研究ノオト50−1 気流の鳴る音(序)

2003/08/04第1稿 2006/08/14第2稿

 

【テクスト】

真木悠介「序 「共同体」のかなたへコミューン構想のための比較社会学・序説」『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫、2003年。

 

【目次】

 

序 「共同体」のかなたへコミューン構想のための比較社会学・序説

 1 ラカンドンの耳

 2 紫陽花と餅

 3 マゲイとテキーラ

 

【内容】

 

序 「共同体」のかなたへコミューン構想のための比較社会学・序説

 

1 ラカンドンの耳

 

01 

 

ラカンドンの人々が示すような驚異的な視覚や聴覚を、現代文明に生きる我々は喪失している。それは人間同士、または宇宙や自然に対する感覚の喪失でもあるだろう。そうした感覚が失われても、その中で自己充足的な明瞭さの中に自足し、安住してしまえば、それが失われたことにさえ気づくことはない。

 

02

 

近代文明を越える未来の社会を構想するには、近代以外の文明を導きの糸にすることと、近代を否定するのではなく相対化することが必要であり、重要である。

 

2 紫陽花と餅

 

01

 

「労働力が強制されない」、人が仲がよいから平飼いのにわとりも仲がよい、といったような、山岸会でみられるような自然と人間の連動性が教えてくれるのは、新たな社会を構想するには、人間と人間の関係の変化だけでなく、人間と自然の関係も変化しなければならないことであり、そのためには人間論だけでなく、自然論、宇宙論、存在論を包括していかなければならないのである。「殺風景な社会はかならず自己の周囲に殺風景な自然を産み出す」。

 

02

 

紫陽花邑では感覚が前面に出ているが、モットーは多様性・個体性である。一方山岸会では話し合いが前面に出ているが、モットーは<ニギリメシとモチ>という一体性・共同性である。こうした個体性と共同性をいかに弁証していくかということが、あらゆるコミューン論の根底にある。

 

03

 

山岸会の場合、一体性を標榜することは全体主義への危険を伴うものの、それが常に永久革命であることによって、そうした危険が回避されているところに可能性がある。

 

04

 

差別とは一つの関係性であり、差別語の扱いに見られるように、関係の実質や総体性に切り混むことなしに言葉だけを問題にすることは意味がない。

 

紫陽花邑にあるのは、存在する物への驚きの感覚であり、そうした感覚の開放性の共有という信頼である(原信仰)。そこでは言語以前の<ことば>が共有されていく。何かが見えない、きこえないというのは一つの関係性であり、そうした関係性からの解放を目指さなければならないのだ。

 

05

 

差別や権力の超克としてのラディカリティとは、素朴であることに他ならない。(ふりだし塾、永山則夫など)

 

3 マゲイとテキーラ

 

01

 

通常、我々は近代を普遍ととらえ、土着を特殊と捉えている。しかし、近代こそ特殊であり、土着こそが普遍なのである。

 

02

 

ドン・ファンの言う「心ある道を歩む」「行動そのものによって生きる」「美しい道をしずかに歩む」ということ、つまり結果や意味のみを求めるのではなく、道行きそのものを豊かにすること、欲求を禁圧し制約するのではなく、欲求を解放し豊富化すること、富や権力や栄光を欲求の貧しさとして捉えること、をこれから理解し、考えていきたい。

 

(メキシコ・インディアンの文化的相違は、最も遠いものは英語と中国語よりも異なる)

 

03

 

筆者のねらいは、<コミューン論を問題意識とし、文化人類学・民俗学を素材とする、比較社会学>であり、人間の生き方、生き方を満たす感覚の発掘である。

 

【コメント】

 

 なかなかノートが書きづらいのですが、なんとか絞り出してみることにします。

 

 人間の生き方の研究、生き方を満たす感覚の研究。ビジネストーク的な人生論ではない、学問という形でこれを追求する、というのは、今のような専門分化が進み狭隘化している研究者にとってはかなり難しいことかもしれません。しかし、何のために学問をするのか、何のために研究をするのか、と自問する場合、人間がよりよく生きることができるため、ひいてはこの世界をよりよくするために、物事をより深く、よりよく理解し、それを自分以外の人々に提示し、説明することで社会に還元する、ということ以外には学問や研究の存在理由は本来はないはずです。

 

 とはいっても、すべての研究が短絡的にそうした点に言及しなければならない、というのも無理な話ですし、よしんばそうしたとしても、本当にそれが人間や世界にとってプラスになることばかりかというと、そうでもないでしょう。真木悠介的な問題設定や議論の質は、心理的なレベルでは共感できてもそれを学問として受け止めることができない場合、あるいはそもそも今の学問ではやりきれないことをやろうとしているところに抵抗を覚える場合など、いろいろな受け止め方を惹起するような性格を持っていると思います。

 

 それに、こうした議論は、いわゆる「道のための形であるならば、道のために形を崩しても構わない」ということ、つまり学問の基礎的な土台がしっかりしているからこそ、崩しても(少なくとも本人は)もとに戻ってこれるが故に可能です。いってみれば真木悠介氏自身が自己のうちに近代社会科学という強固な<トナール>を自己のうちにはりめぐらせているからこそ、そこからふわっと、生き方や生き方を満たす感覚を追求する方に行き、しかもそれを、説明不可能なことであるといった風にではなく、近代のロゴスの圏域の中で、他者に伝達、共感可能なものとして表現できているのではないでしょうか。

 

 ただ、この議論や大森の議論のようなものを通して、科学の知の性格や限界そのものを理解することなしに、ただ「勉強」してしまえばいい、という姿勢はよく見られるので、その点では依然として、この種の議論が持つ有効性は失われていないようです。

 

 国際秩序、世界秩序の問題にしても、たとえば「極」の数で説明するとか「層」「圏」あるいは「文明」の数で説明するといったことがとても多いのですが、真木悠介の言うような意味での近代と土着、近代と近代以外(以前)の比較の視点は決定的に欠落しているような印象があります。近代以降の社会を構想するのに近代形成期から近代爛熟期の言葉やものの見方の総体の順列組み替えだけで何かを見いだそうとすることが自ずから持つ限界への自覚のなさは、そうしたところにも垣間見えます。

 

 ではそんなところで。

(芝崎厚士)

 

 

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