研究ノオト66 ソフト・パワー

2004/12/29第1稿

 

【テクスト】

 

ジョセフ・S・ナイ・Jr.第1章「力の性格の変化」ナイ、山岡洋一訳『ソフト・パワー』日本経済新聞社、2004年。

 

【構成】

 

01 力とは何か

02 ソフト・パワー

03 ソフト・パワーの源泉

04 ソフト・パワーの限界

05 軍事力の役割の変化

06 テロリズムと戦争の民営化

07 ハード・パワーとソフト・パワーの相互作用

08 世界的情報時代の力

 

【内容】

 

01 力とは何か (略)

 

02 ソフト・パワー

 

 ハード・パワーが誘導と脅しに基いている一方で、「力の第二の側面」としての「自国が望む結果を他国も望むようにする力」であるソフト・パワーが存在する。ソフト・パワーが依拠するのは人々の好みを形作る能力である。それは人格、文化、政治的価値観、政治制度の魅力、正当性があったり倫理的に正しいとみなされる政策などの無形のものに関連することが多い。影響力は威嚇や報酬という点でハード・パワーに基づくものを含んでいるので、ソフト・パワーとイコールではない。説得力も、ソフト・パワーの一部であるが全てではない。ソフト・パワーは行動の面で見れば魅力の力、源泉の面で見ればそうした魅力を生み出すもの、であり、それぞれの間にはギャップが存在する。

 暴力や経済力によって命令する力、報酬を支払って誘導する力、課題を設定して相手を抑える力、共通の価値観に訴える力など、パワーにはいろいろな側面がある。ソフト・パワーは、無形であるが否定できない魅力によって相手の行動を引き出すこと、共通の価値の魅力と、その価値を実現するために貢献することが正当であり、義務であるという感覚である。

 むろん、ソフト・パワーとハード・パワーは相互に関連している。他人の行動を変える力を支配力、他人の望みを形作る力を吸引力と呼ぶならば、前者はハード・パワーに、後者はソフト・パワーに関連する傾向がある。これは程度問題であり、ハード・パワーの源泉がソフト・パワーを生み出したり、その逆もあるのだが、「全体としては、行動の種類とそれに使える源泉との関連性はかなり強いので」、ハード・パワーの源泉、ソフト・パワーの源泉という表現が可能である。

 国際政治におけるハード・パワーの源泉の多くは、価値観(訳書では「価値感」となっていますが、これは誤りではないでしょうか)である。カーが世論の重要性を指摘していることをはじめ、いくつもの例を挙げることができる。むろん、軍事力や経済力の低下がハード・パワーの源泉の低下をもたらし、ソフト・パワーにも影響を与えることもあるし、その逆もある。しかし、ソフト・パワーがハード・パワーの従属変数ではないことは、ローマ法王、ノルウェー、カナダ、ポーランドやインドなどの例をみても明らかであるし、国際機関についてもそれは言える。「ある国の文化とイデオロギーが魅力的であれば、その国に従おうとする他国の意思が強くなる。ある国が自国の利害と価値観に一致する形で国際社会の原則を確立できれば、その国の行動は他国に正当なものだとみられる可能性が高まる。国際機関を利用し、国際社会の原則に従うようにして、自国の好む方向に他国の行動を誘導するか制限するよう促せば、コストのかかる飴と鞭はそれほど必要でなくなるだろう」。

 

03 ソフト・パワーの源泉

 

 ソフト・パワーの源泉は(1)文化(2)政治的な価値観(3)外交政策、である。文化には高級文化と大衆文化がある。文化の特殊性ではなく普遍性が、ソフト・パワーを生み出す。ソフト・パワー=大衆文化ととらえるのは間違いであり、それは源泉と行動の混同に由来する。力の源泉の有効性は状況依存的であり、アメリカの大衆文化もプラスの効果とマイナスの効果の双方を持ちうる。文化は通商の他、人的な接触、交流、訪問によっても伝播するのであり、アメリカは自国で学ぶ年間50万人以上の留学生の心をつかむ必要がある。

 

 国内政策、対外政策の双方がソフト・パワーの源泉となる。政府の政策に対する評価によって、ソフト・パワーが強まったり弱まったりする。世論調査をみると、人々はアメリカの国民や文化と、アメリカの政策を区別して考えている。イラク戦争がベトナム戦争と同じように、ソフト・パワーの低下を招き、その後の政策変更により回復をもたらすようになるかどうかは、簡単には判断できない。

 

 ハード・パワーと異なり、ソフト・パワーは政府が全てを管理できるわけではない。ソフト・パワーの源泉はアメリカ政府から独立しているのであり、それらの活動はアメリカ政府のソフト・パワーを損なうこともある。

 

04 ソフト・パワーの限界

 

 ソフト・パワーは単なる魅力や模倣にすぎず、力ではないと考える人もいるが、それはソフト・パワーの持つ構造的な面を無視している。とはいえ、力が常に状況依存的である以上、相手の受け止め方が重要である。またソフト・パワーの効果は分散しており実証しにくい。権力が集中している国よりもそうでない国の方が、ソフト・パワーが有効である可能性は高い。ソフト・パワーはウォルファーズの言う「環境目標」の実現において重要であり、民主主義、人権、市場開放には有効である。その多くが民間で生み出されているソフト・パワーについて、それを政府が管理しようとしないこと自体が魅力の源泉になりうる、という意見もある。それは正しいが、かといって政府と対立的で外交政策を損なうような物もある以上、政府は独自に、ソフト・パワーを弱めないように、強めていくように注意を払っていかなければならない。また、世論調査のデータは必ずしも信頼できないというのもある程度までは正しいが、大まかなイメージをつかむ上では有益であろう。

 

05 軍事力の役割の変化

 

 核兵器に代表される圧倒的な軍事力の強化が、かえって戦争のコストを上昇させた。また、通信技術の発達によって民族主義が強まったこと、また大国内部の変化などもあって、軍事力行使のコストは上昇している。もちろんだからといって軍事力の役割がなくなったわけではないが、たとえば自由な民主主義国家の間では、明らかに軍事力の役割は低下しているし、ソフト・パワーの重要性は高まっている。しかし同時に、技術が広く行き渡るようになったことや情報革命の進展を利用した、テロリズムのグローバル化が進行している。

 

06 テロリズムと戦争の民営化

 

 テロリズムそれ自体は目新しい現象ではないが、科学技術の進歩によって、社会が脆弱になり、大量破壊兵器のコストが下がり、組織的活動が容易になったことによって、テロリズムがはびこり、抑え込むのが困難になってきている。戦争は民営化し、政府の軍事力によってではないジェノサイドが頻繁に起こっている。アメリカのテロ対策にみられるように、ハード・パワーで押さえ込む方法には限界がある。「テロリストが民衆の支持を集め、新しい要員を確保しているのは、ソフト・パワーを活用した結果」なのである。

 

07 ハード・パワーとソフト・パワーの相互作用

 

 ソフト・パワーとハード・パワーは相互関連している。軍事大国に弱い国が引きつけられることもあれば、反発することもある。イラク戦争を例に取ると、アメリカの戦争の動機は、ハード・パワーの抑止力に基づくものでもあり、民主主義の強制的な移植というソフト・パワーの側面も持っていた。国連安保理の決議をめぐる交渉をみてもわかるように、アメリカのハード・パワー行使のコストを引き上げることで、ソフト・パワーを損なうことはできるのである。これは国連に限らず、周辺国とアメリカの関係にもいえることである。こうしたソフト・パワーへの配慮がないと、アメリカはハード・パワーの行使のコストがさまざまな意味でかかるようになってくるであろう。イラク戦争における経済的な支出を見ても、それがよくわかる。また、市民運動をはじめとする抗議行動が「国際社会」の世論に与える影響もまた、無視することはできない。イスラム圏におけるアル・ジャジーラの影響力もまた、同様である。イラク戦争で、アメリカがハード・パワーによって得た物と、ソフト・パワーの面で失ったものとの比較考量は、ソフト・パワー論の格好の研究材料である。

 

08 世界的情報時代の力

 

 世界の多様性を考えると、軍事力、経済力、ソフト・パワーのいずれも重要性を失っているわけではないが、情報革命の影響を考えると、ソフト・パワーの影響力はますます高まっていくだろう。情報革命の先頭をゆくアメリカは、ソフト・パワーでも優位に立っているが、将来はアジアやヨーロッパもまた、こうした力を高めていくのでありアメリカもまた努力をしていかなければならない。

 

 政府だけでなく企業名NGOもソフト・パワーを持つ。政府はうまくソフト・パワーを高めていく方向で政策運営を行う必要がある。傲慢さを避け、他国が賞賛する価値を主張していくことが望まれる。ハード・パワーとソフト・パワーを組み合わせる方法を学び、スマート・パワーになっていくことが必要なのだ。

 

 

【コメント】

 

 さて、<帝国>に続いてソフト・パワー論です。最近、ナイの世界認識とネグリ&ハートの世界認識を比較してみているのですが、ここでもいろいろと言いうると思います。

 

 たとえば、ソフト・パワーをめぐる抗争とマルチチュードの活動における対抗権力の関わり、という点。ナイはソフト・パワーというのが制御困難なものであり、状況依存的であると同時に受け手の受け取り方次第で、源泉が行動に転化される結果が異なってくる、という理解を持っているわけです。その上で、国家ないし政府のソフト・パワーと非国家主体(抗議活動やテロリズムを含めて)のソフト・パワーが、相互を補強する関係にあることもあれば相互対立的になることもある、という風に描写されているわけですが、この辺に1つのとっかかりがあるように思います。ネグリはバイオパワー、ないしは生政治的生産、という言葉を使っていますが、ソフト・パワー論とバイオパワー論の交錯可能性は、たとえばこういうところにもあるようです。

 

 

 

【参考文献】

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

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