研究ノオト69 大森荘蔵『時間と自我』その2 「言語的制作としての過去と夢」

2005/08/04 初稿

 

【テキスト】

 

大森荘蔵「言語的制作としての過去と夢」『時間と自我』青土社、1992年、93−122ページ。

 

 

【目次】

 

01 線形時間の乗っ取り

02 原生時間より線形時間へ

 A 未来と現在

 B 過去性の意味

03 夢の想起 

04 過去の真偽

05 過去は言語的制作

06 過去の自然選択

07 時の流れの錯誤

 

【内容】

 

01 線形時間の乗っ取り

 

 時間については(1)ゼノンの飛ぶ矢のパラドックス(2)アキレスと亀(3)今現在の把捉(4)時間の向きと逆転可能性(5)時間様相の移行と時間の関係(6)現在の以前以後に基づく過去と未来の定義の妥当性、などといった不可解さがある。これらを検討するために、原生時間から線形時間が構築されてきた、ということを逆手にとって、原初的な時間了解である原生時間から、線形時間を再構成していくという作業を試みる。

 

02 原生時間より線形時間へ

 

 線形時間の線形性は、以前以後という時間順序によって生み出される。原生時間におけるその原型は、刹那的・断片的である知覚経験ではなく、出来事の一連を経験できる想起経験に求められる。

 

 A 未来と現在

 

 過去における時間順序の構造は、未来に対しても適用可能である。したがって、線形時間の過去・未来の時間順序の原型は原生時間において発見できた。いっぽう、「今現在」における時間順序はどうか。これも、フッサールのノエマとノエシス概念などを援用しつつ考えてみると、現在がすべての過去より以後であり、すべての未来より以前である、という位置にあることがわかる。

 以上のことから、原生時間から線形時間の骨格が構築される。すなわち「過去想起の中に与えられている以前—以後の時間順序の概念を未来と現在に外挿的に適用して一次元順序系列として作り上げた」もの、時間の「過去化」によって生み出されたものである。

 しかし線形時間は、ゼノンの飛ぶ矢のパラドックスのような謎を生む。つまり持続を持たない一直線上の点時刻、の不可能性である。しかしこのことは、原生時間にもともと存在したものなのではなく、線形時間特有の「人工的産物」なのである。その意味で飛ぶ矢のパラドックスは無意味なのである。さらに線形時間は、「今現在」を単に時間の前後関係においてのみ定義してしまうので、過去や未来の質的な意味をそれ以上問う契機を人から奪ってしまう。こうした状況を脱して過去や未来を考えるには、原生時間から立ち戻ってゆくほかない。

 

 B 過去性の意味

 

 過去とは何か。過去が過去であるということ、過去の過去性は何によって了解されるか。それは、過去が想起経験であり、現在の知覚経験ではないということに求められる。過去の意味とは、それは一般概念が個別概念とのかかわりにおいて持つ意味と共通している。過去は知覚の再生・再現、再経験ではなく、一般概念と同様、言語的に了解されるものである。すなわち知覚が個物了解であるのに対して、想起はイデア的了解なのである。

 もちろん、想起としての過去、という中には、時間順序として現在より以前、という了解を含んでいる。それだけを取り出し、過去の意味それ自体を無視してしまったのが、線形時間なのである。

 

03 夢の想起 

 

 想起経験の例として夢がある。夢は、「みる」ものではなく、想起するものである。記憶、という考え方を媒介して、過去の知覚経験が再生される、という風に考えることは想起経験に対する誤解である。想起経験は過去という外部にある実在を想定させがちであるが、想起に内在する過去をそうした超越的な過去実在にすりかえることは誤りである。にもかかわらず夢の場合にもこうしたすりかえが起きてしまう。

 また、「夢は睡眠中の経験である」という思い込みも誤りである。こうした思いこみは、過去の自我に対する連結性を要請することから生じている。夜夢を見る、ということは虚構なのである。夢とはみるものではなく、言語的想起として思い、考えることのできるものなのである。したがって実在性も超越性も不要なのである。

 しかしここに問題点が生じる。それは、過去をいかにして確定するか、真なる想起、は存在するか、存在するならどのような判定基準によるか、ということである。

 

04 過去の真偽

 

 過去と記憶に関する常識の2つの誤りは、(1)超越化の誤り(2)記憶像の誤りである。これらは相互に強化しあっている。またこの誤りは知覚における(1)超越化の誤り(2)表象の誤り、と対応するものであり、まとめて、素朴実在論の双子の誤り(より中立的には双子の要請)と呼ぶことが出来る。

 これらの誤りを避けて、想起経験における真なる想起の選出方法を考えるには、日常生活のあらゆるところで生起している過去確定から出発するしかない。

 

05 過去は言語的制作

 

 幼い子供は日常生活の中で言語的訓練を受け、過去形の正しい使い方を習得する。その際には過去を映像的浮遊であるととらえるような誤解に陥ることもあるが、過去記述は言語的なものである。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論はいわば過去想起から一切の映像を断絶する試みである、と言える。

 過去とは映像表現不可能な物であり、過去の意味は過去についての会話によってのみ学習される。それはいわばカントにおける超越論的観念論の態度になぞらえることができる。過去が実在しない、というのではなく、それは想起命題の言語的意味の中で実在する、ということである。

 以上のことから、言語的制作(ポイエーシス)として過去(夢、未来)をとらえることができる。それは非知覚的・非感覚的な意味におけるポイエーシスであり、イデア的了解ということの意味である。その意味において想起は無根拠性を持ち、不条理である。しかしだからといって想起は無規律なものでもなければ、恣意的なものでもない。

 

06 過去の自然選択

 

 真なる過去、は自然選択のプロセスと似ている。不自然な過去、現在との接続とのかかわりにおいて不自然なもの、は排除される。法廷における事実判定のように、複雑で総合的な判断が必要になろう。その判定は、科学理論の評価と同じようなプロセスを経る。

 想起そのものは無根拠であり理由もないものである。しかし社会的にどれが受容されるかという過程に置いては、真偽が判定され、受容されるものもあれば拒否されるものものある。「過去とは社会的に合作された言語的制作物」であり、ある想起命題の受容可能性は、それが社会的に公認された過去に付加されるかどうかによって決まる。その意味において夢とは真なる過去として社会的には受容不可能な想起命題なのである。

 

07 時の流れの錯誤

 

 以上のことから、時間世界の基本構図は、言語的制作としての未来と過去の間に、知覚経験としての現在が存在する、ということになる。このことから言えるのは、「時間が流れる」ということがありえない、ということである。なぜなら、質の違う経験である個別知覚がイデア了解である過去には成り得ないからである。

 

【コメント】

 

 過去とは想起である、ということの先にある議論が何なのか、この先はどんなパースペクティブが開けているのか、ということにとても興味があったのですが、この論文の後半あたりから展開される議論でまさに目を見開かされた気がしています。

 第1に、過去の真偽判定の問題。想起そのものが無謬性を持っている以上、それ自体における真偽を云々することはできない。しかしそれ故に、社会的な受容というものが存在する。このことは、歴史科学に携わる人間にとって、歴史とは何か、歴史記述とは何か、社会科学における事実の客観性とは何か、を考えていく時に必ず出てくることなのですが、ポイエーシスとしてとらえる視点によって、より明快な見取り図を与えてくれています。科学理論との類比、は科学理論そのものが一般概念に依拠したイデア的了解である以上当然当てはまるわけです。

 ここからは、では社会において受容されること自体の歴史性の問題、なぜ、ある特定の時代の特定の場所において、どのような過去が公認されるのか、されないのか、ということを考察する方向性を見いだすこともできるように思います。このことは真木悠介の自我の比較社会学とも密接に絡みますし、フーコーにおける真理を定める体制、ということともかかわるでしょう。また、なぜ線形時間が跋扈するようになったか、ということなどは、『時間の比較社会学』でのモチーフと密接にからむということになりそうです。

 第2に、社会的な受容における「自然選択」との類比。これは吉川弘之・内藤耕『「産業科学技術」の哲学』でも検討されているように、物質と情報の循環ループの存在が生物の進化を生んだことをもとに、循環ループの存在が言語や科学技術などの進化や発展を生む、というロジックを想い出させます。またこの手の議論との関わりでは、ポストモダニックな客観的真実批判、社会構成主義や構築主義のようなアプローチ、をいちいち持ち出さなくても、それと同じ、あるいはそれ以上に深い意味で、歴史というものが持っている根源的な性格をつかむことができると思われます。科学理論もそうですが、歴史研究における新しい発見や知見が登場した場合に、それをどう評価するか、ということを考えていく上でも有効でしょう。

 ただ、歴史研究もひたすら文書を探して読んで整理するだけ、あるいはひたすら細分化するだけ、という傾向もなきにしもあらずで、そうして蓄積され、発見された知見がこれまでの歴史記述に対してどのような意味を持ちうるのか、またその知見から得られることに基づくと歴史に対するものの見方がどうかわり得るのか、ということをまともに考察しようとする人が少ないように思います。個人的には、それを偉い先生に任せるのではなく、そこまで踏み込んで自己の議論としていかないことには、学術研究としては方手落ちというか、単なる「調べ物」のレポート、目録と解題にすぎないようにも思ったりするのですが。。。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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