研究ノオト62 フェミニズム・ジェンダー・セクシュアリティ

2004/06/20 第1稿

 

【テクスト】

 

竹村和子「どこから来て、そしてどこまで来たのか」『フェミニズム』岩波書店、2000年、より抜粋。

 

 

【目次】

前=啓蒙主義の時代(略)

錯綜性と矛盾の胚胎(略)

初期の女性運動(略)

第1波フェミニズムと「ドメスティック・イデオロギー」(ICW,IWSAの話を略)

第2波フェミニズムとマルクス主義(ドメスティック・イデオロギーに関する部分のみ)

ジェンダー

ラディカル性と連帯意識(中絶、レズビアンの承認に関する話を略)

本質主義(具体例の部分と末尾の部分を略)

セクシュアリティ(具体例の部分と後半の一部を略)

 

(略)は単に便宜的な理由から行いました。

 

【内容】

 

前=啓蒙主義の時代(略)

錯綜性と矛盾の胚胎(略)

初期の女性運動(略)

 

第1波フェミニズムと「ドメスティック・イデオロギー」(ICW,IWSAの話を略)

 

第一波フェミニズムは19世紀後半から20世紀前半に起きた、女性の参政権実現をその中心的な目的とした運動であった。多くの抵抗を乗り越えて参政権は実現していったが、それは性抑圧へのより根源的な問いかけや、参政権以外の法的、制度的な性差別運動とは結びつかなかった。その背景にはこの時期が戦争や恐慌などの世界的な不安定な状況であったこと、国民国家の体制に合致する家庭・国家の内と外という境界線によって男女と女性を分断するドメスティック・イデオロギーが登場し浸透していった時期であったことがあげられる。

 

第2波フェミニズムとマルクス主義(ドメスティック・イデオロギーに関する部分のみ)

 

ドメスティック・イデオロギーとは、人々を、積極的・活動的・合理的・社会性を持ち、仕事を持続的に行う身体的恒常性を有する「男」と、従順・消極的・穏和・情緒的・社会性が無く、決断力に欠け、外で働く身体的恒常性を持たない「女」という2つの領域に分断する神話である。この考え方は、中産階級が資本主義社会の中で自らの階級的卓越性を作り出すために生み出したもので、近代家父長制はその中核に存在する。デルフィが指摘するように、女性性と男性性の神話は、家父長制に先立って存在したのではなく、資本性を保持するために捏造され、自然化、普遍化されたものにすぎないが、その影響力は未だに強固に残存している。

 

ジェンダー

 

ジェンダーとは、生物学的な所与の性差としての「セックス」とは異なり、「男らしさ」「女らしさ」と呼ばれるような、セックスの差異の上に構築される社会的・文化的な性差である。ジェンダーが要求する「らしさ」は、男女の領域を分離して性差別を生み出すだけでなく、それが身体行動・精神・身体をも管理規律する規範として強力に機能する。ただしジェンダーとセックスの境界線については、現在も論争が続いている。

 

ジェンダー規範は男性を「普遍」、女性を「特殊」と位置づけるため、男性は自らの「性」を意識することなく生活し、女性は自らの「性」を常に意識しなければならなくなる。したがって、ジェンダー規範が基礎をおく「男」「女」という2分法は、2つの性が平等な差異を持って存在することを意味するのではなく、現実には「男」を中心とし「女」を周縁とする1つの垂直な階層秩序を形成しているのであって、その意味でボーヴォワールが言うように、実際には1つしか性が存在しないということになる。

 

ジェンダー規範が「男」と「女」という社会的な性差によって人々を分断する場合、「男」でもなく「女」でもない中間の領域にいる人や、一人の人間の中にさまざまに存在する「男」らしさと「女」らしさの混雑性が排除されてしまう。こうした視点から見るとジェンダー規範は、一度切り離されたはずの生物学的性差に基づく差別を正当化する機能として働きかねない。その背景には、フェミニズムが「平等」を考える際に向き合わざるを得ない、ジェンダー概念をめぐるジレンマが存在する。

 

ラディカル性と連帯意識(中絶、レズビアンの承認に関する話を略)

 

ラディカル・フェミニズムは60年代末から70年代に北米を中心に登場してきたものであり、政治行動や組織化、公的な場での先鋭な見解の発表などによって世界中に大きな影響を与えた。個人の行動や姿勢にとどまらず、個人の感情・欲望という私的領域における性をめぐる権力関係を見いだし、政治・社会からさらに個人や文化という面における性による支配を糾弾していった。

 

ラディカル・フェミニズムが登場した時期は、60年代のカウンター・カルチャーの登場と軌を一にしている。その意味では社会全体の解放運動の一環として、ラディカル・フェミニズムが他の運動と連帯しつつ発展することができたということができる。しかしラディカル・フェミニストは、保守的な第二波フェミニストと衝突することになった。そこで扱われた中絶、レズビアンといった争点は、フェミニズムが抱える更に広範囲な問題をも指し示すものであった。

 

本質主義(具体例の部分と末尾の部分を略)

 

「女の本質化」とは、抑圧の対象となり、「本質」ではないとみなされてきた女の思考や言語をむしろ本質であると考え、女特有、女中心の価値観に立って、男中心の社会を変革しようとすることである。しかしこう考えると、今度は「女」内部に存在する多様性や複雑性が捨象されてしまうところに問題がある。

 

本質主義の問題点は、一言で言えば排除と均質化の罠、ということになる。つまり、性抑圧からの解放を目指して「女」という本質を持ち出すならば、それは第1に、「女」と「男」が二分法的に峻別されることを逆説的に認めてしまうことになり、そのどちらにも属さない人や、またすべての人間が持つ混雑性を不当に見過ごしかねない。第2に「女」内部において「連帯」や「思考」に参与できなかった社会の周縁にいる存在(たとえばセックス・ワーカーなど)やレズビアンを排除しかねず、第3に「男」との関係を対立的に捉えすぎたり、「男」内部の多様性を見過ごしがちであり、こうして本質主義はその内側と外側に疎外を生み出し、支配言説を再生産しかねないのである。

 

セクシュアリティ(具体例の部分と後半の一部を略)

 

 「セクシュアリティ」とは、性実践や性欲望や性自認を含むエロスの意味づけ、といった内容をさす。具体的にはセクシュアリティは社会的に、そして私的なものとして意味づけられ、それが公的に認可されたのは家庭における次代再生産にかかわるもののみであった。そうした、出産から遡及して性実践、性欲望、性幻想を正当化するセクシュアリティからは、男の強迫観念的な勃起信仰と、女の慎み深さの神話が生み出された。

 

近代のセクシュアリティは、ドメスティック・イデオロギーによって、第1に欲望の主体としての男と欲望の客体としての女という非対称的なものとなり、第2に生殖中心の家庭内の女の「脱エロス的」なものと、男の快楽に供する家庭外の女の「エロス化」されたものとに分割され、第3に人種内、民族内の異性愛を標準とみなす視点から、他民族、他人種に対する性搾取を正当化することになった。さらにセクシュアリティは規範化され、個人の人格を構成する最重要なものと見なされ、規範から逸脱する存在が排除され異端視されてしまった。

 

「女」の正当な権利を主張するものとして始められたフェミニズムは、ジェンダーの非対称性に着目するようになり、生物学的な身体的性差の上に構築される社会的・文化的性差の人為性を問題とした。しかしそのことは、「女」だけでなく「男」を含めた、異性愛、非異性愛のセクシュアリティが持つ社会構築性をも明らかにするものであり、「女」概念のみに依拠することを困難とした。かくして「女」「男」、異性愛、非異性愛を含めた性体制そのものを、階級・人種・民族などの社会の権力関係の付置状況の1つとして、歴史的に検証することがフェミニズムの課題となるのである。

 

【コメント】

 

 竹村さんのこの本は、出た当座から購入して、じっくり読んだ覚えがあります。とくにこの章は、歴史的な展開をある種教科書的に簡潔に記述してあって、とても便利な文献だと思います。ただ、たとえば女性と戦争、ナショナリズムとジェンダーといった視点、そして国際関係におけるジェンダーやフェミニズムといった部分にもう少し行き届いていると、バランスがとれるのかもしれないと思います。もちろんドメスティック・イデオロギーによる国内・国外という女性の分割線が、戦争や植民地化の際に効いてくる、という指摘はあるのですが、GADやWIDといったとらえかた、国連女性会議や女性差別撤廃条約の話、FGMの問題、といったところとも接続されていくと、さらによいのではないかと思います。

 

(ちなみに、江原由美子さん的な社会学的というか、ジェンダー秩序論にみられる社会科学の理論的な思考との接続は、文中ではおぼろげにみられるのですが、ここが架橋されていくとさらに議論としてはおもしろくなっていく、と同時に、国際関係研究的な立場からそれを考えていく際にかなりヒントになるような気がしています)

 

これは竹村さんの責任と言うよりは、国際関係研究の側の問題であるわけです。その後『年報政治学』に1本関連の論文が載りましたが、土佐弘之さんの本以来あまり日本で国際関係研究とジェンダーの話が出てきてないようです。ただし、欧米の文献を紹介していくことも引き続き必要なのですが、もう少しオリジナルに考えていくことも重要だと思います。国際関係とフェミニズム・ジェンダー・セクシュアリティの関わりは、社会学・社会科学の蓄積、文芸批評や歴史学・思想などの蓄積ともっと積極的に絡み合いながら見ていかなければならないと思います。

 

さらに言えば、自然科学、とりわけ生命科学や医学の分野との交通もつけていくべきであると思います。その意味で今回大変参考になったのは、高橋さきのさんの「生命科学とジェンダー」という文章でした。アン・コートの「膣オーガズムの神話」が掲載されたNotes from the first year(掲載の文章がWebで読めることをはじめて知り、コート論文が4パラグラフという短いマニフェストのようなものであることもはじめて知りました)へのリンクもここで知りました。

 

高橋さんの議論では、前半の歴史的な事実、たとえばジェンダー・アイデンティティ概念が精神科医のストーラーと社会学者のガーフィンケルの共同作業というプロセスと密接に関連していたことなど、医療の分野でのさまざまな取り組みからジェンダーなどの概念が生み出されていく過程が説得的に記述されていた点が、とても勉強になりました。もう1つは、最後の方で提起されている、1次元でも2次元でもなく、3次元の中にさまざまな性のあり方をプロットしていくという、ファウスト・スターリングモデルや高橋さんの多次元空間内ベクトル・モデル、と言ったイメージでとらえるべきではないか、という主張です。これはプラグマティックであるが故に不必要な衒学的要素がきれいに抜け落ちている明晰さがあって、個人的には大変示唆を得ることができた次第です。

 

もう1つは、セックス・ジェンダー・セクシュアリティーをとらえるきちんとした枠組み設定が必要である、という第2点での問題提起の前段階で示される見解です。これも、いろいろと斜め読みしている私自身、以前から不明瞭に思っていた点でした。

 

ではそんなところで。

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

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