演習室17(3) 見田宗介『宮澤賢治』(第2章)

Seminar17-3 Mumesuke Mita, Miyazawa Kenji, Chapter 2

01/08/15 第1稿

 

【目次】

 

第二章 焼身幻想

 一、ZYPRESSENつきぬけるもの−世界に対して垂直に立つ

 二、よだかの星とさそりの火−存在のカタルシス

 三、マジェラン星雲−さそりの火は何を照らすか

 四、梢の鳴る場所−自己犠牲の彼方

 

【内容】

 

第二章 焼身幻想

 

 一、ZYPRESSENつきぬけるもの−世界に対して垂直に立つ

 

 賢治が「春と修羅」などで使うZYPRESSEN(イトスギ)という表象は、彼自身の<嫌悪の自画像>の否定を示しており、天空に至ろうとする地上の生の垂直な軌跡であった。

 

 二、よだかの星とさそりの火−存在のカタルシス

 

 「よだかの星」「さそりの火」「グスコーブドリ」などに代表される「焼身」願望は、何らかの目的に先立って、いわばそうした死の形態が先行して選ばれている。その理由を端的に示すのが、「ネネムの伝記」に出てくる「出現罪」であった。これは行為の罪ではなく、存在自体の罪なのである。

 こうして焼身とは、存在自体が罪である自己を抹消すること、自己の身体の全的な消去の衝動の直截な表現なのであった。しかし、それではあまりに不幸な帰結であろう。正しく存在するためには自己を消去しなければならないのであるから。

 しかしここでの死は、「存在のカタルシスとしての死」であった。すなわち何度でも繰り返すことの可能な死であり、新しい存在の仕方へ、再生へ、存在の転回へと向かう死なのである。

 

 三、マジェラン星雲−さそりの火は何を照らすか

 

 「銀河鉄道の夜」の初期形で、ジョバンニに課されるのは<プレシオスの鎖>を解くことである。これは、生活依存の連鎖がすなわち殺し合いあるということとどう向き合うか、という、<最後の問題>であった。

 個体の生命を絶対化する限り、生活依存の連鎖は食物連鎖、ホッブス的な近代史民社快感と同様<殺し合い>の連鎖でしかない。しかし、そうした立場から脱却することが出来るならば、<プレシオスの鎖>は<殺し合い>であると同時に<生かし合い>、<支え合い>の連鎖でもある。とはいえ、そうした脱却が現状肯定や自己正当化に陥らないためには、「わたし」の生命を絶対化する立場を離れる、ということが真実でなくてはならない。そしてそのことを証明するには、単なる知ではなく、自己犠牲という行為によるしかない。賢治はこのように考えていったのではないであろうか。こうして<さそりの火>が照らしたのは、生命連鎖の世界の全景の意味の転回であった。

 

 四、梢の鳴る場所−自己犠牲の彼方

 

 ところで、焼身は情念の問題であり、自己犠牲は論理の問題であって、両者は異なるものである。賢治は自己犠牲にとどまったのではなく、自己犠牲の彼方にある闇と光をも見通していたのである。

 そのことを示すのが「学者アラムハラドの見た着物」であった。ここでアラムハラドは「人がなんとしてもさうしないではゐられないこと」を問い、自己犠牲的な答えの後セララバアドは「ほんたうのいゝことが何だかを考えないでゐられない」と答える。そしてこの問いは誰にも答えられないのである。こうして自己犠牲は<倫理の相対性>という恐怖に直面する。

 ある自己犠牲はその犠牲によって傷つくことを生んだり、またその自己犠牲自体が正しいかどうかは誰にも分からないのである。「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう」「僕わからない」という「銀河鉄道の夜」の会話はそれを如実に示す。

 こうして、<自己犠牲>には、息苦しさがつきまとう。それはそれ自体が「犠牲」であること、そして何かのため、という「役立ちの図式」にはまっているからである。

 しかし翻って考えてみると、<自己>とは罪である前に罰である存在である。つまり自己とは、禁圧される前に解放されるべき存在であったはずである。そうであるならば、「賢治が本当に行こうとしたのは、−賢治の合理化された観念がではなく、賢治のほとんど無意識の夢が行こうとしていたものは、−<自己犠牲>ということを至上の観念としなければならないような世界の重苦しさのかなたへ、自己犠牲ということをもまたそのほかのこととおなじに自在に、それと気づかれぬほどにも自在におこなうことのできる、ひとつの自由、ひとつの解き放たれた世界ではなかっただろうか。」それがアラムハラドの見た、梢の鳴る場所なのである。

 

【コメント】

 

 

 

(芝崎厚士)

 

 

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