演習室17(1) 見田宗介『宮澤賢治』(序章)

Seminar17-1 Mumesuke Mita, Miyazawa Kenji, introduction

01/08/13 第1稿

 

【テクスト】 

 

見田宗介『宮澤賢治』岩波現代文庫版、2001年。

 

【目次】

 

あとがき(1984年版)

序章 銀河と鉄道

 一、りんごの中を走る汽車−反転について

 二、標本と模型−時空について

 三、銀河の鉄道−媒体について

 四、『銀河鉄道の夜』の構造−宮澤賢治の四つの象限

 

【内容】

 

あとがき(1984年版)

 本書の主題は、「人間の<自我>という問題、つまり<わたくし>という現象は、どういう現象であるのかという問題」である。この問題を、宮澤賢治を通して「近代日本の<自我>の可能性と限界」を測定していくことになるのである。

 さらに言えば、この仕事は「<自我>をとおして<自我>のかなたへ向かうということ、存在の地の部分への感度を獲得すること」へと最終的には向けられているのである。

 

 

序章 銀河と鉄道

 

 一、りんごの中を走る汽車−反転について

 

 賢治作品に頻繁に出てくる<りんご>。これはいわば四次元世界の模型としての意味を持っている。<りんご>とはその形状が示すように、内にあるものが外にあるものに、外にあるものが内にあるものにあること、つまり、内部にありながら同時に外部にある、という自在な変換・反転を象徴している。そうした視座の自在の変換や反転もまた、賢治の特徴である。

 そしてこうした内部と外部の自在な反転は、空間の性質でもあり、時間の性質でもあり、対象的「世界」の性質でもあり、主体的「自己」の性質でもある。こうした反転をはらむ<銀河>と<鉄道>のイメージが持つ可能性が、「どのように賢治の開示する目もくらむような<解放>の土台を用意するものであるか」が、本書で問われていくことになる。

 

 二、標本と模型−時空について

 

 次に検討されるのは、賢治において<標本>と<模型>の持つ意味である。普通の意味の「標本」は、「たくさん存在しているものの任意の一つで、ほかの存在しているものを大言して代表するもの」であるが、賢治にとっての<標本>とは、「存在しないものの存在のあかし」であり、現代には存在しないとされるものの存在の証明である。

 こうした発想の根底には、おそらく相対性理論から影響を受けたであろう、時間も空間も一つの次元として、つまり過去も未来もこの世界の内部に存在しているのだという認識がある。こうした<三世実有>性、すなわち時間の内に生起する一切のものの永在性こそ、賢治の時間感覚、空間感覚の特徴である。

 もしそうした時間・空間感覚を持つならば、<過去>や<未来>はどこか遠くにあるのではなく、我々の周囲に、すぐそばにあるはずである。いわばありきたりの現実の中からそうしたすぐそばにある<過去>や<未来>を、現実を透き通らせることによって見いだすことが可能なのである。

 一方「手の中の宇宙」としての<模型>もまた、同じ働きをしている。<標本>は「現在の中に永遠をよびこむ」が、<模型>は「この場所の中に無限を包み込む」のである。こうして現在のこの場所には永遠と無限があるのである。

 「ひとつの<時>の内側にすべての過去と未来とがひろがるとすれば、そのような過去や未来のそれぞれの<時>の中にも、またそれぞれの過去と未来がひろがるはずであり、そしてまた<模型>が象徴するように、ひとつの局所の中に世界の総体が包摂されうるものであるならば、そのような世界の中のひとつひとつの微細な局所にも、またそれぞれの世界が開かれてあり得るはずである。それは私たちの生きる時間と空間が限られたものであるということに、絶望することには根拠がないということを、開示する世界像である。」

 こうした世界像を端的に示すものが、「インドラの網」である。インドラの網は、「空間」としては、「それぞれの<場所>がすべての世界を相互に包摂し映発し合う様式の模型」、「時間」としては、「それぞれの<時>がすべての過去と未来とを、つまり永遠をその内に包む様式の模型」、「主体」としては「それぞれの<私>がすべての他者たちを、相互に包摂し映発し合う、そのような世界のあり方の模型」である。

 

 三、銀河の鉄道−媒体について

 

 ここで検討されるのは、<鉄道>というメタファーの意味である。近代日本において鉄道は、「近代化日本の幻想装置」とでも言うべき役割を果たしていたが、それは現実には、賢治の時代には、すでにそうした幻想を裏切るものでしかなかった。

 賢治もまた、何度か鉄道に乗って東京へ向かい、幻滅を覚える。また妹の死を乗り越えるべく鉄道に乗って幻想の旅に出る。賢治はそうすることでさらに先へと行こうとしていた。すなわち、「現実のような幻想」である閉空間東京に向かう鉄道からさらに、「幻想のような現実」である異空間宇宙へと向かう銀河鉄道へと向かうのである。鉄道という幻想が想像力の解放であったのに対し、今度は銀河鉄道という幻想が想像力の解放の解放をもたらすことになる。

 

 四、『銀河鉄道の夜』の構造−宮澤賢治の四つの象限

 

 『銀河鉄道の夜』は三つの部分を持っている。それは(1)祭りの外、(2)祭りの軸、(3)祭りの中、であり、(1)(2)において上昇し、(2)(3)において下降する物語である。

 そしてこの物語は、単なる上昇と下降の物語ではなく、否定性から公定性への転回、<幻想の海路を通しての自己転回>の物語である。それは言い換えれば、カンパネルラという<対の愛>の獲得と喪失によって、<存在の愛>へとジョバンニが押し出される過程である。そう考えてみると、ジョバンニはつねにカンパネルラの不在をめぐっているのであり、ジョバンニは(1)祭りの外、(2)祭りの上、(3)祭りの後をめぐっている。

 その不在を通して、ジョバンニは<世界>の外にあることから<世界>の内にあることへと自己転回を遂げている。ここでは「世界」とは、我々が現実だと思っている世界であるが、<世界>とはそうした「世界」をすべて含んでしまっているような、「存在の地」のようなものである。

 

 宮澤賢治の生涯を考察する際に、四つの循環する象限を考えることが出来る。それは、@幻想形態(「世界」の外)と現実形態(「世界」の内)、A存在否定(<世界>の外)と存在肯定(<世界>の内)という軸に基づいている。

 

 第一象限(現実形態と存在否定、「世界」の内と<世界>の外)は<自我の羞恥>、すなわち生きることの原罪である。

 

 第二象限(幻想形態と存在否定、「世界」の外と<世界>の外)は<焼身幻想>、すなわち過激な自己否定への願望である。

 

 第三象限(幻想形態と存在肯定、「世界」の外と<世界>の内)は<存在の祭りの中へ>である。

 

 第四象限(現実形態と存在肯定、「世界」の内と<世界>の内)は<地上の実践>である。

 

 「それらはひとつの作品やあるいはひとつの生涯のなかで、ただいちどだけ進行して完結してしまうという主題の連続ではない。それらの主題は、こんにちもなお、どのような思想によっても解決しつくされているということはないし、もしわたしたちがその問いを問おうとしないなら、必ずそれらの問いの方からやってきてわたしたちを問い続けるような、そのような本質的な問いの環に他ならないからである。」

 

【コメント】

 

 内部と外部を自在に行き来し、視座を反転させていくこと。時空を自在に行き来し、すべての局所・「局時」(造語です)にすべてが存在しているという感覚を持つこと。「解放の解放」というメディアとして銀河鉄道を走らせること。そのことによって<世界>と「世界」の内と外を行き来していくことによって、生涯を通して循環して降りかかっていく問いの環に立ち向かっていくことで、我々は生き抜いていくのだということ。そうした力、「存在の地の部分」を見つめることで自らの性を空虚にすることなく(問いに屈して絶望してしまうのではなく)、現在の自分自身を豊かに充実させていくこと。そうした生の可能性を、おそらく見田さんは見ているのではないでしょうか。

 ここでの考察はあくまで準備体操なので、1〜4章(これが第一から第四象限にそれぞれ対応しています)を読んでいく内にここでの基礎作業が効いてくることでしょう。

(芝崎厚士)

 

 

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