研究ノオト492 「科学の罠」(『物と心』第1章)

2003/08/05第1稿

 

【テクスト】

 

大森荘蔵「科学の罠」『物と心』東京大学出版会、1976年、第2章(初出1974年)。

 

【目次】

 

2 科学の罠

 

00 (はじめに)

01 常識の罠

02 風景の相貌

03 状況の「抜き描き」

04 科学技法の罠

05 共変

 

 

【内容】

 

2 科学の罠

 

00(はじめに)

 

 科学自体が罠なのではなく、科学の理解の仕方に罠がある。その罠を脱却するためには、罠へのはまり方を理解する必要がある。罠へのはまり方は、科学の場合も常識の場合も同じであるので、まずは常識についてみてみよう。

 

01 常識の罠

 

 罠の第一段階は、「離れたところにある本箱が見える」という状況の理解の仕方から生まれる。これを近接作用、つまり何らかの仲立ちがあるために見える、と常識では考える。プラトンやデカルトもそう考えた。

 

 これは遮断や反射などをうまく説明してくれるように見えるが、(1)私に届くのは本箱ではなく本箱からの通信であり、(2)私はそれを本箱の場所へ投げ返す、という投射を行う、ということになるが、その投射の仲立ちを考えることができない。つまり往復の往きである(1)に仲立ちありの近接作用として、帰りである(2)は仲立ち梨の遠隔作用としてとらえざるを得なくなる。さらに、本箱から、という出発点自体が最終的に見える本箱である、という循環的な構造を持っている。

 

 こうした奇妙な状況を避けるために第二段階の罠に落ち込むことになる。それは、旅の始まりを「実の本箱」とみなし、旅の終わりの見えている本箱を「実の本箱の「像」」だと考えるやり方、つまり実物と像を剥離する手法である。こうした「実物像」の剥離は、(1)実物は元通りなのに像が様々に変わる、(2)見間違え、(3)幻視、幻聴、幻覚、(4)記憶、空想などを列挙する錯覚論法によって妥当であるように見える。しかし錯覚論法は、異常例から正常例への根拠のない拡張、罠のへのはまり方の列挙に過ぎない。

 

 この罠の仕掛けは、「実物」への手がかりが皆無になること、である。つまり本当は、「実物」と「像」があるのではなく、「像」の中に「実像」と「虚像」があるだけなのである。にもかかわらずこの罠にはまり続けるとしたら、不可知論・懐疑論を主張するか、実物に対する証拠抜きの確信を持つか、しかない。ロックやデカルトは後者を選んだが、問題を乗り越えてはいない。他には、実物と像の一致を「仮説」ととらえて、整合性を論証することでその妥当性を保障するということになるが、ここまでいくと現象主義的であると考えることができる。

 

02 風景の相貌

 

 「風景」=「われわれに見え、聞こえ、触れるもの」

 「相貌」=「見え姿」「聞こえ」

 

 と呼ぶ。相貌は全体性を持っている。相貌はその相貌を持つ全体の相貌であり、分散的には所収されない。全体の部分の相貌は全体の相貌とは別である。相貌は完全に個別的である。

 

 また、相貌は、さらに強い全体性、すなわち一つの風景の一部が持つ相貌は、その風景全体の相貌から孤立的に切り離すことはできない、という性格を持っている。これは空間的にも時間的にも言える。

 

 空間的には、家と風景のたとえでいえば、あらゆる風景から孤立した、その家固有の相貌はありえず、必ずある特定の風景の中の相貌でしかない。つまり、部分の持つ性質はその部分固有の孤立した性質ではなく、特定の全体の中でのみ意味のある性質である。このことは、全体は部分の和ではない、という状況ではない。なぜなら全体に先立つ和の項自体がないからである。時間的にも、ある時間はその特定の日の生活の中の時間としてしか記述できない。

 

 さらに大きな全体性から考えてみると、一つの風景全体の相貌自体が、「私に見えている」という状況全体の中での相貌であるに過ぎないのである。つまり、私が見ている、とかその時の私の気分に関わりのないような風景固有の相貌などないのであるし、だからこそそうした風景固有の相貌(無情の風景)が私の見え方や気分で変調される、と考えることはできない。にもかかわらずこれらを分断しようとすると、二元論的な把握に陥るのである。

 

03 状況の「抜き描き」

 

(1)すべての風景(視聴味触匂)は相貌を持つ。

(2)その相貌について語ることはその全状況(全体験)について語ることである。

(3)全状況から切り取られた相貌について語ることはできない。

(4)本箱の相貌は、「その本箱が私に見えている」という全状況の中での相貌であり、本箱固有の相貌ではない。

 

 以上のことから、異なる状況を通して中立不変な本風景はありえない。

 

 しかし、点位置は不変であり、客観的である。それゆえに「本箱の点位置」という分断的表現は可能である。点位置は状況全体から孤立的に記述し、孤立的に計測可能であり、それは状況全体の部分的性質である。

 

 点位置による孤立的描写と相貌描写はともにある状況の部分的描写、抜き描きである。それは同じ状況の異なる描写に過ぎず、上下関係はない。しかしロックやデカルトがそうであるように、そこに上下関係を想定しがちである。それは、(1)点位置の私からの独立性、(2)点位置的性質の事物的存在との密着性がなせる業であるり、人は相貌描写を付加的な物、点位置描写を規定的・本質的なもの、と考えがちなのである。

 

 しかし、上下関係を想定したくさせる誘惑(デカルト、ロック的な哲学)と、実物像で考える罠(自然科学)とは相互に独立であり、そうした哲学と科学とは切り離して考えることができるはずである。

 

04 科学技法の罠

 

 科学固有の哲学とは、「世界は人間の知覚とは独立である」というものである。本当はこの哲学と科学の描法は切り離しうるのであるが、それを切り離さないことによって罠が生じたわけである。

 

 世界の知覚からの独立性、に沿って科学を考えていくと、まず色、手触りなどの知覚語や相貌語をすべて排除することになる。そして、幾何学語や運動語を用いることになり、そこでの理解は「思う、考える」によって行われる。

 

 ここで重要なのは、(1)幾何図形は知覚とは無関係である、(2)知覚形状の理解は幾何図形の理解を必ず含む、ということである。

 

 知覚描写における「見え」と、科学描写における「考え」とは、質の違う描写に過ぎず、上下関係はない。一つの知覚状況は相貌的にも点位置的にも科学的にも描写可能である。そして全体的なのは相貌的、孤立的なのは点位置的、科学的描写であり、「見え」描写なのが相貌的、点位置的、「考え」描写なのは科学的描写である。そして三種類とも「抜き描き」であり、補完的な性格を持っている。

 

 にもかかわらず、科学描写は知覚状況とは別種の何かの描写であり、事実を完全に規定するということで罠にはまっていき、実物像の剥離を受け入れることになる。しかし実はこれらの描写は連言関係にある。

 

05 共変

 

 しかしいくつかの疑問は残る。

 

 第一の疑問は、相貌描写と科学描写のずれであるが、物と影の身分が同じであるということから氷解してしかるべきであろう。

 

 第二の疑問は、知覚因果説に代表される生理学的事実である。しかし、全体の一部に物理的変化(点位置的変化)が起きることによって全体の相貌、その他の部分の相貌が共変変化を考えれば、これも考え直せるのではあるまいか。

 

 

 

【コメント】 (後日まとめて行います)

 

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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