研究ノオト53 ジェンダーとフェミニズム

2003/10/22第1稿

 

【テクスト】

 

上野千鶴子「差異の政治学」『ジェンダーの社会学』(岩波講座現代社会学第11巻)、岩波書店、1995年。

 

後に出版された『差異の政治学』岩波書店、2002年、にも収録されました。

 

【目次】

 

01 性差論の罠

02 セックスとジェンダーのずれ

03 ジェンダー本質主義

04 ジェンダーの非対称性

05 差異の政治学

06 ポスト構造主義のジェンダー論

07 終わりに

 

【内容】

 

01 性差論の罠

 

 セックス(sex)とは「生物学的性別」、ジェンダー(gender)とは「社会的文化的性別」をさす。セックスは基本的には否定しようがなく、また変化しようもない「自然」の性差であるが、ジェンダーはいわば「文化」として後天的に、歴史的社会的状況の中で人間が生み出した物であり、変更可能である。フェミニズムはジェンダー概念を導入することによって、「生物学的宿命」から脱却する途を得ることが出来るようになった。

 

 生物学的宿命の強力な根拠として存在したのが、フロイトの「解剖学的宿命」の議論であった。性差はペニスの有無で決定され、男子は父親からの去勢恐怖を受けて母子分離を経験し、エディプス・コンプレックスを持つようになる。一方女子は去勢恐怖を経ないため倫理的に劣った存在とみなされ、抑圧された欲望の結果神経症などの病気にかかる。それはペニス羨望の表れである。以上がフロイトの基本的な考えであった。

 

02 セックスとジェンダーのずれ

 

 生物学的に性別を決定する要素のいずれも、性差は断絶的なものではないことを示している。遺伝子レベルでは、X遺伝子とY遺伝子の組み合わせによる性差自体が、性差の連続性を示している。内分泌レベルでは、性差はホルモンのバランス次第で決まるに過ぎず、そこでは連続性が見られる。外性器にかんしても、出生段階での判断にはしばしば間違いが生じることからわかるように、発生の途中で変化が生じることがあり、連続性があるのである。

 

 マネーとタッカーの『性の署名』は、セックスとジェンダーは別の物であり、それが一致しなければならないわけではないこと、そしてジェンダーはセックスが決定するのではなく、むしろ人為的に決定されるのであるが、自由に変えられる物でもないということを明らかにした。シュルロとチボーの研究もまた、同じような結論に達していた。

 

03 ジェンダー本質主義

 

 80年代にアメリカのフェミニストたちによって主張されたジェンダー本質主義は、生物学的性差に基づく「解剖学的宿命」を拒絶する一方で、ジェンダーとしての「女性性」に肯定的な価値を見いだし、女性が男性よりも優位に立っていると考える。筆者は、80年代のアメリカにおける保守反動化とそれに対するフェミニズムの政治的急進化、フェミニストたちが母親になっていくタイム・リミット、といった要因がこれらをもたらしたが、それはフェミニズムの後退や挫折に他ならない、と考えている。

 

04 ジェンダーの非対称性

 

 デルフィは、ジェンダーがセックスに先行して形成されること、そして問題は男と女を非対称な存在として分割する差異化の作用としてのジェンダーであり、そこでの権力関係が重要になることを明らかにし、男女関係が持つ欠性対立の一種としての非対称性を明らかにした。筆者は、この議論によって問題は男女「平等」ということ以上に差異化のメカニズムであり、たてまえの平等イデオロギーが非対称性を隠蔽してしまうことであることが明確になったと考えている。

 

05 差異の政治学

 

 フェミニズム批評は、あらゆる言語表現(言説)にはジェンダーの差異化が潜んでおり、そこからは誰も逃れられないと考え、またあらゆる生活の中で見えない規範が身体を管理するミクロな政治学に注目し、「主体的」と思われる行為の中に働く微視的な権力を分析する。

 

 歴史を「テクストの織物」とみなすスコットは、歴史学の分野の中に女性史を確立するのではなく、歴史学全体を「肉体的差異に意味を付与する知」としてのジェンダーの視点から再構成し、差異化を生み出す知の政治的な機能に着目し、その政治性を暴露しようとしている。

 

06 ポスト構造主義のジェンダー論

 

 ポスト構造主義フェミニストは、「生物学的決定論」と「生物学的基盤論」を峻別し、後者に基づいて社会構築主義の立場を取り、ジェンダー間だけでなくジェンダー内の差異にも注目する。さらには、あらゆる境界形成の実践の中で生まれる多様性をめぐる微分化された政治とそれを支える言説の再生産過程の分析をめざす。

 

 バトラーは徹底した言説決定論に立ち、ジェンダーとセックスの違いという言説自体をもジェンダーの効果として考えていく。したがって、物質・身体としてのセックスと言説・文化としてのジェンダーの二元論を前提とするウィティグのような考え方を「実体の形而上学」として批判していくのである。

 

 バトラーは、「ジェンダー化された身体」という従来のジェンダー概念を転倒して、「セックス化されたジェンダー(身体)」という概念を提起した。それは、言説実践としてのジェンダーが常に先行して、身体やセックスを自然化し、その起源を封じてしまう効果を持つという主張につながる。したがってバトラーは、そうしたセックスや身体の自然化・物質化の歴史を問うという、「性の系譜学」を遂行していくのである。

 

07 終わりに

 

 すべての差異化は権力関係や政治を含んでおり、ジェンダー概念はその政治性をよく示している。差異化を逃れることはできないが、変えていくことは可能であり、そうした対抗的な政治実践を行うことは重要である。

 

【コメント】

 

 

(芝崎厚士)

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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