研究ノオト67 科学の新しい方向

05/05/11 第1稿

 

【テキスト】

 

吉川弘之『テクノロジーと教育のゆくえ』岩波書店、2001年、「三 科学の新しい方向」、51−98ページ。

 

【目次】

 

1 知識量の増大と領域の細分化

 01 ディシプリン(領域)が現代の科学を作った

 02 学問領域の細分化

 03 人間の行動とディシプリンの飽和

 04 知識を使うための知識、領域の間をつなぐ知識

 05 知識体系の隙間

2 科学の新しい領域

 01 科学知識の利用のプロセスを解明する

 02 科学の方向に歯止めをかける倫理の未熟

 03 「シナリオ」に基いて研究するという方法

 04 「使い方」と「知識」の分断を救うもの

 05 人文社会科学も変わらなければならない

 

【内容】

 

1 知識量の増大と領域の細分化

 

 01 ディシプリン(領域)が現代の科学を作った

 

 ニュートンは、科学の世界において対象を限定することで、法則を成立させた。その対象とは運動物体であり、他のものは対象から排除した。こうした領域の限定によって、現代の科学が成立した。1つのディシプリンが成立することで、自然を理解するだけでなくあらゆる現象に対して応用することが可能となり、科学が成立し、人間の行動力が三ケタも四ケタも拡大することに貢献した。

 

 02 学問領域の細分化

 

 現代社会の複雑化という要因も含め、また近代学問の本来の性格から、学問の領域細分化が進展する。概算すると、10(学部)x30(学科)x30(教授)x10(テーマ)=約10万種類(ディシプリン)にもなり、将来的にはもう一桁一が増える可能性がある。

 領域細分化が進むと、個々の分野は極めて狭くなり、異なる方法論が採用されるようになる。また他分野との関連、学問的交流が失われ、相互に関係なくなり、対話もできなくなり、憎しみ合うこともあり、学問全体としてコントロールする仕組みがなくなってしまう。

 

 03 人間の行動とディシプリンの飽和

 

 人間の行動に役立つ根拠を提供するものとしての知識という点では、ディシプリンという領域細分化されたままの状態では完全ではない。その意味で、ディシプリンには限界がある。絶対的なディシプリンの限界とは、過剰な細分化が進み、個々の知識が爆発的に増大する一方でそれを行動に結びつけることが難しくなり、これ以上領域の数を増やすと、人間が全体の知識を使って行動することが出来なくなり、部分的知識に基づく行動同士の間で矛盾が生じ、地球全体の秩序が混乱してしまう、ということである。

 

 04 知識を使うための知識、領域の間をつなぐ知識

 

 学問におけるキャパシティには2つの種類がある。(1)ものを理解するためのキャパシティと、(2)ユティライゼーション・キャパシティ。前者は純粋な客観的真理であり、後者は知識を使うための知識である。

 ユーティライゼーション・キャパシティが不足していることの例はさまざまな分野でみられるが、例えば炭素循環もその1つである。地球上の物質について、個々の分析は素粒子レベルまでわかったものの、それらが全体として地球をどう循環しているかは研究されていなかった。そうした問題関心を持っていた人はかなり以前に出てきていても、それを生かすことがごく最近までできなかったのである。

 

 05 知識体系の隙間

 

 領域細分化が知識体系に与えた影響として、第一に、単純に知識が細かくなったということ。第二に、やるべき領域が積み残されて、全体として隙間だらけになったということがあげられる。

 これまでの科学は還元論に基づいた分析を行ってきた。しかし分析的理解は、理解できたかどうかについては明確にすることができても、なにかを「つくる」ということ、そしてそれが良い物か悪い物かを判断するようなことができないため、総合的な考察が不十分なまま、人間の行動がバラバラに展開してしまった。

 

2 科学の新しい領域

 

 01 科学知識の利用のプロセスを解明する

 

 基礎研究の成果としての論文から富(豊かさ・よきもの)を生み出すためのあいだの行為をきちっと定義し、これを進歩させること & 知識がもとになって行動を起こすそのプロセスをわれわれは理解すべきである。

 

 その論文は産業に持っていかなければならないし、また単に持っていくだけでなく、その論文を使いこなし、豊かさを生み出すための社会的な行動として、技術を作ったり、製品を設計したり、組織や法律を作ることなどが必要であり、それらもまた人間に役立つものとして作られねばならない。

 

 02 科学の方向に歯止めをかける倫理の未熟

 

 科学は、未知を既知に変えること、あるいは既知と思われていたものをより正確な既知に変えること、を目的としている。その意味で、科学の源泉は知的好奇心にあり、人間のもっている好奇心が科学をつくる。しかし、それに加えて倫理の問題を考慮に入れなければならない。

 エシックスは、行為の結果、何が生じるかを問題とし、それに関する知識の体系として構築されるべきである。単に個人のレベルにとどまらず、社会全体としてなんらかの知識に基づいた人間の社会的行動のよしあしを判断する仕組みを生み出す必要があり、そのためにエシックス(の社会学)が必要である。

 

 03 「シナリオ」に基いて研究するという方法

 04 「使い方」と「知識」の分断を救うもの

 05 人文社会科学も変わらなければならない

(以下略)

 

【コメント】

 

 ここ数年追ってきた吉川氏の議論、ということになります。「日本の計画」などに代表される、日本学術会議のさまざまな報告書からも、今後の学問のあり方をめぐる氏の考え方を読みとることができます。

 

 要約ではふれませんでしたが、人文社会科学が基本的に歴史科学であること、ユーティライゼーションの科学、エシックスの問題は人文社会科学の役割であり、人文技術、社会技術とでもいったものが必要になってくる、という議論が展開されています。このあたり、いかにも自然科学の側からの見方と言うことも出来ますが、そもそもこうした議論に対する体系的な反論(ないしはこれと拮抗するような構想にもとづく議論)が見あたらない、というのが現状というわけです。

 

 そんな中私が最近考えているのは、かつて学際性とか総合性をもっとも強力に標榜してきた日本の国際関係論の知的伝統を、こうした21世紀の文脈の中でなんとか復権し、再生できないか、ということです。この議論は生やさしいものではないのですが、なんとか形にしていこうと思う次第です。

 

【参考文献】

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

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