演習室16(4) 大森荘蔵『流れとよどみ』(10−12)

Seminar16-4 Shozo Omori 10-12

01/08/16 第1稿

 

【目次】

 

 10 同じもの、同じこと

 11 身振り、声振り

 12 逆さメガネと股のぞき

 

【内容】

 

 10 同じもの、同じこと

 

 仏教の刹那減やヘラクレイトスの万物流転論を待つまでもなく、万物は時間的に刻々と滅びていっているのであって、「同じもの」はあり得ない。しかし人は「同じ」ということをよく使う。その意味は、「不変不動」ではなく、絶えず移ろい変わりながら同一である、ということである。

 「同じ」ということが言える条件はあるのではないであろうか。しかし、同じという条件には次のような性格がある。第一に、それは対象となるものによって異なる、異なる同一であるということ。第二に、条件の前にある、文化の中で「できあがっているもの」をなぞることでしかないということ。

 「同じ」ということには、はかなさや心許なさがある。それは私自身にも言えることである。結局、私は引き続いて私であり、そして引き続いて私であること、私の体験そのものが引き続いている限りは同一の私なのである。

 

 11 身振り、声振り

 

 人間は、「音のない映像」には奇妙さを感じるが、姿のない音には違和感を覚えない。それはおそらく、声が手足や顔と同様、「人」の一部だからではないか。つまり、声は固形物としてのものではなく、生身の流動的部分なのであり、人の欠けてはならない部分なのである。

 だからこそ、「声を聞く」ということはその人に触れられることであり、「互いに声を交わす」ということは互いにふれあうことなのである。つまり声の絡み合いは固形的触れ合いではないが、肉体的接触なのである。

 声は人の一部であり、人の身の内である。したがって声振りは身振りの一部であり、人はそれを美しく保とうとするし、人は声によって動かされもするのである。

 また、声振りによって人は情景を立ち現せることもできる。それは知覚的な立ち現れではなく、思い的な立ち現れである。思い的な立ち現れの対象は過去ばかりではなく、未来、そして空想をも含むのである。

 

 12 逆さメガネと股のぞき

 

 双眼鏡やズームレンズで覗く世界は、実際に近寄って見える世界とは違う。ではそれは本物ではない偽物なのであろうか。そんなことはない。ではそれはまぼろしに過ぎないのか。そう考えるならば、人は「写しの比喩」にはまっているのであり、レンズであろうと目というレンズであろうと、人はすべて本物ではなく「像」を見ていることになってしまうのである。

 そうした「覗き見的構図」にはまる必要はない。実際には我々は世界の渦の中にいるのであり、世界にじかに接し、世界をじかに見ているのである。すべては本物であり、じかの風景なのである。

 

【コメント】

 

(芝崎厚士) 

 

 

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