研究ノオト39 チョムスキーのアメリカ批判:9・11以降

第1稿 2002/9/21

 

【テクスト】

 

ノーム・チョムスキー「アメリカの軍事、人権、社会保障(2002年5月25日、ニューヨーク州ブロンクス、モンテフォーレ・メディカル・センター)」鶴見俊輔監修『Noam Chomskyノーム・チョムスキー』リトルモア、2002年、6−48ページ。

 

去年は2001年9月20日に、テロリズムに関する論文の研究ノオトをアップしました。いろいろなところでリンクされており、ちょっとびっくりしましたが。粗末な内容でお恥ずかしい限りでした。

 

今年はチョムスキーです、奇しくも今日はブッシュ・ドクトリンの報道があったりして、あれから1年、考えさせられます。

 

【目次】 01−10 

 

【内容】

 

01 

 

アメリカは最も大きな力を持っており、現代世界の出来事に対して決定的な影響力を持っている。そしてアメリカは我々の住む国であり、我々は自分自身および政策決定への影響力の行使について重い責任を持っている。このことを追求しようとすると、なぜか不可解な反応を呼ぶことになる。

 

02

 

アメリカの対外援助は先進国の中で最も少なく、イスラエルとエジプトへの援助が大部分を占める。そのほかの地域に対する軍事援助はかなり行われているが、アメリカの対外援助と人権侵害、拷問には強い相関関係がある。そしてアメリカの対外援助と投資環境の好転にも強い相関関係がある。つまり、アメリカが利益を得るための手段が人権侵害をもたらしているのである。

 

03

 

レーガン政権が「テロとの戦い」の名の下で中米や中近東で行った行為のうち中米についてみてみる。ニカラグアに軍事侵攻を行い国を崩壊させ、国際司法裁判所の判決を無視し、安全保障理事会では拒否権を行使した。アメリカは国際司法裁判所に国際テロ活動を糾弾された唯一の国であり、国際法を遵守すべきであるという決議に拒否権を行使した唯一の国である。ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラなどでは軍事援助を通して貧しい人々を抑圧、虐殺した。にもかかわらずアメリカの知識人はこうした事実に無関心である。

 

04

 

 次に「テロとの戦い」の第二の焦点である中東で何が起きたか。1982年のレバノン侵攻はアメリカが支援しイスラエルが行った最悪の国際テロであった。これを「侵略」と呼ばずテロと呼ぶのはむしろ好意的な解釈でさえある。このことは20年にわたってアメリカ国民に知らされてこなかった。1985年にはベイルートのモスクでの爆弾テロ、チュニス爆撃、アイアンフィスト作戦という3つの最悪のテロ行為がなされた。人々は自国の行った残虐行為については調査しないのであり、実際の規模は不明確である。そして南アフリカでも、マンデラたちを「テロ集団」と呼ぶような枠組みで南アの略奪行為が支持されていた。

 

05

 

 現在「テロとの戦い」を主導している人々は、こうした80年代の戦いで重要な役割を果たしている人たちであり、同じ結果に終わることだろう。アメリカのテロ関連雑誌が言及している1985年の事件もまたテロではあり、正当化されるものではない。その雑誌での分析は、我々の帰属する道義的文化と知的文化についてのおもしろい見方を示しており、無関心でいてはならない。

 

06

 

 私が紹介した中米、中東、南アでのアメリカが関与したテロ活動は通常、テロではなく、報復テロもしくは正義の戦争と見なされる。我々や我々の同盟国に対するテロだけがテロとされ、我々や我々の同盟国のテロはテロとされない。これは世界共通の普遍的な考え方である。もちろんそれは、ナチスや太平洋戦争期の日本とも同じなのである。

 

07

 

 90年代以降の軍事援助に関しては、エジプトとイスラエルを除けば、トルコとコロンビアがトップに立つことになった。トルコに対しては冷戦期の戦略的重要性から支援が続けられてきたが、1984年以降軍事援助が一気に強化され、それは1990年代最悪のテロと呼びうる、トルコ軍・政府のクルド人に対する国家テロを支えたのである。クルドの人々は苛烈な抑圧に耐え、必死に抵抗を続けている。アメリカはトルコの国家テロを高く評価し、トルコは現在カブールの防衛に当たっている。マスコミはこのことをまったく論評しない。

 

08

 

 1999年にはコロンビアがトップに立った。西半球最悪の人権状況の中で、コロンビア政府もアメリカも、対外的な批判を避け、関与を否認するために徐々にテロは「民営化」されていくが、状況は悪くなる一方である。結果として、燻蒸作戦や農産物破壊によってコーヒー栽培に代表される農耕の伝統が破壊され、代わりにアメリカ発の輸出向けモノカルチャーや各種開発などしか選択肢がなくなっていく。

 

09

 

 我々の態度は、「つまらないもので生きる価値のない」から、何をやってもかまわない、というものである。各種の発言がそれを裏書きしている。そしてこうした態度が、アメリカの軍事援助と残虐行為の相関関係を説明してくれるものである。

 

10

 

 経済戦としてのテロ、もまた戦われている。その代表はキューバとハイチである。1959年から続くキューバへの禁輸措置はあきらかに人道法に違反しており、またその口実は冷戦期のものであれ現在のものであれごまかしでしかなく、結局支配者カストロを助けるものであり貧しい人々を苦しめるものであった。西半球で最も貧しい国であるハイチでは、1915年の海兵隊の侵略以降1990年代半ばまでアメリカの支援に基づく国家テロが続いたが、その後軍事政権が崩壊してからは一転してアメリカは禁輸措置を取り、破滅的な状況をもたらしている。世界からテロを減らすには「参加しない」という簡単かつ効果のある方法があるが、この点についてはあまり論議されていない。このままでは世界の窮状はさらに深まるばかりである。

 

【コメント】

 

 チョムスキー年来の主張を知っているのであれば、9・11以降の彼の議論にもかなりの程度納得がいくと思います。アメリカとラテン・アメリカの関係にしても、知っている人には言わずもがなのことですし、文学や芸術にも深い影を落としているわけです。アメリカの映画でも、たとえばオリバー・ストーンの「サルバドル」などによって広く知られたところであります。

 

 山崎淳氏によると、『9・11』の方はアメリカでも10万部以上を売り上げて、チョムスキーの本にしては珍しいほどアメリカで受け入れられているようです。『朝日』のサイードのインタビューで紹介されているように、チョムスキーは主流メディアから無視されているわけですが、彼の著作も書評などはほとんど出ないのが常だったという感じなのが若干違ってきているようです。

 

 サイードのインタビューも面白いですね。「平和のための結集」に基づく対米制裁、というアイデアもともかく、アメリカ国民の14%しか海外に行ったことがないとか、連邦議員の30%しかパスポートを持っていないとかというデータも興味深いところです。けれど、このデータはどこから取ってきたのか、また国際比較してみるとどうなのか、というあたりがさらに問題になりそうですが。

 

 話をチョムスキーに戻すと、彼が言うところの偽善者、つまり相手に対して適用する基準を自分に対しては当てはめない、という姿勢を批判していくわけです。その批判の矛先はもちろんアメリカ政府それ自体にも向けられているわけですが、同時にそうした状況を許す米国知識人やメディアに対しても向けられています。真実を語ることはそうした責任ある地位にある人や組織の使命であり、また一般大衆がそうした情報に依拠した上で政治参加をしていく以上、主流のメディアやインテリがその機能を果たさないのならば私がそれを、というのがチョムスキーの考え方かな、と思います。

 

 チョムスキーの当座の、というか第一義的な戦略としては、アメリカの膨張主義的対外政策ないし軍事政策が、投資環境の好転と引き替えに人権侵害や抑圧、殺戮を生み出しているということがあまりに知られておらず、そういう事実があることを広く言っていこう、ということになるでしょう。

 

それ自体は情報のアンバランスを是正する意味ではきわめて重要だと思います。また、この間のNHKスペシャルで紹介されたような法律の改悪と強制収容が行われ、国外だけでなく国内の人権抑圧が進行し、それがさらに人種間対立を産む、という状況とも、こうした議論をしていくことは関わっていくべきでしょう。この番組はとても良くできており、太平洋戦争中の日系人の強制収容という過去を知る我々にとっては重大な関心事でなければならないでしょう。木畑先生のエッセイで、アラブ系アメリカ人と日系アメリカ人が交流している、ということが紹介されていましたが、こうした文脈から考えなければ行けないことはたくさんあると思います。

 

 これはないものねだりではあるのですが、ではお互いに「テロ」をやりあっているのにすぎない、ならば「参加しない」しかない、というチョムスキーの第二段階の議論については何が言えそうでしょうか。「参加しない」と言うのは、民主主義の原理に即して言えば、自分たちが「偽善者」でないための手段であり、また自分たちが加害者、被害者(直接的にも間接的にも)でないための手段となることは確かに論理的には間違いなさそうです。たとえばカントの『永遠平和のために』でも、同様な議論から民意が反映されるという意味での共和制が支持されるわけです。

 

 しかしそれが実際に可能なことなのかどうか、ということになると、答えは一筋縄ではいかないように思います。たとえば、チョムスキーの言っていることが正しいとしても、つまりお互いに「テロ」をやっており、アメリカは世界最悪のテロ国家であると認めたとしても、それを認めることと「参加しない」という結論とは不可避的に結びつくわけではないように思うのです。

 

テロのぶつけ合いに過ぎないのに片面しか見てないじゃないかと言われて、そうかこっちもテロなんだと認めたとしても、そこから開き直って、この世は結局殺すか殺されるかなんだから、テロといわれようが何だろうが強い者が勝てばいい、殺した方が勝ちだ、という考え方自体を否定しなければならない、という話に必ずしもなるとは限らない、という帰結になってもおかしくないような気がしてしまうのです。

 

 ちょっと強引かもしれませんが、チョムスキーの言っていることを簡単に言い直すと、(1)この世は弱肉強食の殺し合いであり、それが現実に起きている、(2)なのに自分の側だけが正しいというのはおかしい、という風になるような気がします。(2)を(3)より公平に見ればどっちもテロをやっている、と言うことを認めたとしても、(1)的な世界観自体はやっぱり変わらないような。むしろ(1)的な見方自体を変えていかなければ、「参加しない」という時の積極的な根拠や肯定的な展望が見いだせないような気もするのです。

 

 なんだかうまくまとまりませんが、ではこの辺でとりあえず。

 

【参考文献】

芝生瑞和『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』毎日新聞社、2001年。(同様の主張を早い時期から行った数少ない日本人ジャーナリストの一人。古くから中東、アメリカを取材し続けてきた経験と優れた手腕に裏打ちされたその議論は傾聴に値する。)

チョムスキー、山崎淳訳『9・11 アメリカに報復する資格はない』文春文庫、2002年(訳を改訂しており、また解説、あとがきも便利)。

木畑洋一「バークレーから見た9・11後のアメリカ」『日本国際政治学会ニューズレター』第96号(2002年8月)、1ページ。

「テロは世界を変えたか エドワード・サイード氏に聞く」『朝日新聞』2002年9月17日。

NHKスペシャル「強制収容 米国・追われるイスラム系移民」2002年9月17日放送。

 

(芝崎厚士)

 

(芝崎厚士)

 

 

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