研究ノオト49−3 「痛みと私」(『物と心』第3章)
2003/08/08第1稿
【テクスト】
大森荘蔵「痛みと私」『物と心』東京大学出版会、1976年、第3章(初出1975年)。
【目次】
3 痛みと私
01
02
03
04
05
【内容】
01
「哲学は驚きから始まる」はアリストテレスの言葉だが、それはいわば困惑、当惑のようなものとして始まるのではないだろうか。たとえば「私が痛みを感じる」という状況があるとき、「痛み」を物理化学的に描写することはもちろん可能である。しかし、よく考えると、物理化学的描写の中には「痛み」は不在なのである。さらに、そうした痛みを感じる「私」はいったいどこにいるのであろうか。
02
普通、物は空間的な広がりを持つと考えられている。しかし、短い棒の「短さ」や悲しい顔の「悲しさ」の居場所を特定の空間に定位することはできない。全体的相貌は当の物の場所に「在る」ということはできるが、それは「拡がり」としてあるのではないのである。
「私」は「ここ」に「居る」ということを考える際にも、同じ事が言える。その在り方は一種のアニミズム的なものであって、「普通の物」の「拡がり」の在り方ではないのである。こうした当惑に陥る原因は、「ただの物体」と「私」を引きはがして考えたことから生じている。これはいわばある特定の時代に通用する「文化運動」のような物に過ぎないのである。哲学は人間生活の根に吸着するものであり、その意味で原始性を持っている。それ故に、知識の蓄積や発展を事とする科学に対して、哲学は行為としての性格を持つ。
03
「私」と「私の体」の分離が、こうした誤りの出発点である。そこでは(1)「体」と「物」は別であるという常識、(2)「体」と「物」を同一視する二元論的発想、がありえるが、(1)の道をとったとしても、「私」と「身」を分離することになってしまい、(2)と同じデッドロックに逢着する。
04
こうしたことが錯覚であると思われる。つまり感覚は「私の心」の中にあるのではなくて、五体の外側に存在するのである。外側の存在を批判する立場に立つとすると、洞窟の比喩や引きはがしなどを採用せざるを得なくなってしまうのである。それらはすべての事物を「ただの物」と見る文化的偏執に過ぎない。
05
科学的描写と相貌的描写は、私を規定する2つの描写であり、その意味では等価であり、前者が原因で後者が結果であると想定する必要はない。
【コメント】 (後日まとめて行います)
(芝崎厚士)