研究ノオト495 「ロボットと意識」(『物と心』第5章)

2003/08/09第1稿

 

【テクスト】

 

大森荘蔵「ロボットと意識」『物と心』東京大学出版会、1976年、第4章(初出1975年)。

 

【目次】

 

5 ロボットと意識

 

01

02

03

 

【内容】

 

5 ロボットと意識

 

01

 

「ロボットに意識があるか」という疑問に答えるには、意識のあるなしを決める方法が存在するのか、ということを考えなければならない。ここまでの議論からわかるように、脳波=意識、という考え方は採用できない。そもそも「意識がある」とはどういう意味なのか、また「生きている」とはどういう意味なのか。

 

「生きている」(あるいは「死んでいる」)というのは、それを示すような無数の現象の総体である、としか言いようがない。しかも、それぞれの生あるものに特有の生き方が存在しているし、さらに生き方は千変万化しており、生と死の間に明確に線を引くことなどできない。むしろそこに明確な分断を行うことは、そうした定義をしたからこそ、なのである。ゲシュタルトの区別には、こうした境界のぼけた区別という特徴がある。「生きている」とは、いわばコングロマリット的なゲシュタルトなのである。

 

したがって、「生きている」かどうかについて決着をつける方法は、実はわれわれに任されているのであって、決定的基準は不在であり、一意的な答えはないのである。

 

02

 

 では、「意識」についてはどうであろうか。ロボットの意識の前に、まず他人の意識を考えてみる。そこでわかるのは、自分の意識を知ることはできるが、他人の意識を知ることはできない、経験することは不可能なのである。哲学においては類推、ということが考えられているが、この類推は当否の決められない、検証不可能な物である。我々は他人の意識を自分と同じように経験することはできないのであり、たとえば「他人の痛み」とは、外側に現れている状況そのもの以外のものではない。

 

 こう考えると、他人の意識は物理的事象として、自分の意識は物理的でないものとして体験しているということになり、一見奇妙である。しかし、他人の痛みとは、そうした物体運動、物理的事象であると同時に、「痛み」の相貌を持っているものだと考えればよい。相貌は科学的な正確さを持たないが、そのかわり他の種類の、質の違う正確さ(「痛み」のふるまいを見ればその他人が痛みを感じていることを見て取れること)を持っているのである。人は自分の痛みは「感じる」が、「腹痛の振る舞い」から他人の痛みを「見て取る」のである。ここに、私と他人との根本的な非対称性があるのである。

 

03

 

 以上のことから既に明白であるように、「ロボットに意識があるか」という問いは、一意的に決定的な基準によって答えを出せるような事実問題でなく、意識を周囲が、人々が認めるかどうかという権利問題でしかないのである。それは人々の知識、経験、道徳感、情け深さなどの態度の表現なのである。その意味では、いずれ、ロボットが意識を持つようになるのではないかと思われる。

 

【コメント】

 

 

【コメント】(後日まとめて行います)

 

(芝崎厚士)

 

 

 

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