研究ノオト43 イラク戦争

第1稿 2003/02/13

 

ウィリアム・リバーズ・ビット、スコット・リッター著、星川淳訳『イラク戦争 ブッシュ政権が隠したい真実 元国連大量兵器査察官スコット・リッターの証言』合同出版、2003年。

 

 先日900番での講演会も盛況だったスコット・リッターのインタビューとピットのエッセイで構成された本。発売1ヶ月で3刷、世界11カ国で翻訳が出ることになっているそうです。

 

 いろいろ論点があると思うのですが、いくつか思ったことを書いておきます。読みたてのほやほやで事実誤認や論理誤認があるやもしれません。間違っていたらご叱正をいただければと思います。

 

 リッターが主張している点のうち、第一に、少なくとも彼が参加していたUNSCOMがイラクで1991-1998年まで行っていた査察活動は、かなりの面で成功していたということはよくわかりました。とはいえ、リッターの主張が正しいとしても、この間のパウエル演説での主張が間違いだと言うことには必ずしもならないのではないか、ということです。

 

 つまり、リッターは「自分が調査した事実から推測する限り、ブッシュ政権のイラクに対する嫌疑は濡れ衣である部分が相当に多い」という主張をすることはできても、その嫌疑自体が100%でっちあげである、ということまでは証明できない、ということになると思います。確かにリッターの主張はブッシュ政権にとってはマイナス材料になるわけですが、リッターの主張のその部分を認めたとしても、結局リッターが事実として確認していない部分に関しては、お互い水掛け論になってしまうところがあるように思うわけです。

 

 ブッシュ政権もフレーム・アップをしているし、フセイン政権もフレーム・アップをしていることは、リッターも認めています。リッターの主張は、アメリカが、自分が100%正しくてフセイン政権が100%間違っている、という主張を崩すには十分なインパクトを持っていますが、ではこの場合何をなすべきか、何が最善なのかという点についてまでは透徹し切れていないように思えるのです。

 

 第二に、リッターの主張のうち、戦争を回避するべきである、という点については私も全面的に賛成ですが、その代わりになにをなすべきか、ということでリッターが提唱する、イラクが無条件で無制限の査察を受け入れることを前提に、イラクが査察を受け入れることと、国連やアメリカが査察を乱用しないことの双方を仲介する独立監視員を置くこと、という解決案には若干の議論の余地があると思います。そしてそのことは第一の主張の持つ問題も絡むように思います。

 

 ブッシュ政権とフセイン政権の自己正当化&相手の非難がいたちごっこであるように、査察が100%無条件で無制限に行われることも不可能だし、査察が100%乱用されることなく行われることも不可能ではないのか、にもかかわらず独立監視員を置くことでそれが実現可能だと構想すること自体にどれほどの現実的な意味があるのか、ということが問題になるような気がします。こうした独立監視員をおけるのか、それがリッターの望むように機能しうるのか、そのために何が必要になってくるのか、という点に関してより具体的な展望と実現可能性を提示しない限り、独立監視員構想は画餅に終わる危険があるように思います。

 

 ブッシュ政権が査察の効果を過小評価し、また過小評価できるように介入しようとしている部分があるのであるならば、リッターはリッターで、査察の効果を過大評価しているところがあると思います。この本を読んでいてそれが一番気になります。そしてイラクはイラクで、査察を自分にとってもっとも効果があるように利用としているところがあるわけでしょう(時には積極的に協力することによって、そして時にはそういうそぶりを見せて巧妙に何かを隠していくことによって)。

 

 人間は自分の見聞や経験から物事を一般化しがちなところがありますし、リッターの指摘がブッシュ政権やイラクの「嘘」「虚構」の部分に対して非常に鋭い批判をすることに成功していることは認めるにしても、査察をいくらやってもイラク側が協力しない限り無駄だ、というパウエルの苛立ちのこもった発言が象徴するアメリカ側の危機感は、それによって解消されるほどのインパクトがそれによって生まれるとは考えにくいように思います。

 

 何と言っていいかわからないのですが、いわゆる政治的決断がよい意味でも悪い意味でも持っているファジーさと、リッターの知的な誠実さとの間にはなんとなくギャップがあるように思います。第一の論点ともからみますが、こういう場合の自己正当化には常に欺瞞がつきまとってしまいますし、また集合的な意志決定は、知的な誠実さや自分にとって事実であると思えることからだけによってなされるものでもないと私は思います(それが常によい結果をもたらすわけではないし、もちろん常に悪い結果をもたらすわけでもないわけですが)。

 

 社会的決断や決定には、常にどこかで賭ける、leap of faithに依拠する瞬間があると思います。アメリカは国際法違反や国際社会の非難を承知で唾棄すべき軍事介入や軍事援助を繰り返してきたわけですし、イラクにしても同様に国際法違反や国際社会の非難を承知で人権侵害やジェノサイドを繰り返してきたわけです。どちらもある程度(かなりの程度?)確信犯的に間違っている場合、知的な誠実さを貫いて双方を批判することはできても、その知的な誠実さが、双方がどういう行動をとるのが最善なのかを実現可能なレベルで予測し、吟味し、判断することができるとは限らないように思います。

 

 それから、査察を継続することとイラクがより健全な政治体制のもと発展していくこととは必ずしもイコールなのかどうか、これも今ひとつわかりません。査察を継続していくことは確かに戦争を回避することにつながると思いいます。しかし、リッターが言うようなイラクにおける内発的な民主主義の確立が、経済制裁の解除による経済再建の促進と宗教・民族・部族の垣根を越える健全な中産階級の育成によって数十年の単位で初めて実現する、というのであれば、経済制裁解除の条件が査察の徹底&大量破壊兵器の廃棄であるという関係になっている限りは、それは堂々巡りになってしまうのではないでしょうか。

 

 私はそれは望みませんが、太平洋戦争とその後の日本がある程度までそうであったように、廃墟となるまで戦った後に西側の一員として組み込まれて「ABCD包囲網」から開放されるようなシナリオでさえ、民主主義の実現を準備するということもあり得るわけで、リッターの議論からはそのあたりの関係は今ひとつ見えてこないように思います。

 

 第三の主張として、ブッシュ政権の愚かとも言い得る対外政策を牽引している新保守主義(neo-conservative)に対する批判はなかなか辛辣でした。ドナルド・ラムズフェルド、ポール・ウォルフォウィッツ、リチャード・パールらの「自分たちの思想的枠組み以外、何一つ認めない連中」たちの存在がもたらしている災厄というものとリッターが真っ正面から向き合っているあたりは読み応え十分です。

 

 ただ、リッターのそうした政治的なスタンス、というよりはリッターが敵として戦わざるを得ない相手と争う必要がある論点が、逆にリッターの立場を過度に単純化してしまいそうなところがあり、そのことが第一の主張、第二の主張における論点のずれや循環につながっているのかもしれないな、と思いました。

 

 なお、リッターはいわゆる絶対平和主義者では全くなく、「もし本当に戦争が必要だとしたら、それもしかたないのかもしれません。しかしその決定は、少なくともオープンで公正な議論を通じ、確固とした事実にもとづいてなされるべきです」と言っていることも申し添えておきます。

 

 というわけで、リッターはUNSCOM時代からアメリカの圧力と戦ってきたわけで(特にリチャード・バトラーとの確執)、そのことと査察の経験とが彼の見聞や知見としてあるということ、そして彼の知的な誠実さということ、などをふまえつつ受け取っていく必要がある文献だと思いました。誰がどう考えても、と言いたくなるほどアメリカがイラクに先制攻撃をかけて戦争するという話が筋が通らないにもかかわらずなぜ今のような状況になってしまっているのかを理解する上ではまさに必読といってよい本です。

 

 以上、非常に乱暴に書きなぐってしまいました。また折を見て手直しすることにしますが、とりあえずここまでにしておきます。

 

 PS 99ページの「文化の衝突」は「文明の衝突」ではないのかな?原著を見てみないとわかりませんが。。。

 

(芝崎厚士)

 

 

 

 

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