研究ノオト55 グローバリゼーションと文化

2003/12/28第1稿

 

【テクスト】

 

 ヒュー・マッカイ「文化のグローバル化」デヴィッド・ヘルド編、中谷義和監訳『グローバル化とは何か』法律文化社、2002年、第2章。

 

 今回は、オープン・ユニバーシティの教科書として編まれた本の翻訳をとりあげました。オープン・ユニバーシティについては、クールな本家サイトの他、仏教大学の白石先生が視察記を書かれており、その辺が非常に参考になります。確かに「開放大学」と日本語にはしづらいようで、日本でもカタカナのまま流通しているようです。

 

【目次】

 

1 はじめに(略)

2 グローバル論者

 2.1 文化のグローバルな流れ

 2.2 積極的グローバル論者

 2.3 悲観的グローバル論者

3 伝統論者

 3.1 ナショナルでグローバルなテレビ視聴者

 3.2 新聞

 3.3 ニューズ

 3.4 規制

 3.5 何が新しいのか? ビクトリア時代のインターネット

4 変容論者

 4.1 文化の流れは単なる一方通行にはない

 4.2 輸入テレビ番組の視聴者

 4.3 文化の純度と文化の浸透

 4.4 文化を読む

5 文化と技術(略)

6 むすび(略)

 

【内容】

 

1 はじめに(略)

2 グローバル論者

 2.1 文化のグローバルな流れ

 

 文化の貿易量や貿易額、コミュニケーション技術の普及と発展などどれをとってみても、文化商品のグローバルな流通が大規模化してきていることが解る。しかしこの増加はグローバル化全体と同様に不均等なものであり、それはテレビやラジオの台数と普及率の変遷を見ても一目瞭然である。それに加えて、テレビのチャンネル数に代表されるように、ハードウェアだけでなく、ソフトウェアないしコンテンツの増大(注 マッケイはこうした言葉は使っていないが)も大きい。1986年から2000年までの間に西ヨーロッパのテレビ番組の放送時間は倍増したという。

 

 こうした状況の中で、市場競争が激化しており、公共放送の割合は低下している。公共放送の縮小は一般にはナショナルな放送の縮小と考えられる。ケーブルテレビや衛星放送の普及は今後も続くと見られている。

 

 2.2 積極的グローバル論者

 

 グローバル論者は基本的にはグローバル化が進むと国民文化が消滅して行くであろうと考え、伝統論者はそれに反論する。グローバル論者には積極的グローバル論者と悲観的グローバル論者がいる。前者は楽観主義者、そうした傾向が良いことであると考えており、後者はそれを画一化の進行や帝国主義的な傾向として考えている。楽観主義者にも2つのタイプがあり、第一に「地球村(global village)」への移行としてグローバリゼーションを捉え、第二に、自由主義的な観点からその利点を強調する、というタイプがある。

 

 「地球村」論は1960年代にマクルーハンが唱えたものである。そのリバイバル盤とも言えるのが、ハワード・ラインゴールドのThe Wellという電子コミュニティーである。カウンター・カルチャーの世代でもあるラインゴールドは、ハーバーマスにも影響を受け、衰退しつつある公共権を電子ネットワークによって補完再生し、支配の構造を迂回できるような方途を見いだそうとしている。

 

 ラインゴールドにせよ、メキシコのサパティスタ運動にせよ、コンピューターを媒介としたコミュニケーション(CMC)が持つ比較的自由で双方向的な特長を生かした新しいコミュニティ作りを志向しているところがある。一方自由主義的支持者たちは、たとえば公共放送の規制緩和にメディア産業側が反撥する一方で公共放送側が逆に積極的であることなどから、ナショナルな側もそうでない側も同様にそうした志向を持っていると考えられる。

 

 2.3 悲観的グローバル論者

 

 悲観的グローバリゼーション論者の主張としては、大別して3つのタイプがある。第一が不平等が拡大していく、という主張で、第二はメディア企業の所有が集中する、という主張で、第三が文化帝国主義の進展、という主張である。

 

 不平等の拡大については、グローバル化が全体としてはコミュニケーション技術の進展と増加を意味しているとはいえ、国民内部そして国民間の不平等はむしろ拡大し、その格差は激化していく、という点が論じられる。メディアの所有の集中は、AOLタイム・ワーナー、ディズニー、ベルテルスマン、ビアコム、テレコミュニケーションズ、ニューズ・コーポーレション、ソニー、シーグラム、ゼネラル・エレクトリック、ダッチ・フィリップスといった大企業の手の内にほとんどのメディア産業が置かれることで、メディアのないような分配がコントロールされてしまう事態について言及するものである。そうした状況での競争は、番組の多様化よりはむしろどこを見ても似たような番組が競合する、という多様性の増大という楽観的な見通しとはかけ離れた帰結をもたらしている。

 

 文化帝国主義の考え方は、フランクフルト学派、特にアドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」論にその起源がある。そこでの文化の均質化、権威主義的支配、文化の商品化がもたらす懸念は、たとえばユネスコの「新国際情報流通秩序」論などにも反映されているものである。脆弱な文化が支配的文化の脅威にさらされること、特にアメリカを代表とする西洋文化の突出が問題となる。世界のニュースの80%は西洋の五大ニュース機関が占有し、途上国に関するニュースは全体の20%しかない。文化帝国主義の場合、人々を命令に従わせるのではなく、ソフトやハード、情報やレジャーやエンターテイメントを買ってもらえるように説得しているだけであり、そこに今日の文化帝国主義ないしは植民地的な状況の特徴がある。そして、言語の問題がその根底に位置している。世界人口の25%が英語を使い、80年代中盤には英語の翻訳が翻訳出版物全体の47%である。

 

 こうした状況に対する反撥として、イランやフランスなどの政策があり、また左翼と右翼の議論の対立がある。文化帝国主義という概念が単なる文化的支配を含んだより包括的なニュアンスで使われるのは、そこには文化政策や習慣が経済的利害と結びついて機能する、という構造の問題があるからである。マテラートが指摘したように、文化帝国主義は、グローバルな会社資本主義の利益と広がりと結びついている。

 

3 伝統論者

 

 伝統論者の主張は、基本的には国民文化の普遍性、持続性、歴史性を重視しているが故に、グローバル化が進展しても日常生活やアイデンティティはそう変わるものではない、と考えるものである。そうした継続性を支えているのが、公共放送、新聞、ニュース報道、規制システムである。

 

 3.1 ナショナルでグローバルなテレビ視聴者

 3.2 新聞

 3.3 ニューズ

 3.4 規制

(以上略)

 

 3.5 何が新しいのか? ビクトリア時代のインターネット

 

 現在の文化のグローバル化よりも遙かに大きく、時間と空間を縮小したのは、19世紀に於ける電信の開発であった、と論じる向きもある。その代表例がトム・スタンデッジである。彼に言わせれば、馬や船によるコミュニケーションから電信への変化の方が、電信からインターネットへの変化よりも遙かに大きなものだったということになる。

 

 

4 変容論者

 

 変容論者は、すべてが変わったという訳でも、何も変わらないと言うわけでもない、という立場に立っている。

 

 4.1 文化の流れは単なる一方通行にはない

 

 文化帝国主義的な理解に立つと、アメリカ中心主義的な文化の流れだけが突出してしまうように思われるが、実際には、グローバルな規模での文化の流れ、ローカルな文化の流れだけでなく、リージョナルな文化の流れも起きており(たとえばラテンアメリカのテレビドラマ「テレノベラス」)、非常に複合的な状況を示しているのである。

 

 さらに、自前の番組製作設備を持っていて輸入の必要性が低い国、輸入せざるを得ない国、そもそも番組製作をしていない国、などの国ごとの状況、また番組の種類(アメリカが輸出するのは多くはフィクション 注 スポーツ番組は別でしょう)などによっても異なり、さらに番組の輸入が国内産業の成長もたらすケースなども考える必要がある。

 

 4.2 輸入テレビ番組の視聴者

 

 実際の番組の受け手の側を見ると、たとえばどの国でも自国の番組が一番視聴率が高いし、海外番組がゴールデン・アワーに放送されることは少ない。多くの輸入番組は文化的支配のプロセスや戦略と言うよりも、安上がりな作品を埋め草的に利用したい場合に使われることが多く、単純な量だけでその影響力を考察することは軽率である。

 

 4.3 文化の純度と文化の浸透

 

 海外の文化帝国主義に対抗するために、自国らしさを主張しようとすると、多様な文化が存在している自国の状況に反するような同質性を国内において強調しかねないことになる。こうした一国家一文化的な主張は文化の雑種性や多様性やクレオール主義といった人々の文化的な実態にそぐわない。

 

 4.4 文化を読む

 

 文化がどのようにデコードされるか、つまり利用され、解釈され、消費されるか、という点に関する考察も重要である。「ダラス」にしても「ザ・ヤング・アンド・ザ・レストレス」にしても、結局はローカルな文化の文脈の中で理解され、共鳴されていることがわかる。テレビ視聴者は基本的には単に受動的に番組を受け取っているのではなく、能動的かつ判断力を持って番組を受け止める柔軟性を持っているのである。

 

5 文化と技術(略)

6 むすび(略)

 

【コメント】

 

 グローバリゼーションと文化、という議論はあっという間にとてもメジャーな論点になっていますし、今をときめくヘルド編のこの教科書でもなかなか小気味よく整理されています。もうすこし細かい事例もふんだんに紹介され、多数の図表や写真、さらに説ごとの要約、章末には用語の説明や参考文献やURLなども記載されており、オープン・ユニバーシティの教科書のグレードの高さかよくわかります。

 

 内容的には、イギリスの事例がかなり多く紹介されている(まあ当然ですが)ことをのぞくと、なかなかバランスのとれた整理になっています。もともと議論を試みる内容ではないので、グローバル論者、悲観論者、伝統論者、変容論者、それから技術決定論をとりあげて、その大まかな内容を記載している、といったところです。

 

 最近、ソフト・パワーについていろいろと考えているのですが、確かに文化帝国主義的な図式とイコールだ、などという短絡的な解釈はできないことを、これを読んで改めて納得できたように思います。ただ、ナイ自身がこうした問題の系とどう関連させて考えているのかということについては、トムリンソンなども踏まえながら、見ていく必要があるように思います。

 

(芝崎 厚士)

 

 

 

 

 

 

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