研究ノオト33 ジェンダーと社会理論

2002/07/06第1稿

 

【テクスト】

江原由美子「ジェンダーと社会理論」『岩波講座現代社会学第11巻 ジェンダーの社会学』岩波書店、1995年、2960ページより(一部省略。なお、同論文は後に、江原由美子『フェミニズムのパラドックス』勁草書房、2000年に収録)。

 

【目次】

 

1 (略)

2 ジェンダー概念をめぐって

 (1)性別の「生物学的」一元的把握vs.性別の「自然/文化」という二元論的把握

 (2)自ら「普遍的」な「知」であることを主張する「人間」概念に基づく世界観vs.世界観には「性別」があることを主張するフェミニスト的世界観

 (3)性別という軸に基づく社会理論vs.性別という軸をいくつかの軸の一つとしておく社会理論

3 「性役割」の理論第一のジェンダー概念のパースペクティブ

4 ラディカル・フェミニズムとマルクス主義フェミニズム第二のジェンダー概念のパースペクティブ

5 「性別秩序」の理論第三のジェンダー概念のパースペクティブ

 

【内容】

 

1 (略)

2 ジェンダー概念をめぐって

 

 「問題」とは、さまざまな「現実」の間のせめぎ合いであり、「概念」とは、そうした複数の「現実」のそれぞれが、自分と異なる「現実」に対して異を唱え、対抗し、それ以前の「現実」を棄却しようとする際に産み出される。「概念」は、新たな「現実」が「問題」としようとするものを明確にするために創出されるのである。

 ジェンダー概念もまたこうした構図の中で形成されてきた。そこには以下のように大別して3つの「問題」が存在してきたのである。

 

(1)性別の「生物学的」一元的把握vs.性別の「自然/文化」という二元論的把握

 

 「性別の『生物学的』一元的把握」とは、性別を「自然的な差異」として規定する「常識」的な性別観であり、そこではセックスとジェンダーの同一性が前提されている。

 それに対してオークレーが提示した「性別の『自然/文化』という二元論的把握」とは、生物学的な性別であるセックスと、文化的・心理的・歴史的・社会的な性別であるジェンダーとを区別し、セックスとジェンダーの双方が、性別を決定する上で同じくらい重要であると主張し、性別の変更可能性を提示したものである。

 

(2)自ら「普遍的」な「知」であることを主張する「人間」概念に基づく世界観vs.世界観には「性別」があることを主張するフェミニスト的世界観

 

 「自ら『普遍的』な『知』であることを主張する『人間』概念に基づく世界観」とは、「歴史」「文学」「芸術」「科学」などの「知」は、「人間」一般に誰にでも妥当しうる、客観的で特定の立場に立っていない性格のものであると考えるものである。

 それに対して「世界観には『性別』があることを主張するフェミニスト的世界観」とは、そうした「歴史」「芸術」などの普遍性を標榜する「知」が実は女性の経験や意識を排除した男性中心主義的なものであり、にもかかわらずその男性中心主義を、普遍性を唱えることで隠蔽しようとしていると考えるものである。

 社会科学においても、その妥当範囲は普遍的であると考えられていたが、実際にはジェンダーにたいする考慮は不十分であり、男性社会成員の経験だけが不当に重視される傾向があった。しかし、「文学」や「芸術」と違って、社会科学に対する男性中心主義批判は、既に存在していたイデオロギー批判と同質視されることが多く、むしろジェンダー概念が社会科学に与えた影響としては、研究主題の問題として性別間の差異や対立が分析されるようになった点があげられるが、その際に「ジェンダー」を「性別」の単なる同義語として使うような傾向も招いた。

 

(3)性別という軸に基づく社会理論vs.性別という軸をいくつかの軸の一つとしておく社会理論

 

 「性別という軸に基づく社会理論」とは、既に見てきたような常識的性別観や普遍的世界観に対する対抗概念として「性別」の可変性や世界観の「性別性」を主張するようなジェンダー概念に基づく理論である。

 いっぽう、「性別という軸をいくつかの軸の一つとしておく社会理論」とは、ジェンダーという概念自体が、もともと複雑で多様な個々の人々や集団の有り様を性別の名の下に過度に一般化してしまうことで、エスニック・マイノリティの女性、同性愛の女性、障害者の女性、高齢の女性といった人々の存在を覆い隠すものであると考える。

 この立場に立つと、ジェンダー概念に基礎を置くフェミニズムが実はそうした人々を排除する「白人中産階級異性愛者女性中心主義」に陥っているのであって、ジェンダーをあくまで、階級制やエスニシティなどといった、世界観を規定するさまざまな要素の一つとして、他の要素とともに理解していくべきであるということになり、そこから「性別秩序」の理論も展開されることになる。

 

3 「性役割」の理論第一のジェンダー概念のパースペクティブ

 

 「性役割論」とは、「男らしさ」「女らしさ」といった、性別に基づく社会における役割が、どのように学習され、形成されていくかを分析していく議論である。この理論は7080年代の女性学研究の中心的理論となり、そこでは「役割期待」による性役割の形成、そうした性役割が社会的に指示され、強化されていく「性役割の社会化」メカニズム、与えられた役割に対する「役割葛藤」、性役割自体の歴史的な形成過程とその変化などが分析された。

 コンネルによれば、「性役割」理論は性別の社会的決定要素を強調することで「生物学的性別」決定論から脱却し、性役割の変革可能性を見いだす上で有効であったが、その一方で、性役割を形成する社会的要因を個々の主体のレベルでとらえてしまうため、人種や階級といった社会のマクロな構造の一環としての男女間の権力関係を見過ごしてしまうことになる。

 ただし、性役割(ジェンダー・ロール)の理論は、男女間の権力関係を必ずしも見過ごしているわけではない。しかし、性役割の理論が両性間の社会関係を闘争としてではなく、相補的役割関係として記述しがちであることも否めず、分析の俎上になっている性役割そのものを創出する社会構造が外部化されているという意味で、コンネルの批判は当を得ている。

 

4 ラディカル・フェミニズムとマルクス主義フェミニズム第二のジェンダー概念のパースペクティブ

 

 ラディカル・フェミニズムとは、男女間の利害対立や支配被支配関係は、階級等の他の社会問題の副産物として考えることはできず、独自の位相を持つ、と考える。前近代性や階級といった問題の副産物としてしか男女間の不平等という問題は扱うことができないリベラリズムやマルクス主義に対して、家父長制に基づく男性による女性支配の制度、とりわけ性愛に関する制度が女性の身体・セクシュアリティ・精神を拘束しており、それらの問題は他の問題には還元し得ないものであると主張する。

 マルクス主義フェミニズムとは、ラディカル・フェミニズムを下敷きにマルクス主義理論を批判的に再構築したもので、男女の不平等や支配被支配関係の本質を男性による女性の労働の搾取にあると考える。性愛による女性の男性に対する従属、という側面よりも、家事労働による経済的な従属を重視している。

 フェミニズム社会理論は、性役割理論では分析困難であった、男女間の不平等な社会構造を解明することができたという長所を持っている。しかし、男性・女性というカテゴリーを固定化してしまうことで、ジェンダー理論がもともと持っていた人々の変容可能性に対する視線が不当に抑制されがちである。こうした「カテゴリー的」なアプローチは、男女間の政治的対立関係を描き出すことに執心するあまり、「誤った普遍主義」を横行させる可能性があると考える論者もいる。

 

5 「性別秩序」の理論第三のジェンダー概念のパースペクティブ

 

 「性別秩序」の理論とは、ジェンダーを「性別」や「女の同義語」としてではなく、「性差にかんする知」「性別や性差を認知しそれに言及し意味づけるという社会的実践」、そうした「知」や「実践」に密接に関連する社会秩序としての「性別秩序」として定義し、社会全体の権力現象を分析する枠組みの一つとしてジェンダーをとらえていく理論である。

 そうした議論の先駆と考えることができるのは、ポスト構造主義的な立場から『ジェンダーと歴史学』を著したジョーン・スコットである。

 彼女は、ジェンダーを(1)両性間に認知された差異に基づく社会関係の構成要素、(2)権力の関係を示す第一義的な方法、としてとらえる。次に、(1)に関しては、文化的シンボル、規範的概念、社会的経済的政治的制度、主観的アイデンティティによって規定されていること、(2)については、性別カテゴリーの比喩が政治的比喩として利用される側面に注目する。そして、こうした比喩と両性関係の規定のされ方の相互関係を見ていくことで、政治システム全体の変動と両性間の社会関係とを連動させて考察しようとしているのである。

 こうした性別秩序の理論に対しては、かつてフェミニズム社会理論が批判したような中立を装った学問権威主義に陥る可能性がある点を批判することもできる。しかし、両性間の社会的な関係の歴史的な変容過程を社会の構造全体との関係の中でトータルに把握し、未来を構想していく上では有益である。

 

【コメント】

 

 ジェンダーやセクシュアリティ、フェミニズムや女性学に関連する文献として、1本でおおまかな全体像をレビューできる論文をいろいろ探してみたのですが、現時点ではバランスの良さ、記述の密度の濃さ、目配りの行き届き方などといった点を考えると、どうもこれがなかなかよさそうです。

 上野千鶴子さんの本も昔いろいろ読んでみたのですが、江原さんの見取り図の書き方は上野さんとはまた違った意味で洗練されていると思います。両者の違いとして何となく私が思うのは、社会科学とはどういうものであるべきか、という根底に関する立ち位置そのものの相違です。私は、性別に限らず個人のバイアスを排除し尽くせないと言う意味で、社会科学は完全に客観的な認識を獲得し得ないが、にもかかわらず、もしくはそれ故にそうした自己のバイアスを見つめつつ、可能な限り客観的な認識を獲得していこうとする努力を怠るべきではない、と考えているので、江原さんが「性役割」理論とフェミニズム社会理論を止揚するような形で、学問権威主義に陥る可能性があると言う批判を受けつつも、性別秩序理論という枠組みに基づいて、この世界をよりよく理解するという学問の根源的な目標へとジェンダーの社会理論を接続していこうとする姿勢に共感してしまうのかも知れません。

 もう一つ言えば、そうした学問的な方向性と現実に世の中に存在する問題に対するコミットメントとのバランスの取り方も、江原さんと上野さんとでは微妙に違うような。。。私はそれ以上はよく分からないのですが、上野さんと江原さんの比較みたいな話はだれかがやっているんでしょうか。

 それから、つい最近刊行された、『女性学事典』も早速購入して読んでみています。これはまことにタイムリーかつ充実した内容で、とても勉強になります。ぱらぱらめくっていると、自民党の党員の40%が女性だが、役員になると女性の比率は3%に落ちるとか、どこから読んでも役に立ちます。

 ただ、1つ気になったのですが、「マルクス主義フェミニズム」という項目がなく、かわりに「社会主義フェミニズム」という項目が立っていました。しろうと考えなのですが、マルクス主義フェミニズムの方がよく流通している用語のような気もするんですけどね、どうなんでしょう。

 それから、ジョーン・スコットの『ジェンダーと歴史学』、最初の半分位を読み終えました(荻野実穂訳、平凡社)。この人の頭のよさ、議論の切れは大変なもので、いちいち感心することしきりです。こういう研究を傑作と言うんだろうなあと思いました。その後もスコットはいろんな研究をしているようで、洋書をいろいろ買ってみようと思っています。でも彼女の項目も『女性学事典』にはないんですよね。

 さてさて、あとは、上野千鶴子&小倉千加子『ザ・フェミニズム』も面白かったです。上野さんよりも小倉さんのしたたかさが特によかったと思います。小倉さんの『セクシュアリティの心理学』も、いま少し読んでみています。

 

 あと、触れなければならないのは、ジェンダーと国際関係、もしくは国際関係研究という問題設定です。この点に関しては、シンシア・エンロー、クリスティーヌ・シルヴェスター、ジョン・ホフマン、アン・ティックナー、シンシア・ウェーバー、邦訳が出ているサンドラ・ウィットワースをはじめ、かなりの数の本が英語圏では出ていますし、論文も相当にあります。

 しかし、日本の国際関係研究者でそうした研究を積極的に摂取している人はあまり多くないような(サンドラ本の訳者である羽後さんをはじめとする幾人かの方々かな)気がしています。江原さん的な、理論としての方向性を詰めていくというやりかたの一環としては、個人的には興味のある分野です。

 そのうちどういう文献があるか一通りまとめてみます。

 

(芝崎厚士)

 

 

【参考文献】

江原由美子『フェミニズムのパラドックス』勁草書房、2000年。

江原由美子『ジェンダー秩序』勁草書房、2001年。

江原由美子『自己決定権とジェンダー』岩波書店、2002年。

上野千鶴子『差異の政治学』岩波書店、2002年。

上野千鶴子、小倉千加子『ザ・フェミニズム』筑摩書房、2002年。

小倉千加子『セクシュアリティの心理学』有斐閣、2001年。

東清和、小倉千加子編『ジェンダーの心理学』早稲田大学出版部、2000年。

 

 

 

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