研究ノオト70 真木悠介 自我の起原 第3章 第4章

2005/08/26第1稿

 

【テキスト】

 

真木悠介「3 生成子の旅−<個の起原>の問い」「4 共生系としての個体−個体性の起原」『自我の起原』岩波書店、1993年、41−75ページ。

 

【目次】

 

3 生成子の旅−<個の起原>の問い

 

01 漂白民と定住民

02 生成子と遺伝子

03 草原という個体

 

4 共生系としての個体−個体性の起原

 

01 生命史の4つの段階

02 一次共生:真核細胞

03 2次共生:多細胞体

04 死の起原/性の起原

05 多重共生としての「個体」

 

【内容】

 

3 生成子の旅−<個の起原>の問い

 

01 漂白民と定住民

 

 「3」では、「無数の力のせめぎ合う場のシステム」としての個体性の考察に関する基礎作業が行われる。

 

 まず真木氏は、遺伝子のありように対する視座の転換をわれわれに迫っている。具体的には、遺伝子の中に存在する、「その遺伝子があってもなくても、あるいはその遺伝子に突然変異が起きても、個体の身体には何の変化もないような遺伝子」としてのいわゆる「無意味な遺伝子」・「無益な遺伝子」や、「細胞や個体や群れの中で自分だけ有利に増殖する」という意味での勝義の「利己的な遺伝子」の存在について言及がなされる。

 

 注目すべきなのは、われわれの身体を構成している遺伝子の約90%が、こうした遺伝子であるということである。つまり、「<種のため>でもなく<個のため>でもなく、それ自体の自己増殖する原的な力として存在する」遺伝子の方がむしろ一般的なものであるということを意味する。

 

 また、ウィルスとは「他の生物個体の細胞という遺伝子コロニーから離脱した遺伝子たちという可能性が大きい」。つまりその意味でウィルスとは「『個体』という共同体の内に定住することをやめた自由の民たち」だということもできる。「漂白民の定住化」と「定住民の漂白化」は個体内では日常的に起こる現象なのである。

 

02 生成子と遺伝子

 

 こうしたことから、多細胞「個体」という生命の形と、その「個体」という集住体の内外を漂白し越境し仮住する遺伝子という生命の形とは、どちらが優勢でもない等価のものであると真木氏は論じる。すなわち、個体のために「遺伝子」というものが存在するわけでなく、「個体」という複合体こそが遺伝子のために存在する、すなわち比喩的にいえば個体は列車であり、遺伝子は乗客であって、列車のために乗客があるのではなく、乗客のために列車がある、という言い方が可能である。こうして個体中心主義的な視座は反転を余儀なくされる。

 

 こう考えてみると、「遺伝子」という訳語自体が個体中心主義的なドグマによって生まれたものだと言うことがわかる。より正確には、「生成するもの(gene)」は「生成子」とでも訳すべき(あるいは中国語の「起因子」)ものなのである。生成子たちの中にはウィルスのように漂白し続けるものもいるが、多細胞「個体」の中に集住し、定住民となるものもいる。そしてその定住民の中の一部が(本来の意味での)「遺伝子」として機能する。すなわち生成子は、生成子を再生産するメディアとして「個体」を生成するのである。

 

03 草原という個体

 

 さらに、アリやミツバチやアブラムシの「社会」を一個の個体とみる着想が必ずしも過ちではないこと、「国家クラゲ」と呼ばれるカツオノエボシは「個体であると同時に群体である」としかいいようがないということ、をはじめとする「個体」の自明性が突き崩されてしまうようなさまざまな例が紹介されている。

 

4 共生系としての個体−個体性の起原

 

01 生命史の4つの段階

 

 「4」では、「3」で見たように生成子という視座から見ると決して自明ではない個体性が、どのような形で確立していったかを考察している。

 

 まず、ラムズデンとウイルソンの仕事を基に検討すべき点を明確にしている。生成子から多細胞「個体」が生成される過程は、大別すると(1)生成子からの細胞システムの創発、(2)細胞からの多細胞「個体」システムの創発の二段階に分ける事ができる。そして、個体中心主義的な観点からすると(2)の創発が決定的であるように見えるが、実は生命界内の断層という観点からすれば、(1)の創発の方が決定的な飛躍であり、そのことは進化のスピードからみても明らかであるということを指摘している。

 

02 一次共生:真核細胞

 

 次に、マーグリスの仕事を下敷きに、その決定的な創発である真核細胞の形成過程を追っている。マーグリスによれば、真核細胞は幾種類かの原核細胞の共生体である。この共生は、20億年程前に地球を覆った藍藻の大繁殖に伴い、酸素が大量に放出されることで地球上の酸素濃度が0.0001%から21%に急上昇したという「大気汚染」の中で生き残るために先住微生物が「呼吸」微生物を取り込んでいくことによって起こった。すなわち、「今日のわれわれを形成している真核細胞は、それ以前に繁栄の極に達した生命の形態による地球環境『汚染』の危機をのりこえるための、まったく異質の生命たちの共生のエコシステム」なのである。

 

03 2次共生:多細胞体

 

 次に、「二次共生」としての多細胞体の形成過程が検討される。クローン細胞間での多細胞形成は、第1章で紹介されたbr>c(br1>cr2)という式がたんにb>c(r1=r2となるため)となることからもわかるように、真核細胞の形成よりもはるかに容易に進行する。すなわち、「クローン細胞群が近接して存在する限り、もしも環境条件がそれを有利とするなら、また生成子の『変異』がその機会を与えさえすれば、いつでもそれらは相互に集合し、われわれの白血球や肝細胞の果敢な自己犠牲にみられる如き、全き『利他性』を相互に発揮し、全体としてより『適応』した組織や器官として自らを特化しシステム化するような『個体』を形成し進化せしめることが出来るということを意味する」のである。こうして、二次共生としての多細胞「個体」もまた、一次共生としての真核細胞と同様に、「困難な環境条件ののりこえの試みとして最初には創発された可能性が高い」。

 

 ここで真木氏は、以下のような図を用いて共生態のありかたをまとめている。

 

        分散共生態(D) 連接共生態(L) 結合共生態(U)

異種共生系列(A)      エコ・システム  地衣等  真核細胞

同種共生系列(H)      「社会」        群体    多細胞「個体」

 

 ADのエコ・システムとは、昆虫と顕花植物の共進化や、人類と飼育動物/栽培植物との共生、そして、地球全体の生物系もまた、この異種・分散共生態であるということができる。

 

04 死の起原/性の起原

 

 次に、このようにして創発された多細胞「個体」の特質を考察している。それは、第一に多細胞「個体」とは死すべき存在であるということであり、第二に多細胞「個体」は性を持つ存在であるということである。「性とは二つ以上の源からの遺伝子が組み変わること」であり、多細胞「個体」は一そろえの生殖子だけを次世代に伝えて自らは死んでゆくが、同じ遺伝子型の個体が残ることはない。「われわれ自身の『自己』のアイデンティティは、生成子の交換を生殖のときだけに限定することをとおして成立する。つまり生成子の永生にとって必要な環境更新を、『わたし』の生きるかぎりの時間の境界の外に排除することをとおして存立している」のである。

 

05 多重共生としての「個体」

 

 以上のように、多細胞「個体」であるわれわれはいわば「多重共生」の一位相をなしているのである。すなわち多細胞「個体」は原核細胞の共生態である真核細胞の共生として存在し、さらに同種の他個体と社会において共生し、異種の他生物と地球上で共生している。つまり、「(真核細胞という)この新しい同種結合共生態は増殖してよく分化されたクローン共生態としての身体を形成し、この身体は他の身体と分散共生態としての『社会』を形成し、異種分散共生態としての生命圏ecological systemを形成している」。

 

 こうした観点からすれば、「この数千年来、とりわけ最近の数百年の間、われわれの『自我』の絶対性という傲慢な不幸な美しい幻想を自分じしんの上に折り返して増殖させることとなるこの身体的個という位相は、われわれの実体であるこの重層し連環する共生系の一つの中間的な有期の集住相」である、ということになる。

 

【コメント】

 

3と4は、『自我の起原』の議論の基礎作業の部分であると同時に、ここから先展開したものの見方の基礎をなす部分、ということもできると思います。

 

 「3」では第1に、ルーパとリーラ論になじむ存在論的転回が、そして第2に、その文脈の中で、遺伝子を、生成子と遺伝子に分けて考える考え方が進められます。「漂白民の定住化」と「定住民の漂白化」が常に同時進行している、という考え方は、たとえば「動く主体による国際関係」と「動かない主体による国際関係」という発想、Mobile Sociologyのようなアイデア、モナドとノマド、みたいな現代思想的なお話、とも重なってくる視点です。個体の自明性、他の存在形態に対する優位性、のようなものが、人間中心主義・個体中心主義・主体中心主義的な視座から離れる(それが幾分かは近代の効果なのでしょうが)ことによって、崩れていく、というお話になります。

 

 ワトソンの『DNA』(講談社ブルーバックス版、2005年)という本を読むと、ヒトの遺伝子の場合、いわゆる生成子と呼んで良さそうなものは90%以上(本によっては95%、98%など)を占めていて、しかも数%(1.5%ほど、という本もあり)に過ぎない勝義の遺伝子として働くDNA配列の間にもイントロンと呼ばれる、タンパク質を作る情報を持たない部分が入り込んでいる、ということです。真木氏の記述にはイントロンは出てきません。

 

 「4」ではマーギュリスのSET(Serial Endosymbiosis Theory)仮説を基礎にして、(1)真核細胞が原核細胞の共生体であり、(2)多細胞体が真核細胞の共生体であり、さらに社会やエコシステム、そして地球全体もまた、それらの共生の様式が折り重なって形成されている共生態である、という主張がなされます。これに「3」での、生成子レベルでの共生、ないしは漂白と定住を繰り返す生態の様式を加えると、この世界のすべてが、複雑に折り重なった重層的な共生の系をなしている、ということになります。

 

 ちなみに、マーギュリスはたくさん訳書が出ていますが、中村桂子訳『共生生命体の30億年』(草思社、2000年)が、彼女の半生もわかる、という点でも、また基本的な主張を簡潔に理解できる、という点でもおすすめです。なお、ガイア仮説について真木氏も述べていますが、マーギュリスもこの本の中でガイア論とのかかわりを説明しています。なんとなく眉唾ものという感じのガイア仮説ですが、ここでの扱いを読むと、科学的な仮説として考える場合にも、真木氏の仮説との距離もそれほど遠い物ではなさそうです。

 

 なお、すべては共生系である、という主張についてですが、これは生物学レベルでの共生というのと、社会科学ないし人間中心主義的な科学における共生というのとでは、、若干意味が違うところがあるように思います。社会科学的な共生というのは、平和、それも絶対的平和や積極的平和のような状態と関連づけられやすい概念ですが、生物学レベルでの共生というのは、食物連鎖などを考えればわかる通り、必ずしもそういった価値規範を含んでいるとは言えないような気がします。そこのところは、学問の分野を超えた議論をする上ではやっかいな問題だと思います。

 

 「4」の最後では死や性の問題とのかかわりで、多細胞個体の有期性が語られますが、こうした多重の共生系というものが完全に消滅するべき運命にある、ということも、社会科学的な共生論からは出にくいところかもしれません。どちらの側に引きつけるか、どちらのどの部分を取り、どの部分をとらないか、簡単には結論できないところです。むろん、ここでは人間レベル、社会レベルの考察はしていない、という前提を真木氏はとっているので、最後の多重共生としての個体、という考え方自体は誤りであるとは言えないと思います。

 

 次に、文化、というのを「生活様式」としてであるよりも「生きるための工夫」ととらえるのなら、社会を形成する、という文化、国際関係を形成する、という文化もまた、共生のための知恵である、といった議論が国際文化論においてありますが、こうした議論と、生物学レベルでの議論がどうかかわるか、ということもまた、大きな問題であると思います。

 

 また、大森荘蔵の<語り存在>論ないしは真木氏の<トナール>論で考えてみると、こうした個体観というのは、基本的には知覚することのできない、考えたり、思ったりすることによってしか経験できないことであり、またそうであるが故に繰り返し語られ、思われ、考えられることによってその実在性が獲得されていく、ということになりそうです。とすると、「共生」の生物学的、社会科学的意味合いの相違を峻別したり場合によっては統合したりしようとする、というような学問的な議論のゆくえも、そうした<語り存在>的な意味の生成との関連で決まってくるのかもしれない、という想像にも誘われます。以上まとまりがないですが、この辺で。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

Home 演習室へ戻る