研究ノオト69 大森荘蔵『時間と自我』その1 「過去の制作」

2005/08/04 初稿

 

【テキスト】

 

大森荘蔵「過去の制作」『時間と自我』青土社、1992年、27−56ページ。

 

さて今年の夏の宿題として、大森荘蔵の時間三部作の第1作に着手することにしました。といってもノオトは全体の分量の半分くらいで、5つの論文をセレクトします。

 

【目次】

 

01 生活の中の時間

02 今現在

03 過去

04 過去と言語

 

【内容】

 

01 生活の中の時間

 

 いわゆる線時間t、直線上に点をおきその左右を過去・未来、その点を現在とみなす時間に対する考え方がある。しかしこの図式が教えるのは、単なる経験の間の順序に過ぎず、過去、現在、未来といった経験それ自体の質については何も語らない。時間順序は経験の質ではない。

 今現在とは物理時間tにおける持続ゼロの点時刻ではない。今現在の意味は、日常生活の中から探求していかなければならない。同様に過去とは物理時間上の左右方向ではない。日常生活からたどれば、過去とは早期に他ならない。過去を語ることは不条理ではないか、というパラドックスに着目すると、過去の意味は明白になる。すなわち、「火が燃える」という今現在の経験は知覚体験、「火が燃えた」という過去の経験は想記体験なのである。

 

02 今現在

 

 「今」とは何か。すでに見てきたように物理学にはその答えがない。日常生活をたどってみると、今とは、「今・・・中(今最中)」という意味であり、なんらかの知覚中・行動中である、という意味である。それは「生きているさなかにふと立ち止まってその性を確認する言葉」なのであり、「今現在」は「今最中」から派生した言葉である。

 その「今」には、たとえば(1)常住の今(2)今の流れ(3)ふわふわの今、といった意味がある。今の流れ(時の流れ)というのは妄想ではないか、ふわふわの今とは明確な点時刻によって限ることのできないものではないか、というのが大森の見解である。

 点時刻と今最中の問題に戻ると、今最中にも「一しきり」という程度の持続がある。いっぽう物理時間tは瞬間的状態であり、持続ゼロの点時刻である、ということになる。しかし日常経験において点時刻は経験不可能なものである。持続ゼロの瞬間的激痛は経験できない。そこから考えると、ゼノンの矢やアキレスと亀といったパラドックスが日常経験の中では無意味であることがわかるであろう。

 では点時刻とは何か。それは、「考えられ、思考された時間」であり、日常経験でもなければ日常経験を精密化・抽象化したものではない。しかし物理時間と日常経験する今現在、過去には、リニアな順序があるという共通点がある。人は両者を重ね描きしているのである。そのことから、点時刻と日常時間の取り違えや、時間の空間化や、時が流れる、といった(日常経験に照らせば)誤りである混乱が生じる。物理時間には今現在もなければ過去もない。天文学、地質学、進化論における過去概念は、日常時間から輸入し拡大した概念である。

 

03 過去

 

 過去とは想起である。つまり想起は、「過去」の定義的体験なのである。想起とは、過去経験の再現や再生ではない。想い出す、とは、再知覚する、ということではない。両者は別種の経験の形式に他ならない。すなわち、人間の経験にかかわる2つの様式として、第1に今最中(今現在)の知覚・行動、第2に過去の想起、「『かつて』の知覚・行動の現在経験」である。では、現在以前という順序は、過去に内在するか。これは、「離隔の事実」という視覚における議論を適用すれば、内在することが示される。「現在性」や「過去性」という時間様相が時間順序に先行しているのである。

 想起過去説が成立つと、想起無謬論が成り立つことになる。このことは、夢見の経験から考えていくと首肯できる。まず、「夢を見た」ということは、知覚的に夢を見たのではなく、覚醒時に夢を想い出すこと、に他ならない。なぜそこに誤謬がないかというと、夢の想起には原型が存在しないからであり、想起の真偽を判定することがそもそもできないからであり、したがって誤謬という意味自体が成り立ち得ないからである。覚醒時の体験を考えてみても、想起とは過去形の経験、すなわち過去形の知覚・行動の想起的経験であり、その経験はすべて想起された通りである。なぜなら真偽判定の基準はその想起以外にはあり得ないからである。

 以上のように、想起過去説から、過去形経験のテーゼが導かれ、さらに想起無謬論が帰結される。ただしこの無謬性は、「自分自身の経験である限りにおいて」のものでしかない。想起と何かの食い違いから想起の誤りを指摘することはできないが、想起同士の食い違いはあり得る。要するに想起と独立した過去経験というものがあって、それが想起の正誤を判断する基準となる、という考えは誤りである、ということである。

 

04 過去と言語

 

 想起が知覚・行動の再現ではなく、言語的に制作されるものである。過去形の言葉が作りあげられることが、過去形の経験が制作されること、なのである。

 

【コメント】

 

 すっかりおなじみになった議論、という印象です。基本的な思考方法としては、第1に時間把握における(1)日常(2)科学(物理学)を峻別し、それを原生時間との対比においてとらえる、というパターンになっています。その際に、日常における今現在の知覚・運動経験と、一般概念として考えられ、思うことができる経験(そしてそれは想記経験としての過去とその意味において同じ、と考えて良いのでしょうか)との対比が出てくる、ということになります。

 想起無謬論は、以前の、たとえば『流れとよどみ』における幽霊や見間違いの話がずいぶん発展してきているような印象です。想起そのものに対する真偽は判定不可能。ただしそれは自分自身の経験である限りにおいて、という留保が付き、このことがあとの部分で出てくる、過去のの真偽の判定、という社会における問題へと接続される、という流れになっています。

 想起は言語的に制作される、という場合に、それ以外でも制作されるのではないか、ということはどうしても思ってしまうところだと思います。また言語表現に様々な種類があるように、想起の内部をいろいろと分類できるのでは、という想像にも誘われます。

 最後に一つ、大森荘蔵の議論の射程と真木悠介の<ナワール><トナール>論とのかかわりを考えてみましょう。大森における原生時間の存在する日常も、科学的記述における時間表現も、トナールと言えばトナールに属すると思われます。とするとこの議論は、あるトナールだけが正しくて他のトナール自体が間違っている、という考え方、あるいはあるトナールが他のトナールに還元できる、あるいは絶対的な優劣や正誤を決めることができる、という考え方に対する挑戦、ということになるのかもしれません。翻って真木悠介の狙う方向性というのは、<トナール>に執着しきるのではなく、<ナワール>との交歓の回路を持ちつつ、<統御された愚>としての<トナール>の生を生きる、というようなところにあると思われます。では大森の議論において<ナワール>が一切考慮されていないか、というとそうではないような気がします。この辺から両者の思想というか哲学を接続していけるかな、という気にはなっています。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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