま見られます。

 

 こうして<盲目の戦略主体>の存在をいちおう解明したわけですが、このあたりまでくると、この著作の目的が自我の起原そのものの解明に必ずしもあるわけではない、ということはだいぶはっきりわかるように思います。むしろ、自我の起原をめぐる諸説を理解していく上で明らかになる、個体の本源的派生性、本源的共生性とでもいったものの真木氏なりの発見、の方に重みがあるようなところがあります。また、非意図的・非意識的な<盲目の戦略主体>と意図的・意識的な自己意識の関係、というものは、一端確立されれば消えるものではなく、むしろ毎日の日常の中で常にそれが絶えず繰り返されていく、ということと考えても良さそうです。そうなると、再び大森理論への接続というところに話が行きそうです。

 

 ところで、それとのかかわりで、共生系・派生系としての個体、というものの見方にたった場合に、大森の自我・他我論はどう論じ直せるか、ということも考えることはできるでしょう。たとえば、もし真木氏的な人間観、個体観を持っている人間の世界理解・自我&他我理解、というものは、そうでないものとはだいぶん変わるのかも知れません。それはドン・ファンやドン・ヘナロ、そして宮沢賢治本人や彼の作品の登場人物などのものの見方、ということになります。

 

 さらに言えば、吉川さんが言うような、物の見方の変化、新たな感受性を必要とする今後の学問、ということを考える場合に、今までとは異なる世界観・個体観から世界を記述し理解していこうとすることも必要なわけですが、真木&大森はその点どこまで有効なのか、また届きうるものなのか、も興味のあるところです。

 

 ではそんなところで。

 

(芝崎厚士)

 

 

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