研究ノオト50−3 気流の鳴る音(II)
2003/08/08第3稿
【テクスト】
真木悠介「II「世界を止める」—<明晰の罠>からの解放」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫、2003年。
【目次】
II「世界を止める」—<明晰の罠>からの解放
01 気流の鳴る音
02 音のない指揮者
03 ドン・ヘナロが頭で坐る
04 呪者と知者
05 世界を止める
06 明晰の罠
07 対自化された明晰さ
08 目の独裁
09 焦点を合わせない見方
10 しないこと
11 ねずみと狩人
12 窓は視覚を反転する
【内容】
II「世界を止める」—<明晰の罠>からの解放
01 気流の鳴る音
ペヨーテ集会でカスタネダが経験したのは、<見る>ということであった。この<見る>という言葉に、「世界を止める」という際の重大な鍵がある。
02 音のない指揮者
音を絞って見る指揮者の動き、「・・・がえり」「・・・ぼけ」などの表現にみられるのは、我々の感覚の限界線の陰画である。
03 ドン・ヘナロが頭で坐る
何でもかんでもノートに書き留めようとするカスタネダを見て、ドン・ヘナロは頭で座ってみせる。それは直接には、書くことで呪術師になろうとすることを頭で座ろうとすることとイコールだと皮肉ってみせているのだが、そこにはマルクスのヘーゲル批判を思い起こさせるような、文字による文明の歴史全体に対する批判がある。
しかしドン・ヘナロの教えの核心は、自世界による他世界の独断的矮小化を避け、自世界を絶対化しないこと、にあると思われる。
04 呪者と知者
<見る>は英語で言えばseeであり、<ながめる>lookに対置される意味合いで使われている。<見る>が生じるのは、世界と世界の間に入り込んだ時(ナワールとトナールの間に。。。)である。そこで重要なことは、(1)今までいた世界の自明性をつきくずすこと、であるが、同時に、(2)つきくずす側の世界を絶対化しないこと、である。
05 世界を止める
「世界を止める」は、フッサール、ストロース、マルクスらがそれぞれの分野で行った「エポケー(判断停止、判断中止)」とでもいうべきものである。それは当たり前に思えるものをそうでないように考える「異化作用」を伴っており、一見異様に思える物が自明であることを成り立たせる「かくされた第三者」を見出すことを伴う。ドン・ファンの教えには、フォイエルバッハ・テーゼに通底するものがあるのである。
(1)異世界を理解すること
(2)自世界の存立を理解すること
(3)実践的に自己の「世界」を解放し、豊饒化すること
が<世界を止める>こと、自己の生きる世界の自明性を解体すること、に連なるのである。
06 明晰の罠
知者には4つの敵があるとドン・ファンは言う。それは(1)<恐怖>(2)<明晰>(3)<力>(4)<老い>、である。
明晰とは、「ふける」(indulgence)ことであり、ここでは合理的説明への強迫とその中での自己完結、自足、統合された意味づけ・位置づけの体系への要求である。
それに対抗するために必要な<意志>とは、自明性の世界と、それをつきくずす世界、どちらの自己完結性にもふけらずに主体性を保存する力、である。
07 対自化された明晰さ
そうした<意志>を持つことが、「明晰」を対自化できる力、いわば真の<明晰>、「明晰」自体の限界を知る力なのである。
08 目の独裁
「群盲像を撫でる」の諺が前提にしているのは、目の世界の唯一性、優秀性であるが、それはいわば目の独裁をも生みかねないものであり、そこから<生きること>と<知ること>の乖離も生じる。
09 焦点を合わせない見方
目の独裁から自己を解放する手段として、「焦点を合わせない見方」がでてくる。ここでは「見ないで聴く」「音の中の穴を見つける」というレッスンがなされる。こうしたところから、図と地の明確な分化を前提にした世界から自己を解き放ち、世界の地を<見る>ところへと向かうことになる。
10 しないこと
次に重要なのは「しないこと」、「わたしがやり方を知っていることをしない」ことである。葉の影や、葉と葉の間に注目すること、などによって<見る>が身体性の水準で実践される。ここでは、<することをやめる>が世界を止めることであるが、同時に、<しないこと>自体を<すること>にしてはならないという事が重要である。
11 ねずみと狩人
ドン・ファンはサイレンのまねをして、カスタネダの「型にはまった精神」をからかって見せる。自分自身を自分の獲物のようにするのをやめる、履歴を消す、まわりに煙幕を張る、ことなどによって、「ウサギがどこにとびはねるか誰も、わしら自身にさえわからないようなすばらしい神秘的な状態」に自らを導くことが、<意志>を持って<見る>、世界を止めるということなのだ。
12 窓は視覚を反転する
ausshalten としての「世界を止める」作用は、言語、身体、行動、さらには生き方の水準にまで透徹することで初めて、その人を解放し、よりよき社会を構想する実践たり得るであろう。
【コメント】(後日まとめて行います)
(芝崎厚士)