研究ノオト34 国際政治学の7つの課題

2002/08/19第1稿

 

【テクスト】

 

鴨武彦「基調講演:グローバリズム・リージョナリズム・ナショナリズム−21世紀の役割を模索するアジア」『国際政治』第114号(1997年3月)、1−26ページより。

 

【目次】

 

1 問題の所在

2 7つの基本的な問題−われわれは、何を議論すべきか

3 アジア・太平洋の構造的特色 (略)

4 未来へ向けての日本の選択−平和の創造 (略)

 

【内容】

 

1 問題の所在

 

 冷戦終焉後の時代における国際関係の変容の実態を解明するためには、的確な問題設定を行うことが必要である。そして、その際には、認識やパラダイム間の対立という側面をも考慮に入れなければならない。

 

 冷戦終焉以後、世界政治の変容に関しては二つの対立する見解が存在した。

 

第一の立場とは、ネオ・リアリストであるK.ウォルツに代表される、冷戦以後の世界政治の変容は根本的なものではなく、単なる力関係のレベルでの循環的変化に過ぎない、とみなす考え方である。彼らは、冷戦の終焉は構造的な変化ではあるものの、ユニット・レベルの変化以上のものではないと考え、核抑止を中心とした「大国の興亡」が生じる可能性について言及している。

 

鴨教授は、この立場は国際政治の基本構造であるアナーキーという性格が変化することはあり得ないという認識に最初から立っており、また国際システムの変容におけるナショナリズムの問題、さらにはリージョナリズムやグローバリズムの間の相関関係などにも考慮を払っておらず、極めて狭く定義された戦略的枠組みの中での国家行動に分析を限定していると評価している。また、ウォルツのシナリオにあるような、日本の核武装の可能性についても否定的である。

 

第二の立場とは、現在の変化は国家の行動様式や国際システムのレベルでの根本的な変化であり、冷戦の終焉は政治的経済的リベラリズムの勝利であると考えるF.フクヤマ(「歴史の終わり」など)に代表される議論である。鴨教授は、ヨーロッパの統合過程に言及しつつ、ナショナリズムが政治的・経済的リベラリズムによって凌駕されると考えるのは時期尚早であり、国民国家とナショナリズムは消滅するよりもむしろ、新しいゲームのルールへと変容しつつあると考えている。

 

2 7つの基本的な問題−われわれは、何を議論すべきか

 

E・H・カーはかつて『ナショナリズムの将来』(1945)において、第二次大戦後の国際関係が第四局面に入ったと述べ、国民国家は、ナショナリズムは道義的に広く通用するという立場からの、内側からの挑戦と、ナショナリズムは広くどこででも通用する影響力が存在するという立場からの挑戦にさらされることになり、ヨーロッパ統合の可能性を予測した。

 

その予測はかなりの程度当たったのであるが、ヨーロッパでそうした統合が起こったことの意味を、他の地域との比較において検討していかなければならない。そうした観点から導き出されるのが、第一の基本的な問題である。

 

第一の問題とは、国民国家体系の性質とナショナリズムの特質の、地域レベル・グローバルレベルにおける変容に関する問題提起である。鴨教授は、国民国家・国民国家体系が生き残りつつも革新的変化を迎えつつあるというホフマンの見解を踏まえ、アジアとヨーロッパの国際システム・国民国家の比較を行っていくことで分析を深めようとしている。

 

ホフマンは、ナショナリズムを(1)民族または国民意識、(2)状況としてのネーション、(3)国家に絶対的価値とプライオリティーを付与する教義やイデオロギー、という3つの次元で把握し、新機能主義者の楽観的な国民国家超克論を否定しつつも、国民国家の本質を変革するような方法があり得ることを指摘している。

 

第二の問題とは、高度先進諸国間の国際関係における変容は、国民国家・ナショナリズム一般の性質の変化としてとらえることができるかどうか、ということである。鴨教授は、国民国家の空虚化・欠陥化という現象を指摘するストレンジの見解を踏まえ、その見解が先進諸国間の競争全般に妥当するものの、個別には微妙に相違があり、その相違を分析していくべきであると考えている。

 

ストレンジの見解は以下のようなものである。まず、国家間競争の特質は領土や資源の支配から市場のシェアを巡るものへと変化しており、国民国家は時代遅れにはなっていないものの、制度的な欠陥を露呈しはじめていると考える。その理由は、第一に生産の国際化の進展によって国家の権威が弱体化していること、第二に、富裕な国家の自己認識の変容が、戦争ではなく世界市場のシェアの維持へ向かわせていること、第三に、権威が国家の上位・下位のレベルへ分散化していること、である。

 

第三の問題は、高度先進諸国間競争の特質における変化を、EC諸国間とEC、アメリカ、日本の三者間とで比較するということである。鴨教授は、EC諸国間においては、連邦的、機能主義的、政府間的なものがからみ合った、公式、非公式の統合という制度形成が行われて来たが、日米関係においてはそのような枠組みは存在せず、統合的な多国間的体制や枠組みを日米関係においてどのように形成しうるかが検討課題となる、と考えている。

 

 

日米関係に関しては、以下の点において変容が生じていると考えることが出来る。第一に日米関係は指導者と追随者の関係ではないということ。第二にソ連邦崩壊を受けて、日米安保条約の再定義が必要であるということ。第三に日本における新たなナショナリズムの浮上をアメリカが懸念しているということ、である。

 

いわゆるナイ・レポートが示唆するように、日米関係の今後は、統合的な枠組みに拠らずに長期的な対称的相互依存を制度化しうるかどうか、という点にも関わってくるし、そうした制度化への恒常的な努力も必要になってくるのである。

 

第四の問題は、国家観の戦争が考えにくくなる、というストレンジの命題に関連した、ラセットらが主張する民主的平和、すなわち民主主義国家が戦うことは稀である、という命題の妥当性を検討することである。鴨教授は、ハンチントンやカントを参照しつつ、その命題がかなりの程度妥当すると考えつつも、非民主主義国家に対する行動や、ナショナリズムとの関係について分析していくべきであると考えている。

 

ハンチントンの『第三の波』における議論は、客観的分析としてらセットのテーゼをサポートしているように見える。また、哲学的観点からは、カントの議論がそれを傍証しているかのようである、『永遠平和のために』におけるカントの平和連合の構想は、超国家的な世界共和国の理念ではなく、脱国家的な国家連合を目標としていた。つまりナショナリズムを廃棄することなく平和を制度化しうるというのがカントの構想であり、そのことは冷戦後世界の実情に適合するものである。

 

第5の問題は、ナショナリズムがリージョナリズムまたはグローバリズムに、あるいはその両方に克服、置換されるかという問題である。

 

ナショナリズムに関して鴨教授は、国民国家やナショナリズムは、新しいダイナミズムの中で挑戦を受け変容するものの、存続し続けると考える。しかし、鴨教授は、スミスが強調するようなアイデンティティ、文化、イデオロギーのレベルでのナショナリズムの強さを認めつつも、アンダーソンが論じるような3つのパラドクスを踏まえると、ナショナリズムに何の変化も生じないとは考えることができないと論じている(ここではスミスの土着主義的ナショナリズム把握と、アンダーソンの近代主義的ナショナリズム把握が暗に対照されている)。

 

 スミスのナショナリズムの定義は「自らが『国民』を形成していると認識しているある人的集団のために、自律性、統一、そしてアイデンティティの実現と意地を目指すイデオロギー的な運動」であり、それは共有された記憶、共通のシンボル、神話などによって特色づけられるのである。

 

 アンダーソンの言うナショナリズムのパラドクスは、第一に、歴史家が見た国家の客観的な近代性とナショナリスト当事者からみた国家の主観的な古代性との間に(つまり、当事者はナショナリズムの土着性を主張するが、客観的に見ればそれは近代に創出されたものである、ということ・・・)、第二に、社会文化的概念としての国家の形式的普遍性と、その具体的発現形態の強制不可能な特殊性との間(普遍主義的な形式で現れる特殊主義?普遍と特殊の共犯関係)に、第三に、ナショナリズムの政治的影響力の大きさと哲学的貧困・整合性の欠如の間に、存在する。

 

次にリージョナリズムに関して。単なる地域ベースの国家間連係やグループ形成ではなく、国家および脱国家アクターにとってのゲームのルールを変更することを目的とした、現在の国民国家体系に対する挑戦としてのリージョナリズムは、ナショナリズムとは競合し矛盾する。そうしたリージョナリズムには、国家主権を無意味化し国際紛争を減退する効果があると考えられるし、また政府主導型ではないリージョナリズムの役割についても検討していく必要がある。

 

重要なのは、グローバルな連係や枠組みの分析、特に国際連合を巡る諸問題である。そこには、安全保障理事会を多国間主義と多中心主義の現実にそった形で民主主義の原則に基づいて改革すること、国連の平和維持活動を成功させるための諸原則の確立、東アジアにおける予防外交や平和創設のための制度化などを議論するべきである。

 

第六の問題とは、冷戦後の時代における国民国家がパワーポリティックス(暗黙のうちに認められている国際的行動の準則で、軍事力の行使または軍事力による脅迫を有効な外交的および戦略的道具として認知するもの)を凌駕できるか、という問題である。冷戦終焉後もパワーポリティックスは作動しているが、ヨーロッパにおいてはニューポリティックスへの変容が見られる。そこで、世界諸地域間におけるパワーポリティックスの強弱の比較をしていくことが必要となる。

 

第七の問題は、アジアにおける国民国家が、ナショナリズム、リージョナリズム、グローバリズムにかかわる自らの思考パターンを変化させてているかどうか、ということである。日本を例に取ると、グローバリゼーションや国際化の進展によって、国民国家が国益だけではなく、国際社会共通の利益のための貢献をなしていくはずであるが、天皇制を中心とした均質的共同体という観念を生む政治文化が、そうした貢献にとってどのような意味を持つのか、という点が議論に値することになる。

 

【コメント】

 

 今やとても懐かしい、鴨先生の基調講演です。96年に54歳の若さで亡くなられた鴨先生は、私くらいの世代にとっては、書いたものが出たら必ず目を通さずにはいられないような影響力を持っていた数少ない先生の一人だったと思います。

 

『国際安全保障の構想』などを気負い込んで買い、わからないなりに一生懸命読んだり、『世界政治をどう見るか』を仲間と争って読んだりしたものです。講演会などでお話を聞いたりしたのも今では懐かしい思い出です。

 

われわれの世代に限定されることではない点としては、国際政治をそれ自体として、その全体像を明確な主張の下誠実かつある程度大胆に論じきれるスケールの大きさを持った研究者もまた、彼以降は出ていないような気もします。

 

この論文はいわば白鳥の歌に近いもので、96年に幕張で開催されたISA・日本国際政治学会合同の国際会議での基調講演です。7つの問題設定、というのは、カール・ドイッチュの10(12)の質問、というのともエコーするような気がしますし、また実際、この7つに関してこれ以降十分な答えが見いだされたかというと必ずしもそうではないわけで、こうして改めて読み直してみると発見が多いようです。

 

読後感としては、当時の鴨先生の立ち位置である、(1)リアリズム批判と理想主義的国際政治観、(2)統合論やリージョナリズム解釈への好意的なコミットメントへの投企、(3)戦後民主主義・平和主義的価値観からの問題提起、(4)それと関連した、2002年時点から見た国際関係把握の位相差、といったあたりでしょうか。

 

 まず、(1)に関しては、冒頭のウォルツ批判に明確に現れているように、endless recurrenceを至上命題とするようなリアリストの問題把握に否定的で、協調、共存、共生の契機が強調されていることが明白に伝わってきます。ネオ−ネオ統合が起きている現在、こうした理想主義対現実主義、的な把握、換言すれば規範的な国際政治観の衝突、というのが日本の国際政治学の大舞台で堂々と闘わされた最後の時代だったのかもしれない、などとつい考えてしまいます。

 

批判理論や規範をめぐる議論は、その後も数多くの議論が出ているわけですが、どちらかというと国際関係学の一分野として分業体制下に位置づけられてしまっているような気もします。最近の国際政治学そのものをめぐる議論は、もちろん鴨論文的なバイアスを「価値中立」的な観点から取り払ったかのような方向性をむしろ主流としているのかもしれず、またそれ自体が「科学的」な発展として肯定的に評価しうるのかもしれないのですが・・・

 

確かに鴨論文の場合、そうした価値判断へのコミットメントは明確であるわけで、客観的な分析と自分自身の政治的な見解とが混在するような主張は、今ではそれほど高く評価されないのかもしれないが、それでいいのかどうか、というようなことも考えてしまいます。

 

次に(2)についてですが、どちらかというと統合や、リージョナリズムの進展というものが、世界政治全体にとって戦争の可能性を減退させ、国際協調へ貢献する、という方向にのみ作用するかのような流れでとらえられているような気がしました。これらの方向性がもたらすものは実際には両義的でしょうし、また国家間に限らず国境を越えた諸関係がさまざまなコンフリクトを産む、という側面も軽視されているように思えました。

 

これは、ある時期まで日本において顕著だった、国際統合や地域主義に関するどちらかというと鴨氏と同じような方向性で期待の目を持って好意的に観察する、という統合論の系譜の存在、ということをふまえると、理解できるのではないかと思われます。常にヨーロッパを統合の実験場、「先進」ととらえ、その比較において考察を進めていく、ということに関してもその文脈で理解できるのではないでしょうか。

 

さらに(3)についてですが、たとえばグローバリズムの部分では今のわれわれが考えるようなことではなく、あくまで国連の機能向上、制度改革という面が強調され、また最後の日本の話でも、天皇制という政治文化が日本の閉鎖性を産む危険性について、今のわれわれが見るとやや唐突に見えるほどストレートな批判が展開されています(鴨さんが酒井直樹さんや小熊さんの本を読んだら、岩井克人&柄谷行人に匹敵する、新たなコラボレートが生まれたのかも)。

 

民主的平和の可能性を力説することから始まる、平和への投企、という理想主義的なコミットメントはもちろんですが、こうした国連中心主義や天皇制批判につながるような論調における鴨氏の立場の明確さは、今読んでみても気持ちいいくらい逃げも隠れもしていないところです。

 

最後に(4)について。一番はっきりしているのは、われわれがグローバリゼーションという自体に即して想像するような種々の課題、環境、人権、ジェンダー、援助、開発、科学技術、文化、などといった一連の問題軸に関する言及がスコーンと抜けていることでしょう。これは、もちろん鴨氏の落ち度であるわけでは全くなく、冷戦終焉後の最初の数年の間の国際政治学の論争軸と、その後21世紀に入ってのそれとがそれだけ大きく変わってきたということなのではないでしょうか。

 

もちろん、鴨氏の問題提起はそれ自体重要性を失っていないはずで、そうしたグローバル・イシューたちのなかにナショナリズム・リージョナリズム・グローバリズムの諸問題がいわば分散化していっていることもまた事実でしょう。この7つの課題の時代性を読み解くと同時に、21世紀におけるrelevanceをも考えていくことが、われわれに課された宿題であるゆえんです。

 

(芝崎 厚士)

 

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