研究ノオト50−4 気流の鳴る音(III)
2003/08/09第1稿
【テクスト】
真木悠介「III 「統御された愚」―意志を意志する」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫、2003年。
【目次】
III 「統御された愚」―意志を意志する
01 意志は自分に裂け目をつくる
02 自分の力から身を守る楯
03 死のコントロール
04 古い楯が使えなくなる
05 意志を意志する
06 舞い下りる翼
07 風の吹く場所
【内容】
III 「統御された愚」―意志を意志する
01 意志は自分に裂け目をつくる
ここまで見てきたことをまとめてみると、
(1)人は「特定の型どり」の中で安定して生活することができる。
(2)そうした意味が安定して自明な世界と自己とが相対して存立しているのが<トナール>である。
(3)その中で得られる「明晰」は自己完結的なもの、目の前の一点に過ぎない。
(4)「世界を止める」とは、そうした自明性や自己完結性から自己を解放することである。
(5)具体的にはまず、エポケーに似た作用によって<トナール>の自明性を突き崩すことになる。
(6)ただしそれは言語のみならず身体性、さらには生き方の水準にまで貫徹されなければ、真の解放とはいえない。
そこで登場する<意志>とは、人間と世界を結ぶ真の絆であり、常識そのものへの挑戦とでも言ったような内容を持つ。そもそも「私」や「自我」には、自分を守ると同時に囲い込んでしまう両義的な性格がある。意志を意志するとは、「世界」と同時にそうした「自己」をも超越するすべを身につける(それだけではないが・・・)ことを意味する。
02 自分の力から身を守る楯
意志を意志する、とは、自らと世界に裂け目を作ること、と同時に、その裂け目を閉じる力でもある。そのために戦死は、自分の世界を作っている項目を選び出す、とドン・ファンは言う。またそのことを「力を狩る」という言葉でも表現しているが、これは、<ナワール>へと裂け目を作ることができる力は、我々を異世界へと導いてくれると同時に、この世界から連れ去ってしまいかねない、という両義的な力を持っているため、それをコントロールできるようにする、つまりは自分であることを守り、自己解体を避けるようにしなければならない、ということである。
03 死のコントロール
(1)トナールにおける生はどんなものであり有期のものであるが、ナワールは永遠である。
(2)そうした観点から考えると、死とは完全な消滅ではなく、実質の形態をこえた拡散、という意味合いを持っている。
(3)普通人々はそうした考えはとらず、自らの死、そして人類の死をカッコに入れて暮らしている、いわば<死のないひとびと>である。
(4)いっぽう呪術師はナワールへ飛び立つことができ、個体性の限界からの拡散的越境が可能である。
(5)しかしナワールの力は前述の通り両義的である。
(6)したがって、遠心力と凝集力のバランスをとる力が必要であり、それが意志であり、意志を鍛えなければならない。
(7)こうして、戦士は凝集―解体―再凝集をコントロールしえてはじめて戦士足り得る。
04 古い楯が使えなくなる
(8)通常は「人のすること」によって個体性を防禦している。
(9)しかし戦士の力は通常の人よりも遙かに強いので、「人のすること」ではもはや自己解体を防ぎきれない。
(10)そこで新しい楯が必要になり、それを「コントロールされた愚かさ」と呼ぶ。
05 意志を意志する
統御された愚、を持つ戦士にとって、あるのは生きるべき生活のみであり、それ自体が充実しており、そこでの成功や失敗、勝利や敗北はなんの意味も持たない。こうした解脱と愛着が回帰する構造を持つことが、目的自体を自己決定する力を持つことであり、自己の欲求の主体であることであり、自由であることなのである。
06 舞い下りる翼
かくして、意志を意志することによって、積極的な主体性が確立されることになる。
07 風の吹く場所
そして、自己自身の全体性に到達できるようになった人間は、どこに下りたつのか。
【コメント】
【コメント】(後日まとめて行います)
(芝崎厚士)