Note23-2 クラズナーの主権論に関する補論

2003/10/24第1稿

 

01 クラズナーへのインタビュー

 

http://globetrotter.berkeley.edu/people3/Krasner/krasner-con0.html

 

筋金入りのリアリスト、IPEの重鎮・・・などなどという私の勝手なイメージがあり、また明晰で首尾一貫としたきれいな文章を書くところからちょっと冷たい感じだなあ、というさらに勝手な(笑)印象さえ持っていたのですが、このインタビューを読んで、そうした印象を改めなければ、と思いました。

 

母子家庭で育ち、歴史を専攻し、ピースコープで2年間ナイジェリアへ行き中学校の先生をしていたこと、その後コロンビアの国際関係論で経済学の博士にいこうと思っていて、財務省でインターンをしていたらそこで同じインターンからハーバードのPolitical Economy and Government のコースがあることを聞いて、アプライしたら受かってしまって、そのまま入ったというひょんな偶然なども興味深いです。

 

この辺の経歴からも、歴史を厚く紹介していく彼のやりかた、そして経済学を専攻したことからくる(博論はコーヒー貿易の話だそうです)合理的選択論への関心など、彼の学問形成とその論文への反映がいっそう理解できるところです。

 

もちろんSovereigntyに関する質問も中心ですが、研究者を目指す人へのアドバイスなどもありますし、クラズナーの議論を知る上でも、また学者のあり方を学ぶ上でも、とてもいい内容でした。同書の鍵概念であるorganized hypocrisyに関しては、第一にそれは国際関係に限らず、一人一人の人間の生活そのものに通底するものであるという指摘がありました。第二に社会学者のジョン・マイヤーの示唆を得て、decouplingという概念をヒントに生み出したという指摘もおもしろいものがあります。また、第4の累計であるウェストファリア主権に関しては、正確にはヴァッテル&ウェストファリア主権であるべきだという修正もあります(ウェストファリア起源という神話には勝てないだろうと言っていますが)。

 

アメリカは、彼のいう4つの主権をほぼ完全に持っている数少ない国の1つかもしれない、と言っていますが、これはいくつかの面に分けて考えるべき論点です(そこからハート&ネグリの「帝国」論や藤原氏などの「デモクラシー帝国」論へと接続しうる論点であり、さらにアメリカこそ唯一の主権国家である、という逆説的表現の妥当性の検証へともつながるところでしょう)。

 

もう一つ、インタビュアーが「主権が堀り崩される(undermine)パターン」について質問したところ、彼は遮って「私はunderminedとは言っていないですよ。迂回される(worked around)んです」と答えているところにも注目したいところです。ワーク・アラウンドとは、コンピュータなどの世界ではよく使われるようですが、ここでは迂回する、という程度の意味かと思います。下記のペーパーの説明がもっとも妥当するように見えるのですが、間違っていたらどなたかご教示ください。

 

www.med.or.jp/anzen/index/seminar/2semijoan.pdf

 

02 対外的主権論と対人的主権論

 

前から思っていることですが、国際関係における主権論は、基本的に国家の主権が対外的にどういう意味を持つか、という問題として扱われてきたと思います。それはシュミットの本が示すように、主権とアナキーが国際関係という世界像を構成する上でもっとも重要な概念のセットであるからでしょう。

 

以前から漠然と思っていたことは2つあって、1つは前のノート23でちょこっと書きましたように、「主権」という言葉で様々な重複と差異を持ちつつ、多様な意味合いで表現されるものを別の分析概念で表現できないか、ということでした。もう1つは、こうした国際関係論の主権論と、フーコー以後の主権論との関わりをどう考えていくか、ということでした。

 

最近、知己の高桑君が訳出されたアガンベン『ホモ・サケル』(以文社、2003年)の最初の方と解説のところだけ、ざっと目を通しています。まだとばっ口の段階なので何とも言えないのですが、なるほど『知への意志』をさらに展開していくとこうした方向が見えてくるのだな、ということがよくわかります。西谷先生が『思想』2003年1月号でシュミットの「例外状態」をブッシュの戦争を理解する際に動員されている時にもアガンベンは参照されていたわけですが、その内的連関が、目を通した範囲でもなんとなくわかってきました。

 

http://www.iwanami.co.jp/shiso/0945/kotoba.html

 

先ほどのインタビューのところでもクラズナー自身がぽつりと指摘しているように、アメリカが主権をフルに享受している数少ない国の一つである、というあの理論が持つインプリケーション(ここにはクラズナーがアメリカ中心主義者であるかどうか、というようなレベルとはまた別の問題があるように思いますが)と、世界で唯一の主権国家として世界に対して「例外状態」を宣言して主権者として振る舞っているという西谷先生の指摘がここでリンクするようです。

 

国際関係が国際関係でなくなってしまうというようなイメージでしょうか。ラムズフェルドが「ウェストファリア体制は終わった」と述べたことも有名ですが、グローバリゼーションで主権が浸食されるということと、国際関係を基礎づける主権が超国家化するということとが同時進行しているという分析になるわけでしょうね。

 

この方向性は、世界全体が一つの主権者によって裁定される、という文脈から、フーコーやアガンベン(もちろんシュミット)が参照されていくということになると思います。

 

もう一つ私がなんとなく思うのは、論文評でもかつて紹介しました社会的主権論ではないですが、「主権」がさまざまなところに分散して所有され行使され機能することで、国境を越えて活動する人々だけでなく、国境を越えてそれらの、国家権力を通してだけでなく、ネットワークでもフローでもよいのですがそうした網の目が世界中の人々の生き方(あるいは死に方も、なのでしょうけれど)規定していく、というようなことです。最初の方向性はいわば国家権力が世界大化するような形での、政治・思想側の主権論が国際関係論へ浸潤していくようなものであり、こちらの方向性は国家権力だけではないいろいろなものが混ざり合って、誰が何をどうしているのかよくわからないような関係性の中で、人々を律してしまうような主権なのかなあ、と思いました。

 

うまい言い方ができないのですが、前者を対内的主権論の世界大化、後者を対人的主権論の「ネットワーク」化(ただし国家の役割はゼロではない)とでも言えばよいのかもしれません。じゃあこれとクラズナーの主権論はどうかかわるか、と言われると、さらにどう答えたらよいかよけいわかりにくいのですが、たとえば国内主権と相互依存主権はあまり重要ではなく、という形でグローバライザー批判をしていく論じ方自体が、実は既に前のノートでふれたスミスのクラズナー批判と共通の方向での批判を成り立たせるわけですが、と同時に、そうした主権のあり方や機能自体が、現実の国際関係にどう影響を与えているのか、という話へともつなげていくべき、ということになるのかもしれません。それは個人というものの作り方・作られ方の変容であり、そうして変容している個人たちが作る社会や国家のあり方の変容であるのであれば、クラズナー的な国家間関係理解を単に国家中心主義という意味で批判する以上の何かを出せることがありえるのではないか、というような話も見えてきそうです。国内主権と相互依存主権がグローバリゼーションやネットワーク化によって横にずらされていき、国際法主権とウェストファリア主権がホッブズのアメリカとカントのヨーロッパ(ケーガン的に言えば)によって縦にずらされていく、というようなことになりますか。。。

 

03 役割適合性の論理と合理的期待の論理

 

これについては、「愛とエゴイズム」の議論でもう少し整理できそうに思えるのですが、今回はここまでとしておきます。

 

以上、すっかりとりとめもなくなってしまいましたが、アガンベンを手がかりにして、もう少し考えを進めるきっかけとしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

(芝崎厚士)

 

 

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