演習室17(5) 見田宗介『宮澤賢治』(第4章)

Seminar17-5 Mumesuke Mita, Miyazawa Kenji, Chapter 4

01/08/17 第1稿

 

【目次】

 

 第四章 舞い下りる翼

 一、法華経・国柱会・農学校・地人協会−詩のかなたの詩へ

 二、百万疋のねずみたち−生活の鑢/生活の罠

 三、十一月三日の手帳−装備目録

 四、マグノリアの谷−現在が永遠である

 

【内容】

 

 第四章 舞い下りる翼

 

 一、法華経・国柱会・農学校・地人協会−詩のかなたの詩へ

 

 賢治の人生には六年ごとに画期が訪れている。すなわち、十二歳の時の銀時計事件、十八歳の時の法華経との出会い、二十四歳の時の上京・国柱会・農学校、翌年のトシの死、三十歳の時の羅須地人協会、三十六歳の死。

 法華経は賢治に、<具象化された観念性>、すなわち彼が元々持っていた資質を、華麗な時空間、自在な変換の力を表現し、つかむ契機となった。しかし賢治は摂折問題をめぐる倫理的恫喝を過剰に受け止めて、上京して国柱会入りする。しかしそこでの活動はあまりに不毛であった。

 トシの病気を契機に花巻へ持った賢治は、創作活動に花を咲かせ、そして農学校教師としての愉快で楽しい四年間を過ごした。彼にとって教師とは、人々の中にとけ込もうとする願望と、とけ込むことの出来ない資質をバランスしてくれる「役目」であったのである。彼の資質を破綻なく活性化できるのは、「生活の下半身(性と生産)を捨象したままの魂の融合」であり、児童はその格好の対象であり、彼の童話作品はまさにその意味で<りんご>であったのである。

 しかし賢治は、独身禁欲を通すことによって性を捨象したが、生産を捨象することを自らに許さなかった。そして踏み出した羅須地人協会の二年間は、賢治がもっともその思想を純粋に近いかたちで生きた年月であり、その思想の靱さ・深さ・限界・破綻を露呈するものであった。

 

 二、百万疋のねずみたち−生活の鑢/生活の罠

 

 彼が羅須地人協会で追求しようとしたものは、<存在の祭りの中>への自己解放としての下降要求であり、それは単なる農村の<共同性>に入ることではなく、その下にある<自然性>へ届くことであった。そういう要求は、現実の農民や自然に対して幻想を抱くことであり、実際地人協会での活動は、賢治に生活の共同性の重力を否応なしに経験させることになった。

 しかし賢治はそれに対して<子供であり続けること>を思想として選び取った。とはいえそれは親の援助によってはじめて可能であったものであり、功利性の罠を延べ払いにしていたのであった。そして賢治はもう一つの罠である生活の罠。すなわち身体の限界に直面して倒れることになる。しかし賢治はそういう破綻にいたり抜くことを選んだのである。

 こうして賢治は、<詩のかなたの詩><生活のかなたの生活>を実践し続けたのである。そうして昼間の詩を求めて<ねずみ>として<みじん>になることへ向かい続けたのである。

 

 三、十一月三日の手帳−装備目録

 

 病に倒れた賢治にとって克服すべきは、<身体性の罠>と<エゴイズムの罠>であり、「雨ニモマケズ」の手帳は次に立ち上がるための装備目録であった。自己の身体−存在を再構築し、エゴイズムとしての「慢」の解体していくこと。しかし彼はそこから二度と立ち上がることはなかったのである。

 

 四、マグノリアの谷−現在が永遠である

 

 賢治の生涯は挫折であっただろうか?しかしそれは「成功」という意味に生活を外化してしまうような、貧しいものの見方であろう。「私たちがこの生の年月のうちになしうることは、力尽くさずして退くことを拒みぬくこと、力及ばずして倒れるところまで到りぬくことのほかには何があろうか。」

 「マグノリアの木」で示されているように、「いまここにあるこの刻の行動の中に、どのようなかなたも先取りされてある。」「このでこぼこ道だけが彼方なのであり、この意地悪い大きな彫刻の表面に沿って歩き続けることではじめて、その道程の刻みいちめんにマグノリアの花は咲く」のである。

 

【コメント】

 

(芝崎厚士)

 

 

 

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