研究ノオト69 大森荘蔵『時間と自我』その3 「自我と時間の双生」

2005/08/16 初稿

 

【テキスト】

 

大森荘蔵「自我と時間の双生」『時間と自我』青土社、1992年、137−158ページ。

 

【目次】

 

01 自我と時間の双生の場所

02 「私」概念の形成

03 時間的前後の判別と主観・客観

04 線形時間の大失態

05 今最中から過去以後の今現在

06 運動知覚と記憶

07 いわゆる「時の流れ」

 

【内容】

 

01 自我と時間の双生の場所

 

 自我と時間は同時に生まれる。即ち、「今現在」において自我は生まれるのである。三次元立体の事物を見る、という動作を考えてみる。この場合、見えているのはその事物の正面であるが、同時にそれは立体としての事物でもあり、この解決に哲学者達は頭を悩ませてきた。しかし日常生活において今現在、自我が生じるのは、平面的側面の方における「私に今現在見えている側面」という事態においてである。ここに、自我概念の「私」と時間概念の「今現在」が生じる。

 

02 「私」概念の形成

 

 では自我概念の「私」はどこから生まれるか。捉えやすい近似として考察の出発点とするのは、動作主体としての私、である。「私が・・・する」という状況における私とは、動作主体の経験としての自由な動作であり、そこから引きはがすことはできない。

 

 一方考える、悲しむ、などにおける心理動作は一見曖昧であるが、身体動作と心理動作が一体となっている経験を考えればわかるように、心理動作における「私」は「認識主観」と呼びうるものであり、身体動作の「私」と同じである。こうして「私」とは、第1に無数の動作経験があり、第2にその経験が同一・共通の「私」の経験であるという了解があり、第3にその了解に基づき「私」の経験として関連づけられている、という風にして成り立っている。したがって、「私」という「もの」が存在するわけではないのである。このことは非人称主語のitを想起すればわかるであろう。

 

 ここで二重視の問題に話を戻そう。二重視ももう一方の「私に今見えている側面」というのは動作主体としての私、と同じではある。ただしここでの主語としての「私」は動作主体としての私という意味に加えて、主観として客観的世界に対立するものとしての意味合いが生じる。こうして、二重視の状況においては一方では認識主観としての自我が、他方では客観に対する主観としての自我、という概念が登場することになる。

 

03 時間的前後の判別と主観・客観

 

 時間順序の判定は、線型時間tにおいては存在していることがわかるが、これは原生時間においてはどうであろうか。知覚風景の想起、ということから考え合わせてみると、時間の前後関係はその中に存在しているので、原生時間においても存在することがわかる。

 

04 線形時間の大失態

 

 線型時間tは、時刻の前後関係を表明することができる。しかし一方で、過去・現在・未来という時間の質を表現することができない。にもかかわらず線型時間によって時間の正確が全て説明されるかのように思いがちである(が、それは誤りであり、また線型時間が表現していることの中には日常の現実には存在しないものもある(点時刻など))。以下でその誤りを解くことにしよう。

 

05 今最中から過去以後の今現在

 

 まず、「今」ということを考える。点時刻として今を考える、ということは、持続ゼロの時刻点として今を考える、ということに他ならない。しかし持続のない存在はあり得ない。したがって線型時間における点としての今というのは、日常を表現していないものであり、今現在とは単なる時刻名であると考えることは誤りである。

 

 では、時刻名に先立つ「今現在」の意味とは何か。それには2つの意味がある。第1の意味は「瞬間」で、第2の意味は「今最中」である。第1の意味は、「私に今見えている側面」という時の今、つまり「持続的な事物に対する瞬間的な見え」があるところである。その「種運観」において、「私」という自我概念が生まれる。この「瞬間」は過去に対する今現在という意味はない。

 

 もう一つの「今最中」の意味とは、「自分の行為・状況の確認」という意味である。その意味合いにおける今と過去の関係は、知覚関係としての現在と想起経験としての過去、ということで説明がつく。時間順序という点では、想起経験には「時間的手前」としての隔たりがあり、現在と過去の間の時間順序が存在することがわかる。

 

06 運動知覚と記憶

 

 このことを、運動知覚とメロディを例にとって考えてみよう。メロディを聴いたときにそれを想い出す、というのは、メロディの全てが記憶されてそれが脳の中に残留保持されたものが再生される、という図式を思い描きがちであるが、実際にはそうではなく、単に想起しているだけである。メロディを聴く、というのは知覚経験であり、それを想い出す、というのは想起経験であって、質の異なる経験なのである。

 

 同様のことは運動知覚においても言える。

 

07 いわゆる「時の流れ」

 

 時間を、「流れる」ものとしてとらえるのは古今東西においてよくみられる発想であるが、時は流れないし、そもそも時や時間というものはどこにもないものである。ヘラクレイトスが想起するパンタレイのような「世界の様子」では「流れ」のような動きにはならないし、現在が過去に変わっていくというような一方向の動き、というのも現在と過去の違いからみて錯覚でしかない。時間の流れ、をつい考えるというのは、線型時間tの発想に基づいた「長大な空想」に過ぎない。

 

【コメント】

 

 ここは時間論的には復習という感じで、基本的にはこれまでの議論のまとめ、という印象です。ただ、時間論と自我論がどう結びつくか、という意味ではいいとっかかりになります。

 

 第1に、「今現在」と「私」は同時に生成されるということ。第2に、「私」を考える場合に、動作主体(単独身体動作、身体・心理複合動作、単独心理動作)としての私があり、そこから認識主観としての私、さらに客観に対する主観としての私(成熟した認識主観としての自我)、があるということ。

 

 論文の後半部分は自我論というよりは時間論の続き、発展であり、自我が時間のなかにどう置かれるか、が説明されるわけですが、自我論としての踏み込みはそれほどでもない気はします。

 

 さて、大森荘蔵より少し前に夢中になって読んでいたのが、ユクスキュル、クリサート、日高敏隆、羽田節子訳『生物から見た世界』(岩波新書、2005年)です。19333年に出版されたこの短い本は、人間を含めた生物の知覚というものを、環世界論に基いて明らかにしたものです。これを、大森荘蔵と真木悠介の議論をつなぐような形で生かせないかな、と思っています。少なくとも真木悠介の議論における<ナワール>・<トナール>論は、異なるヒトレベルでも当てはまると同時に、異なる生物レベルでも当てはまる、ということは言えそうです。また、環世界論のメカニズムは、大森における時間論ともかかわります。たとえば「一瞬」というのが生物によって大きく違うこと、それによって生物が経験している世界の見え方が、目の構造や精緻さの違いによってと同様に、大きく異なるということ、など。

 

 また、大森における「今現在」における自我生成というのは、真木悠介の後半における自己意識の発生論と、かなりの程度平仄の合う議論です。そこからいろいろなことが考えられると思います。第1に、大森におけるヒトの自我生成というのは、真木悠介における自我の比較社会学の歴史性とどういう関連があるか。たとえば近代特有の自己生成であるのか、あるいはより普遍的な自我生成なのか。第2に、自我というものが絶えざるフィードバックのループによって生成されるものである、ということは真木悠介の立場と同じタイプの解釈、ひいてはループによる生成または進化という進化論のテーゼと同じ構造を持っている、ということ。第3に、真木悠介が想定するような遺伝子的愛・個のエゴイズム・脱遺伝子的な愛、というような自我の機制を大森的な構図からどう把握することができるか、ということなどです。これらについては一通りまとめていくなかで、少しずつ考えたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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