研究ノオト64 地球環境政治の歴史的展開

04/11/03

 

【テクスト】

 

蟹江憲史「地球環境政治の歴史的展開 環境政治と持続可能な開発」『環境政治学入門—地球環境問題の国際的解決へのアプローチ』丸善、2004年、第2章。

 

【目次】

 

1 環境問題以前 〜1968年

2 環境問題の国際化への転換期(第1期) 1969−1972年

 成長の限界

 国連人間環境会議

3 地球環境政治への萌芽(第2期) 1974−1987年

4 国際的重要課題へのステップ・アップ(第3期) 1988−1992年

5 地球環境政治の具現化時代(第4期) 1993年〜

 

【内容】

 

1 環境問題以前 〜1968年

 

 70年代以前の国際的な環境問題への取り組みは、河川汚染の越境(ライン川)、渡り鳥保護(カナダとアメリカ、メキシコとアメリカ)などがあり、国際的な枠組みとしては1954年の海洋油濁防止条約がある。しかしこうした関心は単発的な物であり、技術的・機能的な対処がなされたにすぎなかった。しかし50年代、60年代に先進国内部での環境問題が経済成長の結果としての公害問題としてクローズアップされると、各国が対応を開始することになった。アメリカは1969年に環境政策法を採択、環境保護局や環境評議会が設置された。日本では1967年に環境保護法が、スウェーデンにも同年環境評議会が設置された。イギリスでは1970年、オランダでは1971年に環境を扱う省が設置されている。

 一般に環境国際政治は自然現象や科学的な調査の発表・公刊によって進展することがあるが、1962年のレイチェル・カーソンの「沈黙の春」、1967年のトリーキャニオン号事件(イギリス、原油流出事故)などがこの時期のそうした例である。

 

2 環境問題の国際化への転換期(第1期) 1969−1972年

 

 この時期に冷戦が膠着・緩和状態に陥ったことかもあり、安全保障から環境へ国際的関心が移る余地が生まれた。その変化を象徴するのが1972年の、『成長の限界』の刊行と、ストックホルム会議の開催であった。

 

 成長の限界

 

 ローマ・クラブに属するMITのメドウズを中心とした17人の研究者集団が、世界モデルを使って研究した結果の報告書が『成長の限界』である。同書は(1)100年以内に地球上の成長は限界点に到達する、(2)成長の趨勢を変更することで、将来長期にわたる持続可能な生態学的・経済的安定性を樹立することは可能である、(3)行動を開始するのが早ければ早いほど、成功する機会は大きい、ということを骨子としている。

 同書はアメリカ、オランダで1週間に2万部、全世界で2000万部のベストセラーとなった。同書の意義は、(1)経済発展の環境への影響を明示的に示す最初の試み、(2)政府や国連機関以外の最初の世界モデルで、公刊された点、にある。

 

 国連人間環境会議

 

 国連人間環境会議(ストックホルム会議、UNCHE, United Nations Conference on the Human Environment)は1972年6月5日から2週間開催された。参加国は113カ国、参加者は1300人。ストックホルム会議は、1968年のECOSOCでのスウェーデンの提案、1969年の国連総会での開催決定という流れで実現した物であるが、準備会合では途上国の無関心と反発や社会主義国の反発、先進工業国内の対立など様々な要素があった。こうした対立のなかで、科学的知識が合意形成を促進する要素となった。また同会議には公式には178,さまざまな関与を含めると237のNGOが参加していた。

 ストックホルム会議では、「現代と将来の世代のための環境の改善」というスローガンをもとに、「人間環境宣言」(26の環境基本原則を含む)「行動計画」(106の提言と6つの議決)が請託され、ケニアのナイロビを本部とする国連環境計画(UNEP)の設置が決定された。(1)国際的関心事としてはじめて環境問題が取り扱われた点、(2)UNEPという制度化によって引き続き取り組みが続くことになった点、が同会議の成果である。

 

3 地球環境政治への萌芽(第2期) 1974−1987年

 

 ニクソンショック、石油ショックなどアメリカの地位の相対的低下や途上国と先進国の対立など国際経済分野での変化が起きた70年代中盤、新冷戦のあおりをくった70年代後半から80年代初頭は環境問題の取り組みにおいては冬の時代であった。しかしその中でも、経済成長を止めることで環境保全を図ろうとするミシャンと経済成長を擁護するベッカーマンのような、経済発展と環境保全をめぐる科学的な議論は進展していった。その中で、環境と開発を両立するための「エコ・ディベロップメント」という概念も登場するようになってきて、UNEPの主要なテーマとなった。この概念は80年に、世界保全戦略(The World Conservation Strategy)の中でさらに「持続可能な開発」という言葉として発展的に使われるようになった。ここでは(1)基本的な自然システムの維持(2)遺伝子資源の保護(3)環境の持続的利用が主題とされた。なお「持続可能な社会」という言葉は、1979年にジェームズ・クーマーが使ったとされているが、これは環境制約のもとでの経済成長の持続を模索するものであった。

 「持続可能な開発」概念には3つの類型があるとされる。第1は自然環境的な制約をもとに人間活動を営む、というもの(デイヴィッド・ピアス)、第2は世代間の公平性を重視するもの(リチャード・ノーガード)、第3は社会的正義や生活の質などの点を強調するもの(エドワード・バービー)、である。1981年にはウルグアイでモンテビデオ・プログラムが、1982年には国連環境計画管理理事会においてナイロビ宣言が採択され、取り組みが進んだ。

 ナイロビ宣言で設置が決まったのが環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、これは1984年に、ノルウェー首相にもなったブルントラント女史を委員長としたので、ブルントラント委員会と呼ばれるようになり、(1)貧困とその原因の排除、(2)資源の保全と再生、(3)経済成長から社会発展へ、(4)すべての意思決定における経済と環境の統合、という目標のもと、1987年にブルントラント報告と呼ばれる報告書をまとめた。

 ブルントラント報告は、「持続可能な開発(sustainable development)」を「将来の世代の欲求を充たしつつ、現代の世代の欲求も満足させるような開発」と定義し、この概念は以後広く普及した。「持続可能な開発」概念をもとにした環境と開発に関する枠組みが進展する契機となった。

 

4 国際的重要課題へのステップ・アップ(第3期) 1988−1992年

 

 80年代後半にはオゾンホールの発見やチェルノブイリ事故など問題が地球規模化してきたことが可視的になっていく。88年には国際通貨基金・世界銀行総会会場に環境団体や学生デモが、持続可能でない開発融資を批判する行動を起こし、以後の議論にも影響を与えた。さらにこの年の国連総会演説ではソ連を含めたさまざまな国が環境問題を取り上げることになり、さらに翌年のアルシュ・サミットを経て、国際政治上の問題として環境問題がクローズアップされるようになったのである。そして1989年の国連総会で、1992年にリオサミットの開催が決定される。

 リオで行われた国連環境開発会議(UNCED)には、178カ国中110カ国が国家元首参加、8000人以上のジャーナリスト、2000以上のNGOが参加した。そこではリオ宣言(前文・27原則)、アジェンダ21が採択され、リオ宣言では先進国と途上国の責任分担を「共通だが差異ある責任(common but differentiated responsibvility)」という考えにもとづいて処理していくことにコンセンサスが得られた。

 こうした動きが可能になった要因は、東西対立の解消と環境問題の地球規模化による多国間合意形成の必要性や重要性の高まりがあると考えて良い。

 

 

5 地球環境政治の具現化時代(第4期) 1993年〜

 

 現在はCOPなどがそうであるように、より具体的な分野ごとの規範やルール作り、履行プロセスが進められている。環境問題の取り組みは多様化し、MEA(多国間環境条約、Multilateral Environmental Agreement)を柱とする特化型レジーム群がそれらを管理、運営、実施していくことになる。また1993年には持続可能な開発委員会(CSD, Commission on Sustainable Development)が設置され、UNEPとは別の意味で制度的な枠組みとして機能している。

 しかし問題が具体化するとなかなか合意が得にくく、実施が遅れたりなされなかったりしていくことになる。また貧困問題の深化やテロとの戦いなどもあって、環境問題への関心が削がれるような影響もあった。2002年にはそうしたことを総括的に振り返る意味で、ヨハネスブルクサミット(持続可能な開発に関する世界首脳会議)が開催された。ヨハネスでは「政治宣言」「世界実施文書」「約束文書」などが採択された。「約束文書」では政府、国際機関だけでなく、NGOや調査機関などのパートナーシップが明記された。ビジネスセクターも含めた多様な主体の連携が今後はより重要になってくる。

 

【コメント】

 

 さて、加藤三郎、ポーター、エリオットなどをまとめてきましたが、蟹江さんのこの教科書からは、改めて歴史的な展開の叙述を拾ってきました。環境本はあまりに多くあって、ほんとうに選ぶのが難しいのですが、この章の説明は以前紹介したものと補完的な歴史的事実もフォローしてあるので、とても参考になりました。京都議定書の話や『西暦2000年の地球』なども入っているとよいかな、と思ったりしますが、全体としてバランスがよいと思います。この手の概説としては亀山さんの『地球環境政策』もよいです。

 本文では科学的知識、となっていますが、ピーター・ハースの知識共同体論を意識して書かれているのではないかと思います。あまり理論的な用語を使わないようにされているのかもしれませんが、コンストラクティビスト的なアプローチを念頭に置いた、説明になっているのかもしれません。

 

 ではそんなところで。

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

Home 演習室へ戻る