研究ノオト491 「科学の地形、と哲学」(『物と心』第1章)

2003/08/04第1稿

 

【テクスト】

 

大森荘蔵「科学の地形、と哲学」『物と心』東京大学出版会、1976年、第1章(初出1968年)。

 

【目次】(小見出し名は芝崎が勝手につけたものです)

 

 01 科学と哲学の関係

 02 哲学的議論の特性

 03 「見る」「知る」

 04 「実は」の描写

 

【内容】

 

 01 科学と哲学の関係

 

 自然科学的な描写は物理的世界を描写するが、知覚風景を描写することは出来ないし、物理的世界とその知覚がどのようにして「重ね描き」されるかを自然科学は説明できない。物理的状態と日常経験の知覚とは分離されており、それが重ね合わせられている。哲学の特徴は全体性、包括性にあり、人間の活動の全体から見て、科学の活動を定位しようとすることが哲学的議論の役割となる。

 

 02 哲学的議論の特性

 

 自然科学による描写を定式化すると、

 

主観(物理的)対象現象(認識)知覚作用

 

 という構成から、対象と現象を抽出し、対象だけの世界を描き出している、ということになる。そして、そこから、対象と現象を重ね合わせるさまざまな議論が生じていく。まず、その問題自体が持つ問題としての物理的対象がもつ「超越」性の問題で、そこでは「あらわれるもの」(対象)は常に「あらわれ」を超越しており、直接には与えられていない、というパターンで語られる。

 

 次に、その問題を議論する際の問題で、第一に、対象と現象の二元論に立った場合で、(1)現象を「超える」対象の「可知性」の問題、(2)推論または類比による可知性の問題が生じ、結果として対象についての知識(新理論)の問題に直面する。これに対しては、真理の整合説や信念・常識の動員、あるいは現象主義の誤りの指摘などがなされる。る。

 

 第二に、現象のみの一元論を取った場合で、この場合「可知性」の問題はなくなるが、対象を現象だけから構成せざるを得なくなる。そうなると、唯名論や、実体属性の対置の問題がそうであるように、内包を外延に還元しようとする還元主義に陥ることになるが、そこで問題になるのは「無限」の問題、つまり還元主義的に無限集合を作ろうとすると、そのために還元される集合が必要になってしまう、ということである(意味は必要だが存在は不必要である、と言い抜けることは出来る)。

 

 哲学的議論の第一の特性は、「すべてのものについて、それを人間の経験全体の中に定位しようとする」点にある。科学的事実が精密に定位された科学全体を人間の経験全体の中で定位しようとすることはそこから生じる。哲学はそういう意味で十把一絡げ的な包括性や全体性を持っているが、その定位は定位自体をも定位する必要があるという自己環帰的な循環を伴ってしまうが故に、無限退行を免れ得ないものである。

 

 第二に、経験全体の中での定位は、その全体の中で占める場所を述べ、その場所を描写すること、である。つまりあくまで記述・描写が主眼である。ここで重要なのは、論証や証明は副次的な手段に過ぎないということである。論証や証明とは、前提から帰結を論理的に演繹することであって、前提で述べたことの全部または一部を、言葉を換えて言い換えること、以上のものではなく、いわば整合性の点検を持った記述以上のものではない。

 

 「なぜ」「だから」で成り立つ問答をきりなく続けることには意味がない。哲学はそれらの根底にある事実描写を獲得するという困難な作業を担うことになり、哲学の根本は「なぜ」を連発することではなく、人間の経験全体の根本的事実が「いかに」あるかを見定めようとすることにあるのである。

 

 03 「見る」「知る」

 

 「見る」「知る」をどう定位するか。二元論的な発想に立つならば、<ランプの姿>と<「見る」はたらき>という分節、つまり「見られるもの」と「見るはたらき」(「見ること」)を区別することになる。

 

 この分節を前提にすると、第一に「はたらき」の性格を分析するにあたって、(1)受動的なはたらき、(2)積極的なはたらき、という可能性があり得るが、多くは後者を取り、(1)無垢の「もの」がある、(2)それに「はたらき」かけて、その素材が加工されて、(3)われわれが「見る」ものができあがる、と考える。これが合成主義、または加工主義である。

 

 合成主義・加工主義の立場には、無垢のもの、に対して一言も規定できないという難点がある。しかし実際の経験に即すと、また言語に則すと、この考え方は説得的に見える。主観認識作用客観。さらに、「知る」「考える」「想像する」などの場合、そして非在のことに関する心の「はたらき」を考えると、この説はさらに説得力があるように思えてくる。

 

 しかし、現象と対象の癒着を説明できないこと、無垢な素材の規定不可能性、主観の存在の曖昧さ、そして「はたらき」が「見る」「知る」を実際には何も説明していないことからすると、合成主義・加工主義は崩壊せざるを得ないのではないだろうか。

 

 04 「実は」の描写

 

 言語による分節には罠があり、実際には、「私がAを見る」という事態は、一体で不可分な副詞的限定の積み重ねとして考えることが出来る。また、「理論的説明」を、という強迫も作用したように思われる。そこには二重の誤りがある。

 

 科学的説明の本性は、理論からの論理的演繹にあるのではなく、よりよい事実の描写によって、より粗い事実描写に置き換えることにある。つまり、「実は・・・」という時の「実は」の描写なのであり、得体の知れない理論的概念や極限概念を組み立てて、事実のからくりを説明することではない。そして哲学もまた、そうした描写をめざすものである。

 

 一体主義的なものの見方は「実は」の描写である。しかしそれは、常識や科学からみればグロテスクなものであり、緊張した凝視を必要とする、見えていることがその命でありその存在である風景へ向かうことである。こうした見方で科学や常識の物の見方を置き換えることが出来るかどうかが、哲学的議論の、少なくとも本書の目的なのである。

 

【コメント】

 

 私は大森荘蔵を、晩年の著作から読み始めたこともあって、この1968年の議論を読んでいて、「ずいぶん堅いなあ・・・」と思いました。しかし、これを繰り返し繰り返し論じていくうちに、少しずつ議論が透き通っていくというプロセスを考えていくと、学問的成熟とは何か、ということについてとても示唆に富んでいるようにも思えます。

 

 第一に、哲学という営為が持つ意味について、大上段から規定している点に惹かれました。ある対象を人間の活動全体の中で定位すること、そしてそれは常に無限退行の危険を伴うような営為であるということ。私が思うに、こうしたことを考えることは、「哲学」という専門分野だけの専売特許ではなく、むしろさまざまな学問分野がそれぞれの局面において、自らが属する学問的営為を人間の活動全体の中で位置づけていく仕事としてあるべきのではないか、とも考えます。私自身が、国際関係研究という営為が持つ意味を考察しようとすることもまた、おそらくこうした思考からヒントを得ているように思います。

 

 第二に、論証や証明という行為が学問の中で持つ意味、という点に対する考察にも、改めて思い知らされることが多いように思います。『流れとよどみ』における「論理的であるということ」という考察はすでになじみ深い物ですが、真理の整合説という文脈から論理・証明という手続きが持つ位置、「なぜ」「だから」という問答と「いかに」という描写の差異という観点から見た「実は」の描写の規定的な重要性、などは、高度に専門分化しつつある現在の社会科学が学問としての学問と化しつつある状況の中で、見失われていったことのように思えるのです。理論というものに対する理解が、否定であれ肯定であれかなり素朴になっていることの危険を感じることが多いのですが、こうした思考からそうした文脈に対する強靱な介入の糸口がつかめそうに思うのです。それは近代合理主義に対するポストモダニズム的な知のイデオロギー暴露やそれを受け付けない無邪気な実証主義の肯定の双方に対して、有効に機能しそうな気さえしている次第です。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

Home 演習室へ戻る