演習室24 開発経済学の展開と現状

Seminar24 Development Economics: past and present

2001/11/12 第1稿

 

【テクスト】

 

絵所秀紀「南北問題と発展のオルターナティブ」『国際問題』2000年12月号、37−50ページ。

 

【内容】

 

はじめに

1 構造主義の開発ヴィジョン

2 新古典派アプローチの開発ヴィジョン

3 発展のオルターナティブ

 (1)制度の重要性

 (2)開発の意味

おわりに

 

【内容】

 

はじめに

 

 本論文の目的は、第二次大戦以後の開発経済学のパラダイムの展開を明らかにすることである。構造主義が60年代前半まで、新古典派が80年代前半まで、その後は新制度派・新歴史学派が登場し、加えて改良主義の流れを汲む潜在能力アプローチが登場し、現在に至る。

 

1 構造主義の開発ヴィジョン

 

 構造主義開発経済学は、第2次世界大戦終了後から1960年代前半に欠けて支配的であった。構造主義開発経済学は、(1)途上国の発展の阻害要因は供給サイドの硬直性にある、(2)先進国と途上国の経済構造には質的な相違がある、という前提をおいている。そして、政府のプランニングにより「飛躍の一時期」を創出することで発展を達成するべきであると考え、また戦後の自由貿易システムによってでは南北格差が拡大する一方であると主張した。

 

 構造主義開発経済学は4つの仮説によって支えられていた。すなわち、(1)資本不足、外貨不足、食糧不足などの供給サイドの制約が発展を阻んでいるという「供給制約論」、(2)「プレビッシュ−シンガー命題」に代表される、一次産品の輸出よりも国内市場向け工業化、または輸出代替工業化の有効性を主張する「輸出ペシミズム論」、(3)ローゼンシュタイン=ロダンの「ビッグ・プッシュ論」に代表される「市場の失敗論」、(4)ルイスの「二重経済モデル」やガーシェンクロンのキャッチ・アップ論に代表される工業化論、である。

 

 工業化論と資本不足解消の必要性という論点は、現在でも開発経済学が引き継いでいる。しかし、「市場の失敗論」と「輸出ペシミズム論」は、その後新古典派アプローチの激しい批判にさらされた。とはいえ、現時点から見るとこの二つの論点もまた、決して無視することのできない重要性を持っている。

 

 構造主義の問題点は、市場経済よりも計画経済の優越性を無条件の前提としているため、政府が常に公正で有能であると仮設していることにある。 

 

2 新古典派アプローチの開発ヴィジョン

 

 新古典派アプローチは、途上国と先進国の経済の間の質的な相違を否定し、市場経済に基づく価格メカニズムによる需給調整能力に依拠するものである。シュルツの伝統的農業に関する種々の神話を覆す議論は、そうしたアプローチの嚆矢となった。

 

 新古典派アプローチによる構造主義批判としては、(1)輸出ペシミズム論に対しては、貿易を軸に据えた外向きの開発、輸出志向工業化を主張し、(2)市場の失敗論に対しては、クルーガーの「競争的レント追求」やバグワティの「直接非生産的収益(DUP)活動」といった概念化によって政府の非効率性を明らかにし、政府の失敗論を立てて、市場メカニズムや民間活力の導入を主張していった。

 

 こうした新古典派アプローチは、1980年代に入ってIMF・世銀の「構造調整援助論」の理論的主張となっていく。コンディショナリティーをめぐる「ワシントン・コンセンサス」などはその代表的な現れである。

 

 しかし、新古典派アプローチもまた、政府の失敗論を主張しながら構造調整改革の主体として政府を想定するという矛盾に陥っていた。いわば新古典派も構造主義も、政治システムのあり方に関する議論を外部化しているがために、こうしたアポリアを抱えざるを得なかったのである。

 

3 発展のオルターナティブ

 

 (1)制度の重要性

 

 新古典派アプローチが硬直化するなかで、80年代後半以降、これまで外部化されてきた制度の要因を重視し、政府、市場、制度・組織を総合的に把握するアプローチとして「新制度派アプローチ」が登場してきた。新制度派アプローチは、新古典派アプローチを継承しつつも、その前提を改めて批判的に再検討していくことで、新たな理論装置を生み出していくことになる。

 

 その第一の系統は、情報の完全性という前提を批判し、情報の不完全性から出発して、政府・市場の不完全性を基礎において双方をとらえていく、スティグリッツなどに代表される「不完全情報の経済学」である。第二の系統は、取引費用ゼロという前提を批判し、交換の歴史的展開から国家、制度、イデオロギー、教育などの意味を問い直した、ノースなどに代表される「新歴史学派アプローチ」である。

 

 (2)開発の意味

 

 IMF・世銀で新古典派アプローチが展開されたのと平行して、国連エコノミストの間では改良主義が主唱された。改良主義は、トリックル・ダウン仮説に異議を唱え、BNなどの人間の生活の具体的な様相に着目し、教育、健康、栄養、人口などといった問題解決を、いわば倫理的な課題として捉えていくものである。改良主義アプローチは、冷戦以前までは新古典派アプローチの補完的な位置に甘んじていたが、冷戦後は、改良主義が取り組んできた問題が世界で顕在化してきたこともあり、こんどは主舞台へと登場することとなった。

 

 こうして、成長優先主義から開発の目的論へと課題がシフトしていくなかで、アマルティア・センは、改良主義をさらに発展させる議論を展開した。

 

 センによれば、開発とは個々人の潜在能力の拡大を実現することであり、貧困とは、個々人の基礎的な潜在能力が欠如している状態である。

 

 「潜在能力」とは、「ある人が経済的、社会的、および個人の資質のもとで達成することのできる、さまざまな『であること』と『すること』を代表する、一連の選択的な機能の集まり」である(参考文献の絵所論文より)

 

 潜在能力アプローチとこれまでの改良主義アプローチの相違として、後者が財志向であるのに対して、後者は人間志向であるという点があげられる。「生活の質」や「よく生きること」を実現することは、単なる財の効用という尺度のみによってははかりがたいものであり、もっと哲学的・倫理的な概念を基礎に置かなければならないのである。

 

 センは、貧困と栄養失調の比較研究などを通して、「権原(エンタイトルメント)」(「ある人が消費を選択することができる財の集まり」で、(1)「天与の資質」と(2)「交換エンタイトルメント」に分けられる 参考文献絵所論文より)という概念をさらに導入して潜在能力アプローチに基づく考察を行い、政府の公共政策の重要性を改めて指摘し、また公共活動を「政府の政策」と「公共の参加」に分類して、双方の必要性を説き、また公共の参加には政府に「協力的な参加」と「批判的な参加」の双方が不可欠であると主張した。こうしたセンのアプローチは、UNDPや世銀の活動に大きな影響を与えている。

 

おわりに

 

 開発経済学は元々、途上国の経済ナショナリズムという準拠枠に沿って、マクロ経済学の一分野として発達してきた。現在では新制度派アプローチと潜在能力アプローチが有力であるが、これらはむしろミクロ・アプローチを重視していると考えることができる。また、両者とも、倫理や規範の問題に関心を示しているし、潜在能力アプローチは、個々の人間を出発点においているのである。

 

 かくして、完全市場を前提としたこれまでの経済学を越えたアプローチが現在必要となっている、新制度派も潜在能力も、途上国の社会・文化・歴史への分析を志向しており、そうした研究から、「発展のオルターナティブ」が見いだされていくことであろう。

 

【コメント】

 

 マクロからミクロへ、国家から個人へ、静態的・画一的な一般的前提から、動態的・多様な具体的現実に基づく出発へ、という感じでしょうか。

 

 他の論文もそうですが、絵所さんの書いたものはこうした学問上の展開を実に手際よくまとめてあり、私のようなずぶの素人が読んで大まかな感じをつかむ上ではとても効率がよい文献だと思います(たしかAERAムックの「国際関係がわかる」にも同系統の文章が載っていたはず)。

 

 思ったことはいくつかありますが、今思い出せる限りでは、第一に、アプローチ間のタテの変化の考察が本論文の到達点であるとするならば、こんどはこれらのアプローチ間の横の関係に即して、「発展のオルターナティブ」というか、新たな包括的なアプローチを生み出していく可能性について考えていくことが次の段階での課題なのかな、ということです。

 

 他の社会科学と同様に、伝統的なアプローチを越えなければならない、という主張はここでもなされているわけです。そう認識することよりも、ではどのように越えていくべきなのかを考えるのが、おそらくこれからの仕事なのではないかな、という印象を持ちました。本論文では、一応潜在能力アプローチと新制度派アプローチがそれぞれ接点を持ちつつ研究を深めていけば「発展のオルターナティブ」が見いだされるのでは、というのが結論になっていますが、もっと踏み込んで、具体的にどういうオルターナティブが構想しうるのかについて、絵所さんの御説を拝聴してみたいと思うのは私だけではないような気もします。

 

 その点と関連して、潜在能力アプローチと新制度派アプローチが何をどこまで越えているのか、あるいは越えていないのか、という点について、本文でも若干指摘はありますが、そこをより厳密に検討していくことが必要でしょう。そしてそれらだけではなく、それ以前のアプローチもまた同様に、妥当性を失っていない部分があるとするならば、発展のオルターナティブ発見のためには総合していく必要があるようにも思います。

 

 第二点としては(これも第一点と関わるのですが)、ここでは、国家や人間そのもの、あるいは社会空間そのものの20世紀における意味合いの変容、という論点があまり考慮に入っていないような気がします。もちろん、主体や空間のありようの変化というのは、どちらかというと先進国の豊かな国のみに見られることである、と主張することも可能かもしれませんが、グローバリゼーションがもたらす世界観、国家観、人間観の変化は、先進国・途上国にかかわらず、地球大に及んでいると考えるべき問題のように思います。

 

 さらに屁理屈を付け加えれば、発展や開発が、先進国や国際機関やNGOなどのいわば「する側・助ける側」と、途上国などの「される側・助けてもらう側」の共同作業であるならば(この二分法の妥当性は別として)、よけいにそう思うわけです(その論点との関わりで言えば、センがある意味理想におく公共参加のありかたの歴史性みたいなものについても検討できるのかも)。

 

【参考文献】

 

絵所秀紀「開発経済学と貧困問題」、同「開発経済学のパラダイム転換と貧困問題」絵所秀紀、山崎幸治編『開発と貧困−貧困の経済分析に向けて』アジア経済研究所、1998年、3−38ページ、39−72ページ。

 

http://www2u.biglobe.ne.jp/~norichic/gakushuu.htm

卒論用の勉強をアップデートされているのですが、非常に忠実な学習ノートで、大変勉強になりました。

 

(芝崎厚士)

 

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