研究ノオト57 「人間の安全保障」論

2004/01/02 第1稿

 

【テクスト】

 

 初瀬龍平「『人間の安全保障』論の方向性」『京都女子大学現代社会研究』第4・5号(2003年)、81−95ページ。  原文はこちらをクリック

 

【目次】

 

00 はじめにー問題提起

01 UNDPの「人間の安全保障」概念

02 「人間の安全保障」政策

03 「人間の安全保障」のイデオロギー性

04 「人間の安全保障」と国家安全保障

05 グローバル化と「人間の安全保障」(PDF原文では「4」となっていますが、「5」の誤りだと思います)

06 結語

 

【内容】

 

00 はじめにー問題提起

 

 「人間の安全保障(human security)」という概念は、1994年のUNDPの報告書『人間開発報告』で使用されたことを端緒に、広く使われるようになっている。この語は政策用語としても、学術用語としても広く使われている。

 

 human securityは、(1)社会制度を通じた安全の保障としての「人間の安全保障」と、(2)人間の存在としての安全(生命・生存の維持)としての「人々の安全」と訳し分けることができる。社会科学本来の目的からすれば、今更「人間の安全保障」を論じること自体おかしいが、これには、冷戦終結後の国家安全保障の転換や、ネオリベラル・グローバル化による最貧国経済社会の状況の深刻化、といった背景がある。

 

 国際政治学の世界では、政策用語が学術用語に入り込むことは普通のことであり、勢力均衡、BHN、持続的発展などはその例である。しかし政策用語としての「人間の安全保障」を学術用語に取り入れるには、(1)そのイデオロギー性(2)国家安全保障との関係、(3)グローバル化の影響の判断、などに注意するべきである。「人間の安全保障」論を否定するのではなく、社会科学の原点である「人々の安全」に基いて、「人間の安全保障」論の方向性を確認していくことが必要である。

 

01 UNDPの「人間の安全保障」概念

 

 UNDPの報告書(UNDPのHPでとれるんですが、何故か知りませんがアンダーラインとか書き込みがあるPDFなんです(笑))の構成を見ても、人間の安全保障はさまざまなイシューや目的と密接に関連している。報告書第1章で提起されている6つのアジェンダは、(1)新しい世界社会憲章の採択(世界的な機会の平等の実現)、(2)人間開発20・20契約(途上国の国家予算の2割と先進国のODAの2割を充当)、(3)冷戦後の「平和の配当」の活用、(4)「地球的安全保障基金」の結成、(5)人間開発へ向けた国連システムの活性化と活用、(6)国連経済安全保障委員会の設置、であった。

 

 この提言からは(1)軍縮への視点の強さ、(2)BHN、持続的発展への関心の高さ、(3)「人間の安全保障」の対象のBHNと持続的発展を越えた広がり、などの特徴を指摘できる。

 

 「人間の安全保障」概念に関しては、核・国家の、狭い安全保障から人間の、包括的な安全保障へ、という転換が主張され、さまざまな具体例が列挙されている。此処で提起されているのは、(1)欠乏からの自由(2)恐怖からの自由、という2つの安全保障問題であり、UNDPの報告書においては前者に力点がおかれる。そこに含まれるのは貧困の解消から資本などの国際移動、環境、核兵器管理、ガバナンスの枠組み、国連改革、国際的な税金(トービン税も含め)など「人々の安全」を脅かす凡てのものが入ることになる。

 

 この記述には、(1)BHNやケイパビリティの向上といった人間開発というUNDPの政策の延長上に「人間の安全保障」概念があること、(2)持続的人間開発を長期的「人間の安全保障」政策の一環としてとらえていること、(3)軍縮、軍備管理と連動しているということ、(4)ネオリベラル型グローバル化批判がある程度こめられていること、が共通了解としてある。また、欠乏からの自由を実現することが、恐怖からの自由を実現することにつながる、という意味で「予防開発」という言葉も使われている。

 

02 「人間の安全保障」政策

 

 この考え方は、アナン事務総長の2000年の報告書『我ら世界の人々』にも継承されている。同報告書は、(1)グローバル化とガバナンス(2)欠乏からの自由(3)恐怖からの自由(4)未来の持続可能性(5)国連の再生を骨子としているが、UNDPに比べると恐怖からの自由に就ての議論はより詳細である。

 

 また、カナダや日本など個々の国家でも、「人間の安全保障」政策への取り組みが反映されている。カナダはミドルパワーとしての、人道的介入擁護と国益実現を両立させるような方向で、また日本はODA論の別表現的な色彩を持った考え方を持っている。

 

03 「人間の安全保障」のイデオロギー性

 

 勝俣誠の言うように、「人間の安全保障」概念は古い概念の焼き直しという性格が強く、そうした言葉の言い換えは実践的であると同時にイデオロギー的でもある。重光哲明は同概念はヨーロッパ中心主義、植民地主義、ネオ・コロニアリズム的な性格を持ち、支配のイデオロギーを正当化するものだと論じている。また土佐弘之はヒューマニズムが持つ普遍性と欺瞞性という二面性に基いて、同概念が人間の幸福の客体化を目指したグローバル・ガバナンスを促進し、それが世界大の福祉システム形成と同時に、北からの一方的なまなざしによる管理をも意味すると指摘する。

 

 こうした私的をふまえつつ、イデオロギーの罠にはまらない途を考える必要がある。武者小路公秀が提起する「弱者の原則」論、また彼れを中心としたグループによる公開書簡における4つの原則、つまり(1)日常の不安を中心に置くこと、(2)最も弱いものを中心に置くこと、(3)多様性を大切にすること、(4)相互性を大切にすること、などはそうした方向性の模索である。

 

04 「人間の安全保障」と国家安全保障

 

 「人間の安全保障」と国家の安全保障は対比的に使われることがあるが、実際の関連は多様であり得る。

 

 外務省の上田秀明は、国家安全保障を「人間の安全保障」の必要条件ととらえて、両者を対立的には見ないように論じている。栗栖薫子は、基本的には国家の安全保障よりも人間の安全保障が優先されるとみなしつつも、両者の補完性を見いだしているが、国家を一般化しすぎているために、これまでの議論との対比が不明確である。一方で、宮脇昇や土佐のように、対立性を強調する議論もある。この両者については、武者小路が言うように、「人々の安全」という視点から国家安全保障論を制約していくべきだというのが一つの落としどころになっている。

 

 国家の安全における逆説は、それが一部の人々の死によって守られる、という点にある。これは村上陽一郎の議論などを見ても首肯できるが、犠牲者が増えるとこの定式は維持できず、したがって死者を極小化せざるをえず、また犠牲者に対する経済的、精神的ケアが必要になることを意味する。国家の安全保障から始めることと、人々の安全から始めることとでは、根本的な立場の相違が生まれる。それはいわばマクロレベルとミクロレベルの違いである。この点ブザンが指摘するように、国家の安全を個人の安全と無関係と考える国家主義的立場と、国家の安全を個人の安全から見る民主主義的立場とがある。

 

 議論を整理するために、国家の安全を(1)国家の政治的自立(2)国家の軍事的安全保障に分け、(1)国家の自立、(2)軍事力の保有、(3)国民の安全という3つの側面に即して6つのケースを考えてみる。

 

 第1は国家の自立あり、軍事力強力、国民の安全もある状態。(現在のアメリカ)

 第2は国家の自立あり、軍事力相対的脆弱、他国の侵略で安全喪失。(第二次大戦のポーランド)

 第3は国家の自立あり、軍事力強力、国民の日常的安全喪失、国家喪失。(崩壊時のソ連)

 第4は国家の自立なし、軍事力強力、国民の安全喪失。(抑圧政権、破綻国家)

 第5は国家の自立あり、軍事力は一部対外依存、国民の安全あり。(現在の日本、沖縄を除く)

 第6は国家の自立なし、軍事力なし、国民の安全なし。(植民地)

 

 国家の軍事的安全保障が国民の安全を守る上で必要と言えるのは、第1と第2の場合のみである。国民の安全にとって第一義的に重要なのは国家の自立であり、国家の状況次第で軍事力の保持が国民の安全保障へどう影響するかが決まる。

 

 さらに複数のケースを組み合わせてみると、(1)第1のケースが併存する、たとえば先進国同士であれば世界共同支配のための政策として国家安全保障論が意味を持つ。地域大国は世界レベルで見れば第2のケースにあてはまる。(2)第1と第6、第1と第4の組み合わせでは、国内での人々の安全は損なわれ、大国の軍事介入は事態を更に悪化させることになる。

 

 以上の考察から、(1)「人々の安全」を保障するためには国家の自立が必要(2)大国による武器援助は被援助国の「人々の安全」を保障しない(3)先進国による安全保障の国際共同管理は先進国の国民の安全を高めるが、途上国についてはそうは言えない(4)軍事的国家安全保障は国内でも1部の人々の犠牲を前提にしている。

 

05 グローバル化と「人間の安全保障」

 

 「人間の安全保障」における「人間」概念は曖昧である。この問題を考える上では、人間の多様性をどうふまえるかということと、グローバル化の影響やグローバル・ガバナンスの進展、といった近年の状況を考察することが求められる。ショルテが指摘する反ネオリベラリズム的な議論はUNDPにも共通するものであり、ネオリベラル・グローバル化がもたらした人間不安への対処が必要になっている。そこでは覇権主義や一方的な介入などに対して、国家・非国家の様々な主体が相互性を尊重し、弱者集団を含めた多角的な対話が必要である。

 

 ブザンやトーマスの指摘にみられるように、国家の質の向上とグローバル化による不平等と貧困の進展の影響を無視して「人間の安全保障」を論じることは「人間の安全」を高めることには通じない。

 

06 結語

 

 「人間の安全保障」は、学術用語としても政策用語としても使われる。政策用語としてのイデオロギー性は明瞭だが、学術用語としてのイデオロギー性は比較的自明ではないので、それを明らかにした上で、議論をする必要がある。むろん、学術的議論からイデオロギーを払拭することは出来ない。しかし学術的議論は、異なる認識、思想、信条の間をどう取り持つかを課題とするべきである。「人間の安全保障」論における根元的理論的課題としては、ミクロの議論とマクロの議論の結合であるが、ここでは「人々の安全」基準から国家安全保障政策を批判するという立場を取っている。

 

 ネオ・リベラル的グローバル化に対して批判的な立場を取らなければ、学問的議論で「人間の安全保障」という新しい用語を用いる必然性はない。新しい用語は現実政治において「目晦ませ」の効果を持つが、学術用語として用いるには、目晦ませをはずさなければならない。10年後に「人間の安全保障」は私語になっているかもしれないが、「人々の安全」を国家安全保障との関わりで論じる意義は消えない。さらにグローバル化との関係で論じる意義はますます増えているが、それについては別稿で論じたい。

 

【コメント】

 

 今やすっかり定着した感のある「人間の安全保障」論ですが、最近では人間の安全保障委員会の報告書の邦訳『安全保障の今日的課題』(朝日新聞社)も刊行されて、その大枠が広く人々に知られるところとなっています(人間の安全保障委員会のHPでダウンロード可。日本語は要旨のみ)。ちなみに、この報告書は、21世紀の国際関係を知る上で最良のガイドブックになっていると思います。いわゆる理論の教科書と、こうした現実の教科書と、あとは歴史の教科書と、3冊揃えるとしたら、現実の教科書として実に良くできていると思います。

 

 さて、というわけでどちらかというと向かうところ敵なしという印象で言及されることも多い「人間の安全保障」論なのですが、初瀬先生がご紹介されているように、それに対する批判も少なくありません。そして、更に少ないのが、この概念を巡る概説であり、また出来る限り学術的な立場からの整理と全体的な方向性の提起であったと思います。この初瀬論文はネット上のPDFで入手できるという意味を含めて、人間の安全保障論に関心を持つ人凡てにとって大変有益な内容になっています。

 

 私がこの論文を読んで大いに参考になったのは、冒頭と最後の部分でさらりと言及している、政策用語と学術用語に関する議論です。個人的な体験からしても、国際関係や国際関係研究においては、ある用語がはやると全体が一気に、熱に浮かされたようにその概念に基づく議論が流通し、大量に生産されていくことが何度もあります。しかしそれによってより本質的な問題がどこまで改善されたかが疑問が残る場合もありますし、さらにその用語に載った議論がどこまで有益であったかということになると、さらに心許ない場合もあると思います。私自身は、こうした言葉の流通自体も国際関係現象だと思いますし、それ自体を分析の俎上に乗せて行く必要があると考えています。もちろんそこでは単に、流行の言葉を使うべきでないといったことを主張したいのではなく、そういう言葉が何故使われるのか、その言葉が持つ効果や機能は何なのか、そしてそれがより本質的な問題について何をもたらしうるのか、ということを検証したいわけです。その意味で、この初瀬論文は、私にとっては大きな示唆を与えてくれています。

 

 政策用語と学術用語の関係は、初瀬論文が指摘するように前者から後者への流れもありますが、後者から前者への流れもあると思います。あるいは政策用語でもなく学術用語でもない、あるいは最初から両者に首をつっこんだ形で概念が誕生し、それが両者へ波及することもあると思います(たとえば「文明の衝突」はどちらに属するか、「グローバリゼーション」はどちらか、など)。

 

 ミクロとマクロを統合する、という視点もまた、私が最近考えている自我・国家・国際関係の話とつながってくる論点だと言うことが出来ると思います。個人や国家という単位の有効性や自明性を、それらを包括する単位や単位間の関係づけ方という枠組みからどう規定しているのかを見ていくことが重要になりそうです(たとえばヒューマニズムの二面性は、ヒューマニズムが依拠している単位以外の場合にもありうるのではないか、など)。

 

 ではとりあえずそんなところで。

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

Home 演習室へ戻る