研究ノオト35 歴史/修正主義

第1稿 2002/08/30 第2稿 2002/9/9N氏のコメント掲載)

 

【テクスト】

 

高橋哲哉『歴史/修正主義』岩波書店、2000年、第1章、132ページ。

 

戦争責任や戦後責任に関係する文献は非常に多く、またいわゆる歴史修正主義的な言動を巡る論戦もまた盛んに展開されています。私にはとてもそのすべてをフォローすることはできませんが、高橋さんのこの議論をとりあげ、そこから読める限りにおける発見を出発点としてみたいと思っています。

 

なお、この部分に関して、Nさんのコメントをお聞きする機会がありました。以下の内容は私個人のまとめとコメントですが、参考にさせていただいた部分もありますので期して謝します。

 

【目次】

 

1 歴史と責任

01 「罪人の子孫扱いなどもうごめんだ」

02 「子々孫々まで・・・罪人の如く」

03 「本質主義的」民族観の罠

04 責任を求める側にも同じ罠が・・・

05 「戦後責任」を果たすことはポジティブな行為

06 「国民としての責任」の同一性と差異

07 「終わり」ある責任と「終わり」なき責任

08 「国民」を語ることが即「共同体主義」ではない

09 「ナショナリティという善」?

10 「悼み」や「恥じ」は「責任」の引き受けに通じてこそ

11 「連累」という考え方

 

【内容】

 

1 歴史と責任

 

01 「罪人の子孫扱いなどもうごめんだ」

 

 戦争、虐殺、植民地支配などに対して、誰が、どういう責任を負うのか、または負わないのか、という問題が現在焦点になっている。

 

 責任を否認するもっとも極端な主張の一つが、ドイツにおけるホロコースト否定論者である。彼らは歴史修正主義者を自称し、ホロコーストは「連合軍」や「ユダヤ人」によるでっちあげであると主張し、さまざまな活動を行っている。ホロコーストを否定することで、彼らは犯罪者扱いされているドイツ人を解放し、ドイツ国民全体の名誉が回復されると考えている。

 

02 「子々孫々まで・・・罪人の如く」

 

 こうしたドイツにおける歴史修正主義者の論理と、日本版歴史修正主義者の論理には類似する点が多い。ドイツだけがジョーカーをつかまされ、日本だけが罪を許されないでおり、ホロコーストや南京大虐殺を歴史の虚偽ととらえ、自国の正史を回復することで名誉を取り戻す、という論理展開がみられるのである。

 

03 「本質主義的」民族観の罠

 

 こうした発想の根底にあるのは、民族や国民に強固な同一性や連続性があるものと前提する、いわば「本質主義的」「実体論的」な国民観、民族観である。こうした国民観・民族観に立つならば、一度罪を犯したならば、その国民や民族は子々孫々まで罪人だとみなされることになる。そして、そうした罪人視を否定するには、過去を修正するしかなくなる、ということになる。

 

 しかし、戦争犯罪を犯した日本人、と直接の罪がない、後世の世代の日本人では責任に違いがある(この点は後述)。後者は侵略戦争の「犯罪者」ではあり得ないが、だとしても犯罪を犯した日本人の罪を否認してよいということにはならない。

 

04 責任を求める側にも同じ罠が・・・

 

 こうした本質主義的・実体主義的国民観・民族観は、戦争責任を肯定する側にもみられる。それはたとえば家永三郎の血統主義的国民観に根ざした「自動的に相続される」という見解においても明らかである。

 

 日本国家の「戦後責任」とは、国家の主権者たる日本国民が「戦後責任」を負うこと、すなわち日本国家が「戦後責任」を果たすことに対して日本国民が政治的責任を負うこと、を意味する。そうした戦後責任に関しては、確かに「自動的に」日本国民が負うということもできる。しかしその場合の「同じ日本人としての連続性」とは、本質的、実体的連続性ではなく、法的、政治的連続性(不連続を含む)である。

 

05 「戦後責任」を果たすことはポジティブな行為

 

 歴史修正主義者においては、直接の戦争責任または「罪」と「戦後責任」の混同がみられる。戦後責任を承認することとは、国家に「線御所金」をとらせることによって自らの「戦後責任」を果たすことであり、自分とかつての国家との連続性を絶つことによって他者の信頼を回復していく肯定的・積極的な行為である。それは、国家そのものの性格を変えていくことであり、また「日本人」「ドイツ人」の内実を変えることでもある(血統主義から出生地主義への変更などへとつながることが望ましい)

 

06 「国民としての責任」の同一性と差異

 

 すでに述べたように、戦後日本国家に「戦後責任」を果たさせる政治的責任、としての戦後責任がある。それは、法的に「国民」である全ての人が原則として平等に負うべきであり、というよりは「国民」である限りは免れることはできないものである(難民、亡命者、国家なき人々にならない限り)。

 

 日本国民としての政治的責任は原則として平等・同一である。しかし、(1)社会的立場の相違、(2)組織固有の責任、(3)植民地支配に関わる民族的差異(徐京植のいう「中心部日本国民」と「周縁部日本国民」の差異など)によって、責任の負い方(問われ方)は異なるであろう。

 

07 「終わり」ある責任と「終わり」なき責任

 

 戦後責任には、戦後世代の「日本人」が国民の一人として問われる責任と、それ以外の責任がある。前者には、いわば「終わり」ある責任、すなわち法的責任を履行させる政治的責任(賠償・補償、責任者処罰、公式謝罪など)と、「終わり」なき責任、すなわち、「過去の参加から教訓を引き出し、新たな惨禍を防ぐための諸条件を整えていくために求められる」、「記憶」の責任もしくは「記憶の義務」がある。

 

 後者の責任としては、(これも「終わり」なき責任と考えてよさそう:芝崎記)、そうした記憶を、国境を越え、民族を越えてそこから学び、将来へ生かそうとするすべての人々に「記憶」され、継承されるようにしていく責任がある。

 

08 「国民」を語ることが即「共同体主義」ではない

 

 テッサ・モーリス=鈴木は著者の他の場所での議論に対して、(1)不動の前提としての日本人、を想定している(2)ナショナリティという善を共有している、(3)国民的精神状態の救済のための「等しくかつ独占的な「恥」の感情を要求している、という風に批判しているが、これらは誤解である。

 

 まず(1)についてであるが、著者は日本人の流動性と日本人としての責任の不動性を峻別するべきであると考えている。

 

09 「ナショナリティという善」?

 

 次に(2)についてであるが、これは誤訳の問題でもあった。ナショナリズムが「善きもの」として現れる局面もあるかもしれないが、ナショナリティが構造的暴力性を持つこともまた免れることはできない。「戦後責任」を問うことは、その暴力性を問題化し、解体していくことを意味するのである。

 

10 「悼み」や「恥じ」は「責任」の引き受けに通じてこそ

 

 最後に(3)についてであるが、「恥じ」の感情は戦後責任の具体的実践とつながっているべきものであり、そうした実践は、「恥ずべきものを恥じないことで存続してきた『日本国民』の『共同性』その中心には、昭和天皇を免責するための装置として作られた『象徴天皇制』があるーの解体」をも射程に入れているようなものなのである。

 

11 「連累」という考え方

 

 テッサ・モーリス=鈴木の「責任」論は、(1)政府による謝罪や賠償などの政治経済論的、すなわち日本の主権者としての責任、(2)日本の戦争犯罪の記憶を次世代に伝える責任としての認識論的なもの、これには日本国民としてだけではなく、人類レヴェルでのものも含まれる、(3)「どういう人たちが、その歴史的出来事について恥を感じる責任または罪責の感情を感じる責任を持つのか」という意味での心理的レベルの責任であり、これは責任というよりも連累(implication)だという。

 

 連累とは、「私」が「やっていない」ことに対する関係、「私の先祖」さえ「やっていない」ことに対する関係を意味する。(1)「奪われたものを譲りうけている」という犯罪の責任、(2)私の頭の中、気持ちの中、得た知識への大きな影響(差別的なステレオタイプやイメージなど)(3)「〜人」としての不可避なものとしてのアイデンティフィケーション、である。

 

 筆者は、こうした見解をふまえ、単に「恥」や「罪責」の感情を持つことからさらに進んで、そうした「感情」が「戦後責任」の具体的実践へつながるべきであると述べている。

 

【コメント】

 

 こうしたモラルのレベルの責任論、特に歴史修正主義的な論調との対抗関係における責任論と、国際法や国際関係におけるより具体的かつ実践的な責任の判断を巡る議論との間には、お互いにやや距離があるのかもしれません。

 

 これはNさんから指摘があったことで、私もそう思ったのですが、たとえば高橋さんの議論においては、法的・政治的責任といった場合にそれを具体的にどのようなものとしてとらえていくか、という部分の議論がそれほど明確ではなく、むしろ法と正義がそれほど峻別されることなく扱われている傾向があるようです。

 

 法的・政治的な責任を論じる場合には、まさに「誰が」「どのような」責任を負うべきか、という点に関する厳密な議論が必要になってきます。その場合、ここで十分扱われているような、人間の生きる姿勢、というレベルの問題は必ずしも重視されないように思います。

 

 高橋さんの議論の場合、テッサ・モーリス=鈴木氏の議論と同様、そうした法的・政治的な議論と、倫理的・思想的な議論の両方をどちらかというと後者の側からくくっていこうとしているので、特に法的な決定という局面に関する議論は(本書の後半部分など)、その意味で必ずしも国際法などの専門家からみてどういうふうに評価されるか微妙なところではないでしょうか。

 

 ただ、逆に言えばそうした実際の法的政治的決定に関わる人々がどれだけ、高橋さんたちが述べるような広い意味での責任に対する考え方を持っているか、といえばそれもまた微妙なところでしょう。

 

 こうした倫理の問題としての戦後責任論は、やはり倫理の問題として登場した側面が強い歴史修正主義との対抗関係で登場してきた、というおおよその文脈があると思います。その文脈からみれば、こうした方向性からの議論が有効であることもまた否めません。

 

 もう一つ付け加えるならば、そうした対抗関係の中で争われているのがいわば表象の問題、とでもいいうるもののようにも思います。そしてそれが必要になってきている時代なのだとも思うのです。

 

 かつて戦争責任の文章、どちらかというと高橋さん的な立場に立った修正主義批判を読んでいたときに、ある学生さんから「今まで『ゴー専』を読んでいて、日本の歴史ってそういうものだと思っていたので驚いた」という感想をもらいました。これには私もびっくりですが、よく考えてみるとそれだけ、今の世代にとって戦争の記憶というものが操作可能なものになってしまっているのかなあ、ということでもあります。だからこそ、「あるといえばある、ないといえばない」というような形での議論が有効になるし、それに対抗する言説もまた登場する意味や価値があるのかもしれません。

 

 そんな意味で、「どう責任をとるか」という議論から入っていくのが当たり前だと思える私たちの世代と、「責任あるんだ」という世代(極端にいうと、太平洋戦争がいつ始まったか、あるいはアメリカと戦争したことを知らない人たち)との間では、この高橋さんの議論の受け止め方も相当違うのでは、と思うのです。

 

 

 

(芝崎厚士)

 

N氏のコメント】

 

高橋哲哉『歴史/修正主義』に関するコメント

 

 当日の講義の参加者からも指摘されたことですが、本書の議論の第一の特徴は、「責任を否定する論理」の否定にあると思います。その結果として、本書では、高橋氏のいう「責任」が、どういう事実に対する、どういう基準(複数であり得る)に基づくものなのかについての積極的に証明する部分がかなり限られたものになっています。こうした本書の特徴は、芝崎氏のコメントで指摘されるように、結果として高橋氏が主張する「責任」が法的・政治的に有意なものとなるための道筋を極めて曖昧なままにしています。

 

 多少言い過ぎであることを承知で書かせてもらえば、高橋氏の主張も、「責任」を認めることによる道義性の主張に止まっている限りは、同じく「倫理の問題として登場した側面が強い歴史修正主義」の補完物の役割を果たしているに過ぎない、という感さえ抱きました。そして、こうした閉鎖された対抗関係における両者の倫理性の争いに戦争及び戦後責任を巡る言論が止まっている限り、被害者の救済を含む社会制度の改編への道筋をつけることは困難であろうとも思いました。

 

 戦争・戦後責任の問題を単なるゼロサム・ゲームに還元することなく、高橋氏が主張するように普遍的な立場に立って捉えるのであれば、少なくとも現実の責任追及において何故、各国・各地域において大きな偏差が生じているのか(あるいは、そう思われているのか)についてもう一度、検討し直す必要があるのではないかと思います。というのも、この問題に限ったことではないですが、ある問題を巡る判断の枠組みは常に複数存在し、個々の枠組みが十分にその機能を果たすためには他の判断枠組みとどのような関係を築くのかという問題は不可欠だからです。こうしたことを考えた場合、本書の「女性国際戦犯法廷」に対する検討は、「法」という社会制度を議論の対象にしながらも、この問題が抱える多くの法的な課題を過度に倫理的な評価に置き換えてしまい、倫理と法という異なる判断枠組みをどのように橋渡しするのかという点に答えるものではなかったと思います。むしろ、法と倫理、あるいは正義という異なる判断枠組みをほとんど無媒介に接合することによって、この問題を巡る複雑さを十分に描き出せていないと思いました。

 

 私自身は、この本を読んで、今後は第二次大戦で戦勝国や中立国であった国も含め、戦争や植民地支配の過去を巡る複数の判断枠組みを浮かび上がらせ、それぞれの枠組みがどのような関係をもって一つの国家や社会、そして地域において戦争及び戦後責任の追求の偏差を生み出してきたのかを、もう一度捉え直してゆく必要があるのだと思いました。そして、近年、とみに戦争・戦後責任という問題が世界的に議論されるようになって来たこと自体が、こうした枠組みの関係性の再編される過程の出来事なのだろうと考えました。こうした点から考えると、やはり従来の敗戦国間の比較(日独)の多くは、判断枠組みを倫理のレベルに還元し過ぎていた嫌いがあったのではないかとも思いました。

 そして、こうした判断枠組みの多元性を認識することによって、初めて戦争・戦後責任の問題を単なる過去のものとしてではなく、今日の日本社会においても様々な場で噴出する「問題」とそれに対する「責任」の在り方にも繋がる、「責任」の社会的な意義を捉え直す契機とすることが出来るのではないかと考えるようになりました。

 

 最後に念のために付け加えさせてもらえれば、高橋氏の戦争・戦後責任に関する取り組みは本書に尽きるものではありません。本書だけで高橋氏のこの問題に対する取り組みの全てを判断することは到底出来ませんし、すべきではないでしょう。

 

世界各国の戦争・戦後責任に関する文献

戦後補償編集委員会 ()、『ハンドブック戦後補償』、梨の木舎(1992/08/01)、¥2,320

山下公子、『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』、講談社選書メチエ(1997/04/01)、¥1,456

渡辺和行、『ナチ占領下のフランス沈黙・抵抗・協力』、講談社選書メチエ(1994/12/01) 、¥1,456

ルディ・カウスブルック、『西欧の植民地喪失と日本オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』、草思社(1998/09/01) 、¥2,200

 

 

 

 

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