演習室23 「主権」のタイポロジー

Seminar 23 Typology of 'Sovereignty'

第1稿 10/30/01

 

【テクスト】

 

Stephen Krasner, "Sovereignty and Its Discontents", Krasner, Sovereignty: Organized Hypocrisy, Princeton University Press, 1999, pp. 3-42.

 

【目次】

 

(introduction)

 

1. Four Meanings of Sovereignty

 (1) domestic sovereignty

 (2) interdependence sovereignty

 (3) international legal sovereignty

 (4) Westphalian sovereignty

 

2 Modalities of Compromise

 (0) overview

 (1) conventions

 (2) contracts

 (3) coercion and impositions

 

3 Conclusions

 

【内容】

 

クラズナーの主張はおおよそ、以下のようにまとめることができると思います。

 

前提:

 

(1)ここでの主体=支配者(rulers)

(2)支配者の行動の前提=支配者は自らが権力の座に居続けることを望み、権力の座に着いている間は、版図(=自国)の安全保障、繁栄、価値を促進することを望む。

 

T 「主権」概念には、@国内主権(domestic sovereignty)、A相互依存主権(interdependence sovereignty)、B国際法上の主権(international legal sovereignty)、Cウエストファリア主権(Westphalian sovereignty)の4つがある。本稿では主にBCについて考察する。

 

U 国際法上の主権、およびウエストファリア主権が侵害されるケースとして、@協定(conventions)、A契約(contracts)、B強制(coercion)、C賦課(impositions)の4つがある。

 

V 国際社会はアナーキーであるため、役割適合性の論理(logic of appropriateness)よりも合理的期待の論理(logic of (expected) consequences)が優越する。

 

W 国際法上の主権、およびウエストファリア主権の特徴は、それが「組織的偽善」(organized hypocrisy)である、という点にあり、「組織的偽善」が国際社会を規定している。

 

以下、それぞれの論点に即して説明を加えていきましょう。

 

T(「主権」概念の多様性)

 

 主権の溶解、主権の変容、といった議論が近年なされてきたが、具体的に何をもって「主権」とみなして議論しているかが曖昧である、そこで整理をすることが必要だというのがクラズナーの見解。

 

 @国内主権(domestic sovereignty):国家内部における公的な権威を持つ政治組織、およびその権威が行使している実効的な支配

 A相互依存主権(interdependence sovereignty):公的な権威が国境を越える人、モノ、カネ、情報などの流れを支配する能力

 B国際法上の主権(international legal sovereignty):諸国家や諸主体の間の相互承認

 Cウエストファリア主権(Westphalian sovereignty):国内の権威から国外の主体の容喙を排除する

 

U 主権侵害の4類型

 

 類型を構成する2つの軸:

 

 @contingentか否か(自分の行動が相手次第か否か=相手の行動次第で自分の行動が変わるかどうか)

 Aパレート改善か否か(パレート均衡に達していないか否か=その行為を行うことでさらに自分の厚生を改善できるかどうか)

 

 4つの類型:

 

 @協定(convention)条件的×、パレート改善:参加している国がそれを守ろうとどうしようと、自発的に参加し、参加することによってさらに厚生を高めることができる

 A契約(contract)条件的、パレート改善:相手がそれを守らなければこちらも守らない。自発的に特定の相手との間で結ばれる。参加することで厚生をさらに高められる。

 B強制(coercion)条件的、パレート改善×:言うとおりにする場合もあれば、そうでない場合もある。自発的にではなく、一方的に押しつけられる。強制された側は厚生を高めることはできない。

 C賦課(impositions)条件的×、パレート改善×:行動に選択の余地はなく、言うとおりにするのみ。自発的にではなく、一方的に押しつけられる。強制された側は厚生を高めることはできない。

 

V 主体の行為を説明する二つの論理

 

 @合理的期待の論理(logic of (expected) consequences):自己の選好(または利益)を最大化する合理的な計算に基づいて行為が行われる(もっとも得をする行為は何か) 古典的ゲーム理論、ミクロ経済学

 

 A役割適合性の論理(logic of appropriateness):自己に与えられている規則、役割、アイデンティティにふさわしい行為が行われる(もっとも自分にふさわしい、なすべき行為は何か) 社会学 (ここでは社会学で言う「役割理論」からヒントを得て「役割適合性」と訳してみました)

 

 情報が不完全で、アナーキーで、原則と規則が矛盾することがあり、パワーの対称性が高く、広く承認され認められている諸原則が常に支配者の利益を促進するとは限らない国際社会においては、Aが完全に実現されることはあり得ず、@Aに対して優越している。

 

W 組織的偽善

 

国際法上の主権、およびウエストファリア主権の特徴としての「組織的偽善」(organized hypocrisy):双方とも、実際には常に侵害されてきたにもかかわらず、支配者たちはそれが不可侵のものであることを主張する。

 

 こうした性格は、合理的期待の論理が役割適合性の論理に優越していることから帰結される。そうした建て前と本音の使い分けによって、支配者たちは自らの実質的な支配を維持し、高めようとしている。

 

【コメント】

 

T クラズナーの狙いについて

 

 クラズナーの狙いは、一つにはグローバリゼーション研究の一部に代表されるような、「主権国家の崩壊・無効化」と言った素朴な国家の溶解、主権の崩壊を主張する議論に対する反論ということがあると思います。

 

 第二の狙いとしては、社会学的な理論構成を導入して、言ってみれば役割適合性の理論から国際関係を説明しようとするコンストラクティビズム(の一部)に反論を加える、ということがあるようです。

 

 第一の狙いは、まず主権の4類型を持ち出して、主権の要素を分解して、そのすべてが一気に変わってしまったり、無化されてしまったわけではない、という主張によって達成され、次に、「組織的偽善」によって、主権概念の「変容」と呼ばれるようなものが、そもそも主権という概念が持つ性格の範囲内で生じうるものであるという形で、主権の本来的な性格の中に、グローバリゼーション研究者たちが指摘する根本的な変化をある程度まで囲い込むことで完結している、とでも言えばよいでしょうか。

 

 第二の狙いは、国際社会がアナーキーである以上、国内社会を想定した役割適合性の論理が貫徹されることはない、従ってやはりこれまで通り、合理的期待に基づく主体の行為の絡み合いとして、いわばリアリズム的に捉えなければならない、という主張によってまず達成され、次に、「組織的偽善」によって、役割適合性の論理が当てはまらないわけではないが、そうした理論が適用されるのは、合理的期待の論理が破綻しない範囲内に過ぎない、という形で、国際関係における主体の本来的な性格の中に、コンストラクティビズムが主張するような社会学的な役割適合性に基づく行為を囲い込むことで完結している、というふうになるように思いました。

 

 目の覚めるように論理的に一貫した議論で、彼の頭の良さがイヤでも(笑)伝わってきます。

 

U クラズナーの論理構成について

 

 クラズナーがそのあと出した本(Krasner ed., Problematic Sovereignty)は、まだ読んでいないので何とも言えないのですが、とりあえず非常に参考になるのが、クラズナーとスミスの論争(1、2)が載っているInternational Relations of the Asia-Pacific 1-2(これは日本国際政治学会の英文紀要です)です。

 

 これに掲載されている論文でスミスは、フーコー、アグニューらの批判的地政学、そしてウォーカーに依拠して、クラズナーはただ単に、グローバリゼーションに伴う政治そのものあり方、ガバナンスそれ自体の根本的な変化に懐疑的であるが故に、これらを否定し、グローバリゼーションの進展自体を過小評価しようとしているだけである、と断じます。

 

 グローバリゼーションに対する態度としては、(1)過度に変化とその達成を強調するハイパーグローバライザー、(2)グローバリゼーションのもたらす変化を過小評価する懐疑論者(スミスによればクラズナーはこれ)、そして(3)現在進行形でさまざまな変化が起こっていると考える変容論者がある、とのべます。

 

 そしてスミス自身は、(3)の立場に立ち、グローバリゼーションは主権の根本的な性格を変容させ、国家、ガバナンスのありようそのものを変えていると考えていること、そうした世界においては合理的期待の論理よりもむしろ役割適合的な論理の方が、常に構築され、強化される社会的実践として、国家、グローバリゼーション、政治、主権を把握するべきであるというスミスのコンストラクティビスト的な把握からは優越する、というわけです。

 

 ここまで来ると、スミスとクラズナーの対立は優劣ではなく、存在論的、もしくは認識論的に相容れない(共約不可能incommensurable)性格のものであると考えて良さそうです。それにしても、どちらか一方が正しければどちらか一方が誤りである、という形の論争によって、現実に起きている変化を理解できるのかどうか、私にはよくわからないのですが。。。

 

 無理矢理難癖を付けてみますと、たとえばクラズナーの言う「組織的偽善」、これは実にうまくできている論理装置のように見えますが、ちょっと考えてみると「組織的偽善」という論理を使いこなす、という論理はそれ自体合理的期待の論理に他ならないのではないか、という疑問が出てきます(そのことは、19世紀の東アジアの、「西欧の衝撃」に対する対応を「組織化された偽善」で説明しようとした1論文を読んでいてふと思いました)。

 

 だとすると、クラズナーが囲い込んで持論の勝利を立証したかに見えていても、やっぱり存在論的に別の立場からものを言っているだけに過ぎないような気もします。

 

 あと、これはさらに飛躍した話になりますが、「主権」を分析する際に、「主権」という分析概念で分析するよりも、さらに上位の、研究者主体の分析概念を創り出してみるのも面白いかな、と思っています(この点は、論文評の「社会的主権論」もご参照ください)。国際関係研究に置いては、研究者の分析概念と、実践者の使う実践概念とは渾然一体としていることが多く、そこを剥離するような視点を作ることで、何かもっとすっきりとした話になるのではないか、という思いつきです。具体的な代替概念としては現在考え中です。

 

 クラズナーの場合、分析者と実践者の概念を総ざらえして、歴史的展開をあえて平面的に整理しているわけですが、この点についてクラズナーを非難することはあまり益がなさそうです(そもそもそういう発想が必要な分析をしようとしているわけではない以上)。「主権」概念の歴史性という問題は、前回のシュミットの本もそうですが、個人的には3の蝋山論文がおすすめです。スミス論文で引用されているウォーカーなどと、問題関心的にはほとんど変わらない議論(ある意味ではこちらの方がかなり鋭い)を、50年以上前に展開しています。

 

 どうもまとまりませんが、とりあえずこの辺で。

 

【参考文献】

 

Stephen Krasner, "Organized hypocrisy in nineteenth-century East Asia", International Relations of the Asia-Pacific 1-2 (2001), pp.173-197.

Steve Smith, "Globalization and the governance of space: a critique of Krasner on sovereignty", ibid, pp. 199-226.

Martin Griffith, "Stephan Krasner", Griffiths, Fifty Key Thinkers in International Relations, Routledge, 1999, pp. 31-36.

4蝋山政道「国際社会における国家主権」『近代国家論第一部 権力』弘文堂、1950年、1−66ページ(のちに講談社学術文庫にも収録)。

 

 

(芝崎厚士)

 

 

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