研究ノオト47 境界線の政治学

2003/07/15 第1稿

 

【テクスト】

 

杉田敦「政治」福田有広ほか編『デモクラシーの政治学』東京大学出版会、2002年、92109ページ。

 

【目次】

 

1 政治と非政治?

2 2つの政治観念

3 境界線の引き方

4 境界線の位相

5 境界線を越えて?

 

【内容】

 

1 政治と非政治?

 

 政治とは何かを考えるために、何を政治ではない「非政治」と考えるか、ということ、政治と非政治の境界線を考察することからはじめたい。

 

 政治は公的なものでポリス共同体の内部で自己完結し、経済は私的なものでオイコスの内部で自己完結するものであり、政治は経済とは峻別されるべきである、という考え方は、古代ギリシャ以来連綿と続いてきた。確かに政治と経済は別々の場所で行われる異なるゲームであるが、両者を分ける境界線は常に変容可能性を持つし、オイコスとポリスの重複に伴うポリティカル・エコノミーの成立によって、厳密な分離は不可能になった。ルールを共有する人々の間のゲームであり、その周囲に境界線を伴う、という意味では政治も経済も同様である。

 

 次に、宗教以外のものを政治として捉えることによって成立する両者の分離は、国家と教会の分離、ということを前提としている。しかし、宗教的なゲームの外延と世俗的なゲームの外延が一致していった結果、宗教は国家の一部となっていき、両者の分離は困難になった。

 

 こうして国家という単位に経済や宗教が重ね合わさることによって、それぞれのゲームの自立性が見失われていく。そしてヘーゲルの法の哲学が代表するように、市民社会を私的領域、国家を公的領域とみなす近代におけるもう一つの考え方へと逢着することになる。

 

 国家と市民社会の二元論とは、国家が政治的で市民社会が非政治的であるとみなす考えで、国家を肯定的に捉える場合には、市民社会は非政治的で公共性が欠如している、という批判の対象となり、国家を批判的に捉える場合には、国家は一部の支配者の抑圧であり、市民社会はより平等で公共的な存在として捉えられる。しかし市民社会と政治もともに政治的であり、どう意義付けをするとしても市民社会の政治性を否定することはできない。

 

 

2 2つの政治観念

 

 政治とは何かを考える上での前提となってきた2つの考え方は、合意論的政治観と対立論的政治観である。 

 

 合意論的な政治観とは、政治とはある一定の範囲の人々の間で合意を生み出すことであるとみなす考え方であり、合意の可能性を疑うことは政治の否定である。対立論的な見方とは、政治とは何らかの争点に基づいて人々が対立することであると見なす考え方であり、合意の模索は政治の回避であり、対立の終焉を想定することは政治の否定である。合意論の特徴は、それが常に限られた集団の間でしか成り立たないのであるが、その集団の境界の画定は、常に恣意的であり変動的である、ということである。

 

 自由主義者は合意の範囲を開かれたものとして捉える。そのことによって議会政治や民主主義が発達してきたことは事実である。しかし、そのような寛容な境界設定を行っていても、「実線の境界線」、すなわち合意から排除される人々の問題を完全に解決することはできないし、「破線の境界線」、すなわち合意の対象の範囲内での自由が実現されることによって、外部の人々が抑圧される可能性を孕んでいるのである。

 

 対立論は「外部」との間の実線の境界線を固定的に捉え、強調する。同時に内部である「われわれ」の同一性や均質性を強調し、規律権力がその維持と再生産に貢献する。その結果、境界線を本質主義的に捉えるため、「われわれ」内部の、そして「われわれ」と「外部」の間の多様性や差異に非寛容で抑圧的なものとなる。

 

3 境界線の引き方

 

 政治的な境界線の引き方には2種類がある。第一の引き方は、国境に代表される、空間における境界線である。これは「実線の境界線」であり、主権がその代表である。主権は、対外的には境界線内部のことがらに対しては独立しており、対内的には、境界の内部の全体が最上位の決定の単位である、という特徴を持っている。

 

 第二の引き方は、「われわれ」と「彼ら」という、人間の群れにたいする境界線である。その場合、人種・民族・階級・ジェンダーなどの同質性に着目して区切る方法と、同質性を前提とせずに征服などによって編入された人々を「我々」に含む区切り方とがある。前者においては国民国家、後者においてはいわゆる帝国がこれにあたる。人間の群れと空間に対する境界線の引き方は別個であるが関連を持っている。

 

 こうした境界線は国家間にのみ引かれるわけではない。シュミットによれば、ヨーロッパという空間およびその内部の人々に適用範囲が限定されていたヨーロッパ公法の適用範囲が全地表に拡大していくことによって、地表全体は安定するのではなくむしろルールの空文化・混乱がもたらされることになった。シュミットの議論はヨーロッパの歴史的経験を明らかにしているが、ヨーロッパと非ヨーロッパの境界を本質主義的に捉えている点には問題がある。

 

4 境界線の位相

 

 いかなる境界線も、合意論的な根拠からは正当化し得ない。つまり境界線は、その境界線によって排除され包摂されるすべての人々の正統な合意が先行して存在して引かれることはないのである。それゆえに境界線のあり方に対しては常に批判や異議申し立てが起こりうるのであるし、また直接分割されたわけでない別の領域の介入も生まれるのである。そしていったん引かれた境界の内部では、人々はその領域のために動員され利用される一方で、さまざまな見返りを獲得する。(やや簡略化しています)

 

5 境界線を越えて?

 

 境界線が排除の機能を果たしてきたことは明確であるが、人間がルールを共有して生活する存在である以上、いっさいの境界線を排除し否定することは困難である。したがって、境界線を廃止するのではなく、境界線の存在を意識することでそれを相対化することが必要である。

 

【コメント】

 

 すでに杉田さんの仕事を何本か読んできていることもあり、最近の議論としては特に違和感なく読めるお話になっていると思います。「全体性・多元性・開放性」もそうですが、現在の政治学の全体的な状況を総括する論文を書かせると、杉田さんの右に出る人もそうはいないと思われます。

 

 ただ、今回も気になるのは、やはり全体の状況を公平に説明はしているのですが、そこで止まってしまっているような印象がある点です。確かに、落としどころは「意識することで相対化する」という、研究者自身の内省というか自覚の問題である、というところにはあると思うのですが、そこからさらに進んで、分析をしていく必要があると思います。

 

 結局、あらゆる境界線は恣意的であり、変動可能であるとするならば、なぜそれがある時代や場所に置いて恣意的でなく、変動可能でないと観念されたか、その際にどういう論理や思想がそこにはりめぐらされたのか、を一つ一つつかみ、解きほぐしていくことは少なくとも可能であると思います。

 

たとえば真木悠介(見田宗介)氏は、自己意識というのはアイデンティティーと同じような物で、あってもなくてもよい、どちらでもよいものなのだが、人間として生きていく上では「仕方がないからもってしまっている」に過ぎない、と述べています(真木悠介「竈の中の火」)。

 

そこまではある意味、気付きは杉田さんと似たようなところにある(ただし杉田氏よりははるかに前に、ですが)とは言えるのですが、真木(見田)さんがそこから「自我の比較社会学」のような構想を出していき、恣意的であり流動的であるからこそ、それがどう「仕方のないもの」として観念されてしまうか、ということの歴史が可能であり、そしてそこから、「仕方のなさ」をよりよい方向で解き放つ、ないしはよりよく拘束される、とでも言うような可能性を見いだそうとするのに比して、杉田さんの議論はそこまで行かずに立ち止まっているように見えるのです。

 

それを価値中立的・客観的とみるか、判断停止的・日和見ないしは現状肯定的と見るかは議論が分かれるところですが、たぶんいつかはどこかに踏み出していくことが、よりオリジナリティのある学問としては問われるのではないか、とも思う次第です。

 

 ではそんなところで。

 

 (芝崎 厚士)

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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