演習室29 社会科学とヨーロッパ中心主義

Seminar 29 Social Sciences and Eurocentrism

2002/01/14 第1稿

 

【テクスト】

 

I.ウォーラースティン「ヨーロッパ中心主義とその化身 社会科学のディレンマ」、山下範久訳『新しい学 21世紀の社会科学』藤原書店、2001年、第11章(Immanuel Wallerstein, The End of the World as we know it: social science for the 21st century, University of Minnesota Press, 1999, Ch. 11.)

 

【目次】

 

1 はじめに

2 歴史記述

3 普遍主義

4 文明

5 オリエンタリズム

6 進歩

7 ヨーロッパ中心主義批判その1

8 ヨーロッパ中心主義批判その2

9 ヨーロッパ中心主義批判その3

10 「二つの文化」

 

【内容】

 

1 はじめに

 

 近代社会科学がヨーロッパ中心主義的であることは否定しようのない事実である。ここではヨーロッパは、アメリカを含めた西ヨーロッパ、北アフリカあたりを含めた文化的な対象として考えている。さて、そうした近代社会科学の様々な限界は特に1945年以降露呈されてきた。しかし、近代社会科学のヨーロッパ中心主義を批判するには慎重なやり方が必要である。なぜなら、ヨーロッパ中心主義を批判しているつもりが知らず知らずのうちにヨーロッパ中心主義を強化してしまっていることが多いからである。

 

 社会科学のヨーロッパ中心性は、(1)歴史記述(ヒストリオグラフィー)、(2)普遍主義、(3)文明、(4)オリエンタリズム、(5)進歩、といった点に即して批判されてきた。以下ではそれらの点を素描し、さらにそれらを批判する方法に関して議論していく。

 

2 歴史記述

 

 歴史記述に関する論点は、ヨーロッパ中心主義的な立場からは、近代世界の形成にもっとも貢献したのがヨーロッパである、という議論である。ヨーロッパが大きな役割を果たしたことは認めざるを得ないとしても、それでも疑問に残るのは、なぜ他の人々ではなくヨーロッパ人が、そしてなぜその時点においてそれらのことを成し遂げたのかという点である。その点を説明しようとすると、今度は歴史を遡及的にたどることになる。

 

 こうした議論の前提になっているのは、「16世紀から19世紀のヨーロッパに責任が帰される新案物がなんであるにせよ、その新案物は良いものであり、ヨーロッパが誇るべきもののひとつであり、世界のその他が羨むべき−少なくとも感嘆すべき−もののひとつであるというものである」。社会科学はこうした前提に立って歴史記述を行ってきたのであり、それに対しては様々な形で批判や疑問が提起されてきた。

 

 そうした批判は重要であるが、その批判が本当にその前提から断絶しているのかどうかを、我々は慎重に検討する必要がある。

 

3 普遍主義

 

 「あらゆる時間と空間とを越えて有効な科学的真理が存在するという見方」としての普遍主義は、法則定立的な科学であれ歴史的・個性記述的な科学であれ、ヨーロッパの歴史的経験を普遍的なものとして捉え、それを基準にした通時的段階論を構成するという形で社会科学の中に植え込まれてきた。

 

 こうした普遍主義は、ニーダムの議論が示すように明らかに誤りであり、ヨーロッパという個別の事例を不当に一般化したものに過ぎない。にもかかわらず普遍主義を標榜するが故に、社会科学は単に普遍主義的であるばかりではなく、偏狭でもあったのである。

 

4 文明

 

 その具体的な意味内容については議論の幅があるとしても、ヨーロッパが自らを「文明」であると考え、それ以外の地域を「未開」「野蛮」とみなすという思考は大変根強いものである。そして、そうした文明的な価値が、価値自由を標榜する社会科学の中に埋め込まれてきたのであり、リッケルトが言うように、社会学は価値判断から自由ではない以上、そのことによってヨーロッパ中心主義が機能してしまうのである。

 

 こうした文明の単一性、そしてヨーロッパ文明の歴史的一貫性(と優秀性)を素朴に措定する議論は、今日様々な形で批判されている。

 

5 オリエンタリズム

 

 「非西洋諸文明や諸特徴についての様式化、抽象化された言表」としてのオリエンタリズムは、近代以前はキリスト教徒/異教徒、という区別を前提として形成されてきた。近代以降には、そうした二元的な社会的世界観は、西洋/東洋、近代/非近代という区別をたてるようになってきた。サイードやアブデル=マレクの著作は、そうした議論の歴史的な展開を明らかにしている。

 

 こうした二項対立は、それを生み出す学問の方法論的な問題点という意味でも疑問の余地があるが、さらに問題なのは、そうした概念構成による表象が西洋の植民地支配や帝国主義的抑圧を正当化するイデオロギーを下支えした、ということである。オリエンタリズムに対する攻撃も展開されているが、これも一歩間違えると敵を攻めているようで実は強化してしまいかねない。

 

6 進歩

 

 進歩、発展、進化、といった概念が社会科学と密接に結びついていると言うことに関して贅言を要することはないであろう。それらの概念が持つ価値によって、「べき」論に根拠が与えられてきたのであり、いわば非西洋世界にそれらは押しつけられてきたのである。

 

 進歩に対しても様々な批判があり得るが、進歩批判はヨーロッパ中心主義批判とは切り離しがたいものであり、双方を共に有効に批判していく必要がある。

 

7 ヨーロッパ中心主義批判その1

 

 ヨーロッパ中心主義批判には3つのスタイルがある。それは、(1)ヨーロッパによって中断されるまでは、ヨーロッパだけではなく、他の諸文明もまた近代へと向かっていた、(2)ヨーロッパの成し遂げたことは他の諸文明が成し遂げたことと本質的に差異はなく、その延長または一部に過ぎない、(3)ヨーロッパの成し遂げたことは世界にとって危険でマイナスの帰結をもたらしていた、というものである。

 

 第一の批判は、文明の多系性、多元性、あるいは同時進行性を措定することで、ヨーロッパだけが近代/資本主義へ向かっていたのではないと主張する。しかしこれでは、なぜヨーロッパに近代/資本主義が登場したのかが説明できない。そして、ヨーロッパを「悪の英雄」に仕立ててしまう。というのも、ヨーロッパの功績自体は結局認めていることになるからである。

 

 結局こうした批判は、反ヨーロッパ中心主義的に見えながらも結局はヨーロッパ中心主義が持っている根本的な前提を崩すどころかかえって強化してしまうのである。

 

8 ヨーロッパ中心主義批判その2

 

 第二の批判は、ヨーロッパはユーラシア大陸という「世界」(エキュメーネ)に属する「周縁」にすぎず、人類史的に観ればヨーロッパが他の地域の水準を上回っていた時期はほんの一時期に過ぎないのであって、ヨーロッパで起きたことは人類史的に観れば何ら特別な新しいことではなかった、と考えるものである。

 

 こうした批判はまず第一に、資本主義が持つ歴史性を捨象し、諸文明が持つ本質的な差異を抹消してしまう。第二に、ヨーロッパの勲功自体は一切脅かされないし、世界の構造の変動を見極める視座は得られないのである。以上のような意味で、この手の批判もまた反ヨーロッパ中心主義的ヨーロッパ中心主義に陥っており、ヨーロッパ以外の地域が形成してきた価値体系を結局は否定することにつながってしまう。

 

9 ヨーロッパ中心主義批判その3

 

 第三の批判は、「ヨーロッパがなしたことが何であれ、それは、これまで不正確にしか分析されておらず、不適切な議論の押しつけに従属していて、科学に対しても、政治的世界に対しても、危険な帰結をもたらしていた」というものであり、これが最も重要で有効な批判のやり方である。

 

 ヨーロッパの成し遂げたことにはプラスの面よりもマイナスの面の方が大きかった。たとえば資本主義システムは人間の進歩を示すものではないのであり、それは「このような特定のタイプの搾取システムに対する歴史的防御機構が破綻した結果」生じたものだと考えることができる。他の地域で起きていたのは、資本家層が過度に政治・経済・社会的に突出してしまいそうになると必ず、他の制度的な集団によってその暴走に歯止めがかけられ、抑制されてきたということであり、中国やイスラムなどの歴史的な功績は、まさにそうしたメカニズムを発達させ、資本主義を拒んできたと言うことである。

 

 西洋世界ではそうした機構が機能しなくなってしまい、そして資本主義システムは全面的に拡大してしまった。だからといって、「これが不可避であるということも意味しないし、望ましいものであるということを意味するものでもないし、いかなる意味でも進歩であるということにはならない」のである。

 

10 「二つの文化」

 

 これまでの近代社会科学が持っていた普遍主義とは異なる普遍主義をめざすには、近代世界で発達してきた知の構造に目を向ける必要がある。そして、近代の知に関して重要なことは、それが「二つの文化」、すなわち科学と哲学/人文学との根元的乖離、もしくは「真の探求と善および美の探求との分離」を生み出し、それに従って発展してきてしまったということである。

 

 この分離によって、「専門的」な議論と「実質的」(社会的・政治的決定に関わる)な議論とが乖離し、科学と規範・倫理が無関係なものとなってしまった。我々はこの乖離から脱却し定価なければならないし、近年の議論はそうした「二つの文化」に対する批判に向けられている。

 

 人類の将来を構想するためには、ヨーロッパ中心主義を反ヨーロッパ中心主義的ヨーロッパ中心主義に陥らない形で批判することが必要である。そして、より包括的な普遍主義にたどり着くためには、二つの文化を同時に扱うという困難な課題に取り組まなければならない。

 

【コメント】

 

 ウォーラースティンの社会科学論のエッセンスがバランスよく詰め込まれた論文です。もともとは、1996年11月22−23日に韓国はソウルで行われた国際社会学東アジア地域コロキアム「東アジアにおける社会学の未来」の基調講演だそうです。

 

 これらの議論については、『脱=社会科学』や『社会科学をひらく』などですっかりおなじみの内容でもあり、真木悠介『気流の鳴る音』(普遍としての土着、特殊としての近代)、大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(近代科学による捨象、合理と非合理)、中村雄二郎『臨床の知とは何か』(普遍主義、客観主義)、竹内啓氏の緒論文、山脇直司『新社会哲学宣言』(哲学と科学の分離)などと共鳴するところ大であります。

 

 ここでキャッチワードになっているのは、ひとつには「反ヨーロッパ中心主義的ヨーロッパ中心主義」という言葉で、なかなかいいフレーズですね。批判が批判のように見えて敵を助けてしまっている、というのは、相手の根本の前提を共有した上で議論をしている場合によく起こることです。

 

 これは、実際にはウォ氏の議論の側に立っても起こることで、たとえばヨーロッパの普遍性を特殊性として読み替えるべきだという場合、ヨーロッパにもあるはずの普遍性を過度に特殊性として押し込めてしまうと、より包括的な普遍性を構築しにくくなるとか、資本主義に対する評価(どこまでが普遍で、どこまでが個別か)に関しても過度に辛くなるかもしれない、とかいった話になるかな、と思いました。

 

 いずれにしても、いずれの側に立っても、ここで提起されるような価値のバランスが問われるわけで、そこをびしっと言い当ててみせるウォ氏の力量はさすがです。

 

 とりわけ資本主義に対する評価の部分は、第一に、ヨーロッパの成し遂げてきたことはプラスよりマイナスの面が多かった、という論点、第二に資本主義を拒み、歴史的防御機構を発達させてきたという中国やイスラムの位置づけ、という論点など、多くの人にとって新鮮に見える反面、下手をするとウォ氏自身が批判するところの批判のあり方におとしめられかねないという微妙さを持っているように思え、彼の筆にも緊張感が漂っている気がしました。

 

 私が問いたいのは、やはりあとは人間および人間観の変容の問題でしょうかね。どう対抗していくか、という話には基本的には賛成ですが、21世紀における人間の実存のあり方はここ100年ほどの間にかなり変容していると思うので、制度や構造の変化だけでなくその部分をウォ氏がどう考えているか知りたいところです。

 

(芝崎厚士)

 

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