研究ノオト494 「無心の言葉」(『物と心』第3章)

2003/08/09第1稿

 

【テクスト】

 

大森荘蔵「無心の言葉」『物と心』東京大学出版会、1976年、第4章(初出1975年)。

 

【目次】

 

4 無心の言葉

 

00

01

02

03

04

05

 

 

【内容】

 

00

 

「心で思うことを口に出し、耳に聞こえたことを心で理解する」という図式は、現代の言語学者も平田篤胤も採っていた図柄であるが、これは不可能である。しかしその不可能性を論じることは、迷宮の言葉で迷宮であることを示すようなところがある。

 

01 

 

「物」と「心」との関係を考察することは、哲学においては物心(心身)問題と言われてきた。デカルト的な物心二元論は、この問題が持っている性格を無理に固定的に決定しているという意味で、「哲学的ゆで卵」のようなものである。ここで我々は時枝誠記がソシュールを批判して、言語とは継起的・心的過程に他ならない考えたことを想起するべきであろう。心身問題に関して哲学は、「物」と「心」は平行論的対応関係にあると考えるが、しかし「心」は「物」のように空間的関係に立ち得ないものであって、この考え方は不可能である。にもかかわらず単なる平行性を両者の間に想定しようとするのは、「物」と「心」を分離して考えているが故である。

 

02 

 

「見る」ということを一般的、抽象的に考えようとすると、二元論的に「心」を創造せざるを得ない誘惑に駆られ、「物」を脱色化することに至る。一般的に何であるかを考えずに「見る」ということを理解しようとすれば、「心」とはすなわち世界そのものであり、世界の全状況そのものに他ならないということがわかる。つまり「内心」などは存在しないのである。

 

03 

 

それでも人は、「内なる心」が存在する、と考えたくなる。しかし、たとえば今はもうない昔の校舎、あるいは先ほど聴いた音楽、を人が思い浮かべることを考えると、それらはそのまま直接思い浮かべられているのであって、「内心」の存在を想定する必要などないことがわかる。前提として「・・・の観念」を想定する必要などなく、ただ直接それらは想起されているのである。心がもしあるとしたら、それは外側、全宇宙に存在しているのである。

 

04

 

では、気分や心地といったものはどうなのか。これらは心の中で感じられているのではないのか?しかし、「怖い歯医者」などを考えてみたときに、人は別に純粋な恐怖と脱色化された歯医者を剥離したりはしていない。恐怖の感覚とはそのようなかたちで抽出できる物ではなく、恐怖そのもの、恐怖の状況がただ存在する、ということに過ぎない。世界は有情の世界なのである。

 

05

 

言葉を使うということは、それを心の中にではなく世界の中に立ち表せることである。言い−現すことであり、それは半強制的に相手に何かを立ち現せることを意味する。そしてその立ち現れは、話し手や聞き手の表現・理解力に依存して変化する。

 

 

【コメント】(後日まとめて行います)

 

(芝崎厚士)

 

 

 

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