研究ノオト38 自我の起原その2

2002/9/10第1稿 2005/08/15第2稿

 

【テクスト】

 

真木悠介『自我の起原』岩波書店、139ページ。

 

【目次】

 

00 はじめに(CARAVANSERAI自我という都市)

 ※目次(vページ)ではCARAVANSERSIになっていますが、誤植でしょう。またサンタナのアルバムの表記では全部大文字ではなく、Caravanseraiです)

01 動物の「利己/利他」行動

02 <利己的な遺伝子>理論

 

【内容】

 

00 はじめに(CARAVANSERAI:自我という都市)

 

 <都市>は本来、移動し続ける隊商のために生まれた二次的な集住地であった。しかし都市はやがて自立化・主体化し、<移動する共同体>を支配していく。さらに近代においては、そうした<都市>の論理が普遍化していく。こうした<都市>の発生とその主体化が「人類の歴史中最大の事件」であるとするならば、「<個体>という第二次的な集住系の出現とその<主体化>」を「生命の歴史中最大の事件」と比定することが可能である。

 

 芝崎コメント:こうした思考の根底には、そこに時には集まるが常に移動しつづけている存在のありようを一次的なものと見なし、<都市>や<個体>を二次的な存在の形態と見なすという、近代的なものの見方を逆転させる発想がある。この発想は、「わたしたちのほんとうの自己はいくつもの身体とその生涯を宿としながら永劫の転生の旅を続ける。わたしたちの個体とその<自我>はこの永劫のキャラバンの一期の宿(サライ)である」というウパニシャッドの教えからヒントを得ている。こうした視座の転回こそ、『自我の起原』の、そして真木氏が提示する議論を下支えしているのである。

 

 「1 動物の『利己/利他』行動」(以下「第1章」)

 

 本書の目的は、「自我の比較社会学、あるいは<自己>というふしぎな現象の比較社会学という探求に旅立つための予備作業として、人間以外の諸社会における『個体』と個体間の関係について、これまでに観察されてきた諸事実とそれにもとづく諸理論を予め概観しておくということ」である。

 

 もちろん、ここで目指されていることは生物社会学の知見を安易に「人間社会学的考察」にあてはめようとすることではないし、人間の「本性」が利己的か、利他的かという点について結論を出すことでもない。「むしろ現代の生物科学の進展の指し示している真にスリリングな展望は、この『利己/利他』という古来からの問題設定の地平自体を解体し、われわれの<自己>感覚の準拠をなしている『個体』という現象の、起原と存立の機制とを明るみに出してしまうということ」にある。

 

 第1章の残りの部分では、ローレンツ・ウィルソン・トリヴァース・ハミルトンらの知見を整理しつつ、ドーキンスへ至るまでの動物の「利己的」「利他的」行動に関する動物社会学の成果を要約している。具体的には、進化論的に見れば淘汰されてしまうはずであるにもかかわらず存在する動物の「利他的」な行動をどう説明するか、という点に対する考察の系譜である。

 

 まず、ローレンツは個体間闘争に注目し、同種個体間の「攻撃性」がいわば<種のための個>という一種の「愛他性」に支えられていることを明らかにした。これに対してトリヴァースやハミルトンらは、<種のための個>ではなく、ある特定の個体が自己の血統を排他的に残そうとする「利己的な」ケースを踏まえて、その上で「利他的」な行動について総括を試みている。

 

 トリヴァースは、「利他的」行動の合理的説明として血縁性、見返り・互恵性、寄生をあげた。しかし、「利己性」の形成という観点からいって真に合理的なのは血縁性のみであり、以降の仕事は「血縁性」に注目することとなる。

 

 ハミルトンは、アリとミツバチを研究した結果、動物個体の「利他」行動の進化の条件を、

 

 br>c したがって r>c/b

 

r:個体間の血縁度(0>r>1)

 

c:行為者の犠牲の大きさ

 

b:受益者の受ける利益の大きさ

 

と表現した。つまり、個体間の血縁度が高ければ高いほど、より多くの犠牲が払われるということになる。さらにハミルトンは、「ある個体のそれ自身の適応度に、その個体が直接の子孫以外の近親の適応度に与える影響を加えたもの、すなわちある個体に関した血縁選択の全効果」を「包括的適応度」と定義し、個体間関係の進化の論理はこの「包括的適応度」という原理によって説明し得るとし、これが今日の動物社会学・動物行動学の主流となった。

 

 つまり「利他的」行動も、ローレンツが同種個体間の攻撃性において見出した「利己的」行動もまた、「動物の個体自体の『幸福』や『生存』や『繁殖』という観点からは統一して理解することができず、遺伝子の自己複製という水準から把えかえした時にはじめて、統一的に理解されうる」こととなったのである。

 

02 <利己的な遺伝子>理論

 

 続く第2章では、そうした理論がより徹底化された、ドーキンスの議論を批判的に検討している。

 

 ドーキンスの議論の骨子は、「動物たちの個体の行動や資質や関係を支配している要因は遺伝子たちであり、個体は遺伝子が生存し増殖するための<生存機械>に過ぎないという見方」とでもいうことができる。より正確には、「遺伝子の自己複製が、より大きな頻度をもって行われるような形質を持った個体が結果としてこの地上に生残し増殖すること、従って個体の側からいえば、個体の形質も行動資質も、遺伝子の再生産を確実化し効率化するような仕方で形成されてしまっている」という命題である。

 

 この理論は一見否定しがたい完璧なものに見えるが、もっとも基本的なところに二つの誤謬があると真木氏はいう。それは第一に、遺伝子レベルの「利己性」と個体レベルの「利己性」を混同しているという「論理的な誤り」であり、第二に上位システムの創発的自律化と、それによるシステムのテレオノミー的な重層化を理論化していないという「経験的な誤り」である。第2章の残りの部分は、このうち第一の誤りに関する議論に費やされ、第二の誤りについては第5章で扱われる。

 

 第一の誤りは、ドーキンス自身が、<利己的な遺伝子>理論は個体の利己主義に帰結すると論じていることから明らかである。真木氏に言わせれば、ドーキンスの理論は、「遺伝子の『自己増殖』という論理は、個体水準の『利己性』を発現することもあるし、『利他性』を発現することもある。どちらにしても個体は『自己目的』でなく、つまり原的に『利己的』な存在ではなく、その外見上の『利己』『利他』を分岐して発現せしめる原的な動因自体は、個体にとっては他なるもの、個体というシステムの水準の外部に存在するもの」である、という帰結に至るはずである。

 

 遺伝子レベルの「利己/利他」と個体レベルの「利己/利他」水準の混同が起きるのは、一つには「その個体が次代に残す子供の数(の期待値)」として定義されている「適応度」概念が、「個体自体の体内を偶々経由した遺伝子セットの増殖のみを考慮して/その個体の働きを通して増殖する他個体経由の遺伝子セットは除外する」というふうに、個体レベル・遺伝子ベルどちらからみても徹底されていないためである。またこのことは、そもそもドーキンスの原的な関心は個体間関係の水準における「利己/利他」であったことから、遺伝子レベルにおける「利己/利他」を単なる比喩以上個体間関係にそのまま適用してしまうことによって、いわば「利己」概念の「水準癒着」が起きたということでもある。

 

 こうしてドーキンスの<利己的な遺伝子>理論は、遺伝子レベルでは「利己」的な行動であっても、個体レベルでは「利他」的な行動があることを明らかにしてしまう。つまり「動物の『個』の身体が本来はそれ自身の『ために』ではなく、そこに乗り合わせた遺伝子たちの自己複製のメディアとして形成され展開されてきたものである、という社会生物学の合理的な核心自体が、(俗見と逆に)個体の『利他性』の普遍性をこそ立証し」てしまうのである。

 

 真木氏がドーキンス批判を行ってきたのは、「少なくとも高等動物の行動において、(最低限、文明化された人間の個体において、)この個体という上位システムの創発的な自律化が、みずからの創造主たる遺伝子のテレオノミーに反逆し、個体の自己目的性を獲得することがありうるという事実に議論をひらくため」である。

 

 社会生物学の合理的な核心が根拠付ける個体の「利他性」は、確かに遺伝子の利己性によって限定されているという意味では遺伝子の自己増殖のループからは逃れていない。しかし、それでもなおそうした「利他性」が存在すること自体に、「個体の身体がその存在の芯の部分に、その個体自体の利害を超え出てしまう力を装置されているということを意味する」と真木氏は述べる。

 

 こうした「創造主に対する反逆」は、いわば「二重の超越」と呼びうる構造を持っている。それは第一に、「その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの『個体』の自立化」、すなわちいわゆる「エゴイズム」的な存在となりうることである。そして第二には、「この『個体』水準の自己絶対化からの自己超越」としての「愛」である。これは、遺伝子に限定された「利他性」ではなく、純粋の他者や他種の個体にさえ捧げられる。

 

 かくしてドーキンスの<利己的な遺伝子>理論(とその第一の誤謬)からは、次のような知見を得ることができる。「第一にそれが、『利己/利他』という『倫理』の基本概念をずらして規定してみせることをとおして、この分類が、(つまり「愛とエゴイズム」という問題が、)これを定義する準拠主体の水準と、切断線の引き方の効果に他ならないということを具体的に明るみに出してしまうということ」、「第二にわれわれの『個』の本能性、individualityという自明化された神話を解体し、個体がそれ自体派生的であることを事実的に明確化することをとおして、<個の起原>と個の存立の機制という問題の前にわれわれを立たせてしまうこと」である。

 

 芝崎コメント:以上の議論から真木氏は、ドーキンスの理論の批判をとおして本書の主題である「自我の起原」へのアプローチの筋道をつけたということができるだろう。すなわち、第一段階として個体自体が二次的な派生体であるということ、個体の形成が遺伝子レベルでの生命の運動によって誕生したものであって、個体それ自体のテレオノミーによって生まれたものではないということを明らかにする。次に第二段階として、そうした遺伝子水準でのテレオノミーに対する「反逆」がどのような形で生じ得るのかを検討すること、そして第三段階として、自我の起原が考察される。以下では、第3章、第4章が第一段階としての個体性の起原の問題、第5章が第2段階としての主体性の起原の問題、そして第6章以下が第三段階としての自己意識の起原の問題を扱うことになる。

 

【コメント】

 

 『自我の起原』という書物は、社会科学基礎論である、という評価を受けつつも、必ずしも広く読まれてこなかったような印象を受ける作品です。真木悠介氏(見田宗介氏)の作品の多くが、まさに一代限りの孤高の仕事でありながらも様々な形で引用され、参照される機会が多いのに比べると、この作品に関してはそれほどでもないように思えますし、また社会科学論を展開するにあたってこの作品が積極的に引用されることはほとんどないようにも思われます。

 

 私は自分の博士論文の前半部分で、この『自我の起原』論を出発点の一つにしながら議論を進めていくつもりでいます。いわば「理論」編にあたる部分になるわけですが、今から半年後くらいには形になる予定です。

 

 今回取り扱った部分で、社会科学論として重要なのは「00」はじめに、の部分と「02」の最後の部分です。

 

 「00」の部分は、John UrryのいうMobile Sociologyという考え方、あるいは「動く国際関係論」という考え方、さらにはミシェル・セールの「生成」論やフーコーの権力論に至るまで、近代的な主体観にもとづく個/集団という単位に基礎を置いた世界観をどのようにひっくり返しうるのか、という論点に直接接続することが出来ます。自我および自我という単位に基づいて形成される社会、そしてその考え方はまさに「比定」的な意味合いに於て国家および国家という単位に基づいて形成される国際社会、という考え方へと接続されていくわけです。

 

 つまり、国家中心主義を批判したり、別の主体を立てるだけでは意味がなく、そうした自我に基づく社会観、国家に基づく国際社会観の双方を規定している何かを撃っていくことが大事なのではないか、というような・・・後の行論においてその視座はより明確になるのですが、私が言いたいのはおよそこういうことです。

 

 「02」の部分は、だいぶまえからあの図を中心に理論的な考察を試みて来た所ですが、あの頃考えていたことの中にはかなりの的外れな議論も含まれており、今は、自分がその時考えていたことと、あの図が表現していることとの間にはそれほどrelevanceがあるとは思っていません。

 

 遺伝子的な愛→個のエゴイズム→脱遺伝子的な愛、というテレオノミーの重層性、という論点に関しては、たとえばWaltzMan, the State and Warなどを想起せざるを得ず、その観点から接続,導入しうる国際関係論的な把握というあたりが次の検討課題になるかと思います。

 

 また、この部分でも再度、「個」の自明性の解体、という論点が出て来ます。不可分な個体という前提自体が実は、派生体としての個、という形で視座の転回を迫っていくことになるわけで、そこが大きな問題になるわけです。

 

 ちょっと舌足らずですがとりあえずここで止めておきましょう。

 

 なお、本書の考察に密接に関連するものとして、長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』東京大学出版会、2000年があります。これは大変素晴らしい教科書ですが、脚注での本書に対する言及は若干妥当性を欠くようなところもあります。どちらか一方だけが間違っている、という話ではないのですが、自然科学者と社会科学者に時折みられる受け止め方の違いの一つの例ではあると思います。この点については今長谷川本が手元にないので、後日アップします。

 

(2005年8月のコメント)

 

 『自我の起原』に関しては、社会科学者の側からはほとんどと言ってよいほど正面からの論評が見あたらないように思います。では生物学関連の研究者についてはどうか、というと、現時点では3つほど、言及を見つけることが出来ました。

 

 まず、伊藤嘉昭『生態学と社会』(東海大学出版会、1994年)の最後の部分(168−169ページの本文および「余談6」)です。伊藤氏はウィルソンの『社会生物学』の監訳でも知られていますが、日本の生態学の権威です。彼の指摘は、第1に基本的に真木悠介の社会生物学の理解はほぼ間違いはないということ、第2に、ただし、真木悠介の議論のうち、ドーキンスが遺伝子レベルの利己性と個体レベルの利己性を混同する、という「理論的間違い」を犯している、という指摘については、これは間違いではない、という点に集約されます。第1の点はさておき、第2の指摘については検討の余地があります。

 

 確かに、ドーキンスの場合、「ふつう」は遺伝子の利己性は個体の利己主義を生み出すが、「特別な状況」においては遺伝子の利己性が個体の利他主義を生み出す、という風に、利己主義を中心に考え、利他主義を例外とみなしています(ドーキンス、日高敏隆ほか訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、1989年、17ページ)。その限りにおいて、遺伝子の利己性が個体の利己主義を基本的には生み出す、という指摘になっています。翻って真木氏は、遺伝子の利己性は個体の利己主義も生むことがあるし、個体の利他主義も生むことがある、と考えています。

 

 この2つの議論は、遺伝子の利己性、という基本的な命題は共有しています。しかし、個体レベルでの利己主義と利他主義に関して、ドーキンスは一般原則=利己主義を帰結、例外=利他主義を帰結、という風にどちらに転がるか、という選択肢に優劣をつけているのに対して、真木悠介の側は特にどちらが一般でどちらが例外か、ということにはあまり興味がなく、その頻度はさておき、個体の利他主義、という可能性が存在しうる、という事実のみを重視しています。というのも、真木氏の議論は、その余地があるというだけで十分、先に行ける、という判断があるからです。とすると、確かに理論的な「誤り」である、と表現するのは、言い過ぎの面もあるかもしれません。

 

 次に入江重吉『ダーウィニズムの人間論』(昭和堂、2000年)の注(228−229ページ)です。これも、同様に社会生物学における利己・利他の弁別に対する真木氏の批判を再批判したものです。議論の焦点になっているのは、第2章での青木健一氏の議論で出てきた、

 

(α)親の子供に対する自己犠牲的な行動

(β)子供が損失をかぶって親を助ける行動

 

に対する解釈の問題です。真木氏の議論は、社会生物学が用いる繁殖成功度の基準では前者が利己、後者が利他となるのだが、これでは個体水準の問題が曖昧になるので、どちらも利他と考える方が(自分の議論にとっては)よい、というものです。入江氏に言わせると、(1)遺伝子レベルではどちらも利己、(2)個体の「生存可能性」レベルではどちらも利他、(3)社会生物学の繁殖成功度(適応度)では前者が利己、後者が利他、となるだけであって、そこには曖昧さも矛盾もあるわけではない、という反論です。

 

 この議論は、ややすれ違いがあるようです。真木氏における曖昧であり矛盾であるという指摘は、ある水準をとった場合の弁別が曖昧であり矛盾であるという意味ではなく、ある水準から見たい時に別の水準で弁別すると曖昧さが残り矛盾が残るという意味で言っているのです。ただ、こうしたすれ違いを招きやすいような書き方になっていることは否めませんし、ドーキンスが確かに遺伝子の利己性から個体一般の利己性を帰結したいという価値観を持っているように見えるのと同様に、真木氏が遺伝子の利己性に逆立する個体のエゴイズムと利他性を帰結したいという価値観を持っている以上、力点の置き方がロジックの書き方に投影されることで、こうした批判が出てくるのでは、と思います。

 

 さらに言えば、社会科学的なロジックやレトリックと、自然科学的なロジックやレトリックの相違、というものもそこに作用しているような気もします。つまりある前提からある帰結が生じる、という前提と帰結の間の曖昧さや矛盾があるかないか、ということと、その前提と帰結のさまざまなセットのうち、どのセットを選ぶのが自己の議論を展開する上で望ましいか、ということのどちらを問題とするか、という点にかかわる相違です。社会科学的な思考では、後者、価値の問題のさばき方が物を言うことが多いのに対して、自然科学的な思考では、それは社会科学におけるほどは重視されない、という印象があります。

 

 最後は長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』(東京大学出版会、2002年)の脚注(72ページ)です。これは真木氏のドーキンス批判の議論が、遺伝子一般の利己性から個体の利己的な行動を帰結するのが、「論理がつながらない飛躍であり、誤りである」と述べているが、それは「確かに少し飛躍」だが「論理がつながらないわけではない」とコメントしています。この指摘についても、伊藤氏、入江氏と同様、理系的思考と文系的思考のすれちがい、のようなもの(もちろん、優劣があるわけではないですが)を感じさせます。

 

こうした批判は、やはり真木氏の書き方が誤解を招きやすいというところから生じたような気がします。真木氏は遺伝子一般の利己性から個体の利己性も利他性も帰結できる、という議論をしているのに、第2章での書き方はそれ以上の強い議論である(ここであげた3つの著作がそう受け取りかねないような)かのような表現になっているところがあるためです。

 

 そんなわけで、この3つの著作はいずれも、ドーキンス批判の部分に集中しています。そんな中で唯一、伊藤氏だけが、真木氏が同様のテーマを追求した著作である、リチャード・アレキサンダー『ダーウィニズムと人間の諸問題』(思索者、1988年)を引用していない、とコメントしています。その後、ジャレッド・ダイヤモンドやダニエル・デネットをはじめとする、真木氏の議論に関連するさまざまな著作が出ているので、本来はこの辺の議論と真木氏の議論の関わり、を論じていくことが、一つの大きなテーマになりそうな気がします。

 

ちなみに国際関係論の分野でも、ダーウィニズムを導入しようという議論がありますが、これが単なるいつもの借り物競走なのか、それとももっと包括的な議論なのか、ということについてはもう少し検討してから考えたいと思います。

 

(芝崎厚士)

 

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