研究ノオト48 経済学における人間像

2003/07/16 第1稿

 

【テクスト】

 

金子勝「経済学における人間像」『反経済学 市場主義的リベラリズムの限界』新書館、1999年所収。

 

【目次】

 

01 欲望の解放体系

02 ホモ・エコノミカス批判の陥穽

03 なぜ批判経済学は体系化されないのか

04 市場効率性のイデオロギー

05 リスクと自己責任

06 自己決定権と社会的共同性

07 モラルハザードとインセンティブ

08 社会発展の多様性を認める枠組み

 

【内容】

 

01 欲望の解放体系

 

 主流経済学(ここでは新古典派、およびゲーム理論ないしは情報の経済学)は、「人間は絶えず自己利益(自己の公用)を最大化しようと行動する合理的経済人(ホモ・エコノミカス)である」という前提から出発する。そして、その前提に基づいて人々が相互に独立に、限られた予算制約の下で効用や利益を最大化しようとすると、市場メカニズムがそれらを自動的に調整して、最適な資源配分を実現するので、市場競争の中での欲望の最大限の解放によって、経済社会が最も豊かになると考える。

 

 こうした主流経済学に対する批判は、現状の悪化し続ける事態を背景に、さまざまな形で行われている。そしてその批判の焦点は、ホモ・エコノミカスと呼ばれる人間像の問題に帰着する。しかし、それに反発したり批判したりすることはたやすいが、そうした反発や批判は必ずしも有意義であるとは言い難い。

 

02 ホモ・エコノミカス批判の陥穽

 

 ホモ・エコノミカス批判には、以下の3つの典型的なタイプがあるが、それぞれ問題点を持っている。

 

 第一の批判は、人間の経済合理性や合理的判断に限界を認め、慣習に従った経済行動を重視する。しかし、制度やルールが不安定な構造変動期には、慣習に依存した行動が不可能となり、慣習的行動に依拠した説明はできなくなり、結局ハイエク的な成り行き任せの結論に落ち着かざるを得ず、政策的なインプリケーションが出てこない。

 

 第二の批判は、合理的選択を内在的に批判して、効用の選択と権利の選択を置き換え、ケイパビリティの観点から貧困の問題を考察する。しかし、内在的批判であるが故に方法論的個人主義に依拠した合理的選択理論自体を脱却し得ていないし、市場が不安定化した状況を分析し得ない。

 

 第三の批判は、方法論的個人主義を脱却して、中間団体を含めた市場と「コミュニティ」の関係を考察するものである。主流経済学の中にも企業組織を問題とするものも出てきている。しかし彼らの中には方法論的な一致点がなく、取引費用の経済学などの主流経済学の発展型もまた、実態にそぐわない分析を行っている。

 

03 なぜ批判経済学は体系化されないのか

 

 批判経済学が体系化しえないのは、批判に徹するあまり政策的インプリケーションに欠け、現実問題に批判を適用する努力が欠けていることが理由としてあげられる。したがって、政策的インプリケーションを導く必要があり、そのために解決すべき問題を特定する必要がある。ここで問題とは、新古典派の市場モデルによって市場は不安定化して人々が耐え難いリスクを背負っているということであり、それを解決するためには、市場古典派が前提としている人間像とは何かを理解する必要がある。

 

04 市場効率性のイデオロギー

 

 市場効率性のイデオロギーとは、経済的な困難を解決するには規制を緩和して市場競争に出来るだけ近づけることが最善である、という考え方である。こうした「ユーとビア」状況の設定の妥当性は反証不可能であり、その意味ではマルクス主義の裏返しに過ぎない。ただしそのことを指摘すること以上に、この考え方を実現しようとすればするほど結果は全く逆で、市場が不安定になったり麻痺させたりするのは何故かを理解する必要がある。

 

05 リスクと自己責任

 

 新古典派経済学は、本源的生産要素という資源を、市場メカニズムが最も効率的に配分すると考えるが、筆者は本源的生産要素が市場経済に限界をもたらす、すなわち弱者を市場から次々と脱落させ、ひいては市場を麻痺させてしまうと考える。バブル破綻後の状況においては、金融機関が弱小なものから連鎖的に破綻したが、主流経済学は公的資金の導入というセーフティー・ネットを利用することを正当化できない。

 

 主流経済学の規制緩和論が前提としているのは、市場競争下では失敗のリスクを自ら負う「自己責任」によって、市場競争が促進されて効率が高まる、ということである。しかし現実には、銀行経営者、企業経営者、消費者のそれぞれが自己責任を負おうとするための行動が、デフレスパイラルを深刻化させてしまう。これはいわゆる「合成の誤謬」であり、それが生じるのはホモ・エコノミカス的な人間像に基づいた制度設計を行ったためである。したがって、制度設計の基盤となる人間像の再設定が必要で、その際には、特に自己決定権と社会共同性の関係性や市場とコミュニティの関係性が重要となる。

 

06 自己決定権と社会的共同性

 

 規制緩和によって市場競争を高めることが自己決定権を保証すると主流経済学は考えている。しかし実際には、規制緩和によってセーフティー・ネットが外されていくことで、人々に可能な主体的な選択の幅はどんどん狭くなってしまう。それはケインズの「美人投票」論の通り、自分自身の決定であるというよりも、他人の決定と相互依存した、実際には何も決定しないような自己決定になってしまうのである。

 

 人々が自己決定権を確保するには、社会の変化に合わせた形でセーフティー・ネットを張り替えていくことが必要である。さらに、社会の変化に見合った公正な制度やルールが必要である。重要なのはコミュニティに基づいた社会的共同性に依拠することであり、それとのかかわりにおいて「自由のために共同で無制限の自由を自己抑制しなければならない」というパラドックスを引き受けていくことである。

 

07 モラル・ハザードとインセンティブ

 

 主流経済学の「情報の経済学」においては、「情報の非対称」が存在するところにモラル・ハザードが生まれるので、市場競争へのインセンティブを高めるために規制緩和によるセーフティー・ネットはずしを主張する。しかしこれはモラルや公共性の問題を直視していないため、セーフティー・ネットを外した結果モラル・ハザードが発生してしまうという現状と食い違っている。

 

 経済全体およびそれぞれの要素は、人々の「共同主観」によって成り立っている。そして「共同主観」は、セーフティー・ネットが公共的課題に対応しているかどうか、社会的公正を満たしているかどうかによって変化していくのであり、それに併せてセーフティー・ネットを張り替えていくことが必要である。結局経済合理性を前提とする人間像の置き方が、インセンティブ理論の誤りを引き出しているのである。

 

08 社会発展の多様性を認める枠組み

 

 「普遍」に依拠した経済学自体が、アングロ・アメリカン社会に由来する「特殊」なものに過ぎない以上、市場を支える社会的な制度の多様性の余地を残しておくことが、世界の多様な社会のあり方に即した経済のあり方を構想する可能性を切り開くのであり、経済学はそうした社会発展の多様性を保証する通文化的枠組みを必要としている。

 

【コメント】

 

 その後メディアへの露出が急増し、著述の量も一気に増えていくことになる金子さんの99年の議論です。私は最近の著作はあまり読んでいないのですが、少なくとも思考のフロンティアの『市場』あたりまでの議論は、経済学批判とその再構築という、腰の入った内容になっていて、社会科学論としてもなかなか読ませるものが多かったように思います。

 

 ここでも、かなり大まかな要約であるとはいえ、これまでの経済学の基本的な特徴をつかみ、それをどういう方向で変えていくべきかという指針を示していくという、その後の金子氏の議論の原初的な問題設定、そして経済学の現状に対する方法論的な改善を論じる際の一つの典型として、とてもいい論文になっていると思います。

 

 気になる点はいくつかあります。まず細かい点ですが、「モラルハザード」「セーフティーネット」のように、言語では2語なのにカタカナで1語で表記するのは、あまりよくないように思いました。このノオトではすべて2語に直しています。

 

 もう少し大きい点ですが、第一に、主流経済学批判が批判として不十分である理由を説明している部分で、その理由が政策的インプリケーションが欠如しているためだと言っていますが、論理的にはそれが理由になっているようには思えないです。ここでの論理のつながりは、体系化できていないこと、現実を説明する・現実に適応することができていないこと、政策的インプリケーションがないこと、などといった諸指摘相互に置いてどうなっているのか必ずしも整理し切れていないようにも思えます。

 

 それに、人間像を再設定する、ことと、政策的インプリケーションを向上させることとは必ずしも相関するとは限らないように思えるし、また、政策的インプリケーションが上がることと体系化の度合いが進むこととの間の関係も、不明瞭であるように思います。そもそも、政策的インプリケーションを向上させれば、それがよりよい学問となりうるのかどうか、という点も含めて、考えてみる余地がありそうです。

 

 批判経済学が「体系化」しえない理由は、確かに、それが主流経済学と同じ人間像を共有している(それを批判したり部分的に修正しているとはいえ)からであるとは言えるかもしれませんね。その意味では人間像の再設定は重要だと思うのですが、個々での再設定の水準は果たして十分な物なのかどうか、というところはもう少し議論をすることが出来るのだと思います。私は金子さんの直近の主張をよく知らないので申し訳ないのですが、たとえば経済人類学的な考え方で地域通貨などに注目するようなアプローチとどういった形で、こうした議論が関わるのか(関わらないのか)という点は知りたい気がします。

 

 第二に、セーフティー・ネットの張り替えという主張、そして通文化的枠組みの促進、といった最後の方の主張と、もともとの目的であった人間像の問題との間にはややずれがあるようにも思います。

 

 この点は第一の点とかかわりますが、結局、ホモ・エコノミカス的人間像をどう再定義するのか、という最もクルーシャルであったはずの問いには十分には答えていないような気もするのです。近代的主体としての何かを変えなくても、セーフティー・ネットは張り替えられると思いますし・・・考えてみれば、現実の方が常に学問より先行するのが世の常であったりしますから(もちろんその逆の場合も少なくない・・・ある意味社会科学ならではのことのなのかもしれません)、適合的でなくなるということはむしろ当然といえば当然なわけです。

 

 考え方を変えなければならない、という主張はよく見られるものですが、変えなければならない、と言われて無理に変えることでしか変わらないこともあると思うと同時に、人に言われるまでもなく、会議で議決されるまでもなく変わっていく変化の方がはるかにあり得て現実的のような気さえしてしまいます。

 

 ではそんなところで。

 

 (芝崎 厚士)

 

 

【参考文献】

 

(金子勝)

『市場と制度の政治経済学』東京大学出版会、1997年。

『反経済学』新書館、1999年。

『反グローバリズム』岩波書店、1999年。

『セーフティーネットの政治経済学』ちくま新書、1999年。

『市場』岩波書店、1999年。

『日本再生論』NHKブックス、2000年。

『日本経済「出口」あり』春秋社、2001年。

『月光仮面の経済学』日本放送出版協会、2001年。

『長期停滞』ちくま新書、2002年。

『希望の予測』ちくま新書、2002年。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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